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2012年10月6日土曜日

山の辺の道歩き w/ LUMIX TZ1

天皇陵巡りシリーズの一環として、前から行ってみたかった山の辺の道へ。
かなりの距離を歩くことになるので、早めに出かけた……つもりだけど結局着いたの11時だった。

カメラは、珍しくパナソニックでLUMIX TZ1。
初めてLUMIX初期モデルの写りを見て、うーん、と思い、その後実際にDMC-F7を手にしてこれまたうーん、と思い、まあ、長らくLUMIXは選考対象から外していた。
しかしその後、意外な形でパナソニックに縁ができ、ちょっと一考してみようかなあ、と思ってるところでTZ1が転がってきた。
2001年当時から2006年になって、どれくらい変わったか。
これが良ければ、PENTAX K-xを買い換えるとき、LUMIXの上位機種を選考対象に加えるかも。





近鉄を乗り継いで天理駅へ。
これまで走ってきた田園風景からすると意外なくらいの、かなり多人数の乗降を考慮したような広いホーム。天理教の祭日にはかなり大勢利用するとかで。


駅から出ると、近鉄とJRのホームが融合していて、えらく巨大。
地元では「天理総合駅」という呼ばれ方をしているそう。昔別だったJRと近鉄の駅をくっつけたときにその名がついた。

駅前を天理教の方が掃除してらしたりすると聞いたが、特に見つけられなかった。
代わりに、エホバの証人の方が3人、ものみの塔を配っていた。天理教に攻撃的なイメージはないからケンカになったりもするまいけれど、それにしても……。

駅前の観光案内所に寄って、声をかけてくれた係の方に山の辺の道を歩きたい旨伝えると、地図と観光ガイドをいただけた。他所の観光案内所より少し親切な感じ。

しかし駅裏手すぐの公園に、鉄道車両など展示していたらしいのに、うっかり見落としてしまった。又の機会に。


駅前に、海獣葡萄鏡というのが飾られている。
無論レプリカで、5倍サイズに拡大してある。昭和56年に競技場を建設していたら発掘され、今は天理参考館(天理大学付属)にあるそう。


駅前アーケード商店街。
なんというか、昭和のまま残ってる商店街は他にも色々あるけれど、普通はやっぱり、シャッターが多かったり、商店がなんだかんだで平成化していってたりするものだけど、ここは閉まってる店も少なく、店もなんとなく昭和なまま。
昼食を取ろうかと思ったら、寿司屋か蕎麦屋かという感じ。チェーン店なんて、外れたところに大阪王将一軒しか見当たらない。しかも、どうも開店時間が11時半のところが多い。まだ開いてない……

やってる寿司屋を見つけ、鉄火巻きと蕎麦のセットがあるというので入ってみた。
かなりご高齢のお爺さんが握る店であった。店の中も、ちょっとずつ平成に侵食されながらも抵抗し続けている雰囲気。
しかし客筋のせいだろうか、鉄火巻きの味はいいとしても、そばの量が想定の半分ぐらいで、いくら最近小食になってきた30過ぎの私にも、さすがに物足りない感じ。ううん。

まあ、和菓子屋なども多かったので、買食いしながら歩こう、と思うも、店の前で逡巡するばかりで結局買いそびれた。どうも食べ物に優柔不断だ。
天理教と大書したTシャツが方々で売っていて、そっちが気になってしまっていた。
(土産物の微妙なTシャツを買うのが趣味なのだが、これは土産物の微妙なTシャツと呼ぶべきではないので結局やめた)


商店街を通り抜けると、いきなり天理教の本部教会の目の前に出てしまった。
ここ部外者入り込んでええの?というくらいの、神社でいうなら拝殿前みたいなところに出たので驚いたが、まあ、多分、通りすぎるのはええんだろうと思う。


県道51号線を超え、案内板通りに石上神宮へ。


柿がたくさん生ってる季節。
コンパクトカメラながら、10倍ズームで望遠端52mmF4.2(換算350mm)ともなると、かなりボケを出したマクロ撮影ができる。
ただ、マクロモードと通常モードでAF測距点の選択が違う感じ。
通常モードだと、なんだかど真ん中のものに合焦せず、わざわざ外側の測距点で奥を拾う。液晶では合焦してるように見えるところまでピント動いてるんだけどなあ。
マクロモードだと、近くに合わせようとする感じ。
とはいえ、通常モードの最短は2mらしいから、やっぱり最短に引っかかってただけかもしれない。

絞り優先モードがないから、ボケ量をコントロールできないのもちと寂しいか。


石上神宮といえば、御にわとり様。
何か曰くがあるのかと思ったら、20年くらい前に誰かが放ったのが居座ってしまって、なんとなくそのまま神の使いということになったもんだそう。神道はそれくらい大雑把でいいと思う。




一度来たことはあるけれど、お参りはしていこう。

日本書紀の頃には、神宮というのは伊勢神宮か石上神宮しかなかったくらいの格。
布都御魂剣がご神体で、祭神は布都御魂大神。武甕槌と経津主命による葦原中国平定に使われた剣とされている。
もともと布都御魂剣を物部氏が祀ったことで始まった神社で、大和政権の軍事担当だった物部氏だけに、武器庫として使われてもいたとか。


ここから、南へ歩き始める。


かかしが多い。


多いのみならず、美少女・イケメン・ブスとバリエーションに富む。
明らかにそっち系の文脈の顔をしてるが、農家の娘さんあたりの趣味やろか。


永久寺跡というところにきた。
永久寺といいつつも絶えてしまっているが、永久年間(1113-1117)に建立された、石上神宮の神宮寺。かつては大伽藍を誇ったそうだが、衰退していって廃仏毀釈運動でとどめを刺され、今はこの池が残るだけ。
あたりはすっかり農地化されていた。


山の辺の道は、舗装された2車線の車道の部分もあれば、こんな道もある。
とはいえ、ハイキングする人が多いので、こんなところでも結構ひととすれ違う。遭難の恐れなんかはないので、山道歩いてみたいというなら安全でいいかも。


時々集落がある。


秋桜もよく咲いてる。


これは何の花だろう?


菊芋というやつだろうか?
まだ日差しがあるとちょっと暑いくらいなせいか、なんとなく夏っぽい花。


H.A.M.A.木綿庵という団体が、コットンボールを売る店を立てていた。
そろそろ実がはじけて収穫の時期だそう。


夜都岐神社の鳥居。
春日四神を祀る神社で、かつては奈良春日神社に「蓮のお供え」を献供して、若宮社殿と鳥居を下げ渡されるのが例になっていたそう。


珍しく藁葺きの拝殿。



これはなんだろう。
花虎の尾というのに似てるような違うような。


時期もあってか、彼岸花の咲きっぷりは特に目立つ。
大阪ではあんまり彼岸花が群生してるのは見ないので、みっしり咲きまくってるとちょっと驚く。



竹之内環濠集落、というところにきた。
大和では、堀で囲まれた集落がいくつもあったそうで、ここではその堀がわずかながら残っている。
農業利水に転用されてるようだが、そもそも掘った当初から防御用兼農業用だったんじゃないかとのこと。さもありなんとは思う。

案内板には水の澄んだ写真が使われているが、実物は見ての通り藻でびっしりだった。


ちと遅めのひまわり。
住宅地の、私有地らしいところに咲いていたから、住民の方が咲かせてるのだろう。



そろそろ大和古墳群(おおやまとこふんぐん)に入る。
波多子塚古墳という、前方後方墳。
前方後方墳というのも、四国・中国や東日本に多い形式だそうで、近畿圏ではなかなか見かけない。これまで結構古墳を訪れたけれど、初めてか、少なくとも2~3基目くらい。
とはいえ、100メートルを越えるほど大きいのは大和国に集中して5基あるそう。これもそのひとつで、140mある。
このあたりは、前方後方墳がかなり多いところ。


堀に金魚が泳ぐ、西山塚古墳。これは前方後円墳。
このあたりではかなり遅い時期の古墳だそう。そして、なぜか前方部が北を向いている。

近くに手白香皇女衾田陵があるのだが、6世紀の人物である手白香皇女に対し、古墳が3世紀後半のものということで、食い違っている。
この西山塚古墳のほうが、手白香皇女の真陵ではないかという説も。

前方部に石積みが見えるが、いつのものだろう?



集落の三叉路に、五社神社という小さなお社がある。
この前の道を、東へ。



手白香皇女衾田陵が見えている、のだけど、アプローチする道がわかりづらい。
一度間違えて側面すぐそばまで近づいてしまったが、引き返して遥拝所へ。


着。
手白香皇女衾田陵は、古墳名でいうと西殿塚古墳。もうちょっと上がると東殿塚古墳もある。
230mもあるかなり大物の前方後円墳で、手白香皇女は継体天皇の皇后。

継体天皇は大阪の高槻に陵があるから、ずいぶん夫婦離れたところに眠る。
高槻に埴輪を焼く窯があって、そこの埴輪が継体天皇陵(と宮内庁が言ってる方じゃなくて実際に継体天皇陵と見られている今城塚古墳)にも、手白香皇女衾田陵ではなくさっきの西山塚古墳にも使われているそう。



もうちょっと南にも続けざまに古墳がある。
なんと前方部が墓地になっちゃってる燈籠山古墳。
近くの念仏寺という寺がかなり檀家の多い寺のようで、墓地が古墳に食い込んでいったよう。

燈籠山古墳は前方部が西向き。西山塚古墳は北向き。ほかは南向きなのに、この近くの二基だけ向きがとっちらかってるのはなんでだろう。


檀家の多い念仏寺。
特に観光するような寺ではなさそう。


もうちょっと南へ歩くとまた古墳で、中山大塚古墳というのがあるのだが、これもなんか道に墳丘が近すぎてよくわからない。


その墳丘に、歯定神社という不思議な名前の神社と、大和神社御旅所の社がある。
由来の看板があるのだけど、何言ってるのかわからない。
中山大塚古墳(百三十メートル)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫命の塚約二千年前煌々と輝き現れる神々は大歳大神(五穀豊穣) 主神日本大国魂大神(大地主大神) 須治比賣大神(天照大神)
あとは祭事の説明。


集落をひとつ抜けて、次の集落に長岳寺というお寺がある。


門前になんか威厳のある雰囲気の岩が。

長岳寺は、824年に弘法大師が開いた真言宗の寺院。
42の堂宇がある大寺院だったそうだけど、戦国時代に兵火に遭ったり、廃仏毀釈にやられたりで縮んでしまった。


拝観料を払って入り、すぐ左手に旧地蔵院というのがある。
48の塔頭があったが、現存するのはこれひとつ。江戸時代初期くらいに再建されたものだそう。


中は小さくも密度が高い感じの庭園が。
写真が傾いたのは単なる演出という名のミス。

中には持仏堂もあり、地蔵院自体と併せて国の重要文化財。


鐘楼門。平安時代のもので、これまた重文。


本堂。
これは鐘楼門より新しく、1783年再建だそう。
中には阿弥陀三尊像・多聞天像・増長天像が並び立っていて、なんだか威圧感を覚える。


縁側から上を見上げると、足あとのついた天井板が。
長岳寺の東の竜王山に、十市氏という豪族が城を築いていたが、そこが松永弾正に攻められた。そして戦乱は長岳寺境内にも広がり、斬られた十市方の武将が本堂に血まみれで逃げ込み、息絶えたという。
その血の足跡がついた縁側の板を、天井に張り替えたのがこれだとか。
なんでそんなの天井に張ったのかわからないけれど。


大師堂は、本堂より古くて1645年築。


くるっと一周りして、池の向こうから本堂を見ると、格好良く絵になる。

寺から出ると、すぐ天理市トレイルセンターという休憩兼展示施設がある。
山の辺の道近くで発掘されたものを展示していたり、各種案内チラシの配布や、お茶の無料提供などがある。
天理から桜井まで行くちょうど中間くらいで、まっすぐ下りるとそのままJR桜井線の柳本駅に着く。健脚でない人は、山の辺の道をここで南北2回に分けて歩くのがいいかも。


さて、ここで山の辺の道をちょっとそれて、国道169号に下りていく。
左手に巨大古墳が見えているが、とりあえず後に。


国道を越えてすぐ、空き地に看板が立っていて、柳本氏居館跡、とある。
大和国造・大倭宿禰長岡という養老律令制定にも携わった法学者があって、その曾孫がここに居館を立てて柳本の姓を名乗った。それが今のここ、柳本町の始まりという。
かつては「べべの木」と呼ばれる樅の木が立っていて、それが町の中心だったそう。



もうちょっと西へ行くと、天理市立黒塚古墳展示館というのがある。
すぐそばにある黒塚古墳の発掘品を展示している。ここは33面もの三角縁神獣鏡が出土したことで有名で、それはずらりと2階に展示してあった。
まじまじ近くで見ると、1700年くらい前に作られたとは思えんような精緻さがある。

三角縁神獣鏡というのも、「魏志倭人伝」にある卑弥呼に贈られた100枚の鏡だという説もあれば、日本で作ったものという説もあり、果てはもっと後代に偽造されたものだという人もあるくらい、解釈の別れる代物。
解説員の方は、邪馬台国は大和にあった説を取り、邪馬台国が魏から贈られた鏡を、臣従の証として周辺の豪族に配っていって、大和政権を確立していったというストーリーの解説をしていた。

ちょうど開館十周年ということで、クリアファイルを記念にいただいた。
散策していくと案内チラシなどたくさんもらうので、くしゃくしゃにしてしまわないためにクリアファイルは有用度が高い。ありがたや。


黒塚古墳は、入っていける。


ここから、もうちょっと南下して専行院を見ていけばよかったと後悔。織田有楽斎の墓所があるのに。
しかし私は国道側の東へと戻り、崇神天皇山邊道勾岡上陵へ。


陵の大きさもかなりだけど、遥拝所もなんだか高くて威厳がある。

ハツクニシラススメラミコト、国を初めて治めた天皇と号された、おそらく実在したであろう初めての天皇。10代天皇だけれども。
崇神天皇の時代に前方後円墳なんて作ってたのかな?と疑問に思ったが、皇紀を信じると紀元前の人物だが、その他から考えると3~4世紀くらいくらいに没したんじゃないかとも。なら古墳時代だ。


その向かいには、伊射奈岐神社がある。
延喜式内社だが、その頃は違う場所にあったようで、室町時代にここに遷座したよう。
伊邪那美命だけでなく菅公も祀られていて、一時は楊本天満宮といわれていたこともあるそう。


ここから、あまりおもしろくないが国道169号を南下していく。
ちょっと空腹感があるから、コンビニのひとつくらい欲しかったのだけど見当たらず。



古墳っぽい丘に、水口神社という小さな神社がある。
そしてすぐそばに、景行天皇山邊道上陵がある。


かなりの大古墳ではあるのだけど、北から来るとあまり雄大に見える角度じゃないか。前方部を前から見てしまう感じになる。


遥拝所。

12代景行天皇は、欠史八代が開けて10代崇神天皇がきて、そしてまた実在を疑われている。
あのヤマトタケルのお父さんなのだが、記紀にもヤマトタケルの話ばっかり書いてる状態で、スターの息子を持つのも大変。

御陵の脇から、山の辺の道へ戻る細道がある。


リターンして、道なりに歩いて行くと、道が山に向けて登っていく。
途中、桜三輪窯という窯元があった。
販売もしているので、入って品を見せてもらうと、赤い土の肌が見える、わりと素朴な雰囲気の焼物。値段も手頃なところから。
一部、いぶし金だったか、メタリックな格好のいいのがあって、これが窯元ご自慢の作品のよう。(こっちは手頃な値段ではないけれど)


内側に白釉をかけたぐい呑みが、ちょうど欲しい雰囲気だったので購入。白釉がこぼれるに任せた感じがちょっと面白い。
前に、野趣のある丹波焼の徳利に、きれい寂びの膳所焼のぐい呑みを合わせたら、どうにも破綻感があったので困っていたが、これならまずまず合いそう。


その後、天一神社と天一教神殿というところを指す道標があった。
天一教というのは宗教法人であるそうだが、検索するとラーメンの天下一品とそのファンばっかりがヒットして、いまいち情報が得られない。


纏向日代宮跡。景行天皇が宮を設けたところという。

さらに道をどんどん登る。
山の辺の道を外れてもさらに登ると、カタヤケシというところに出る。


ここが、野見宿禰と當麻蹶速が日本で始めて天覧相撲を行ったところ。
鳥居の内側はなんとなく開けた平地があるっきりだけれど。
この時の相撲は相手をぶち殺すまでやるデスマッチで、キックの応酬の末、倒れた當麻蹶速の腰を踏み折って野見宿禰が勝利したそう。今や相撲も穏健なスポーツになったもんである。
野見宿禰は出雲の人らしいので、いってみれば異邦人。今モンゴル人に席巻されている相撲界も、創生以来の伝統に従ってるのかもしれない。


奥に小さなお社があって、相撲神社とされている。
昭和37年10月6日、日本相撲協会の時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に、横綱大鵬・柏戸、大関琴ヶ浜・北葉山・栃ノ海・佐田ノ山・栃光、幕内全力士が参列して顕彰大祭が行われたことがあるそう。



隣接して、穴師坐兵主神社。というか、相撲神社がここの一部というべきか。
崇神天皇60年(紀元前38年)に創建という古さで、延喜式では名神大社。
穴氏坐兵主神社と、纏向坐若御魂神社(式内大社)と穴師大兵主神社(式内小社)が合祀されていて、場所はもともと穴師大兵主神社があったところ。

祭神に、若御魂神社(右)・兵主神社(中)・大兵主神社(左)などと書いていて、なんのこっちゃと思うのだが、祭神の呼び名が古過ぎて、今で言うどの神にあたるのか不明らしい。
若御魂神・兵主神・大兵主神、それぞれどれが何神なのか諸説あるよう。


ここからしばらく歩き続ける。
穴師坐兵主神社から下りてきて、山の辺の道へ戻ってちょっと南に下がると、今度は山の辺の道が川沿いに登っていく。下りたり登ったりだ。
車谷という集落で川を超え、そこから山の中へ入っていく。


大和の青垣といわれる景色を見ながら歩く。標高はもうかなり高い。


三気大神神社というのがある。
しかし門が閉まっている。神社は割とあけっぴろげなところが多いし、たまに防犯上の理由で夜間閉めるところはあるにしても、まだ4時前にこれは……。
あんまり一般的な神社らしい形もしていないように見える。

横手に回りこむと拝所があったが、これもまたまったく神社らしい格好ではない。寺でもなく、和風なのはわかるけどそれ以上はよくわからない様式。
謎の神社やなあ。

三気大神というのは、「清気精気正気 気ノ源ノ神様」であるそう。
「純粋な心で自然十神に抱かれて金金満満と暮しなされ 毒気嫌気貪気虚仮の行すまじきこと、まず其の心ずかいを修行いたせ」(原文のかなはすべてカタカナ)とのメッセージがあった。


ここを過ぎて程なく、檜原神社に着く。
注連縄の鳥居は珍しい、とこの時点では思ったが、この近くは結構あるっぽい。
本殿前には、三輪山以外ではめったに見ない三輪鳥居がある。

崇神天皇の御代、皇居の殿内に祀られていた皇祖神天照大御神を、初めて皇居外で祀るようになった聖蹟だそう。
天照大御神は、ここから90年掛けていくつもの土地を遷座しながら伊勢神宮に至った。
その間に一時的にでも天照大御神が祀られた神社を元伊勢と呼ぶが、ここは元伊勢の先駆けといえる。

本殿左隣のお社は豊鍬入姫宮で、天照大御神の遷座を行った皇女・豊鍬入姫命を祀っている。


かなり空腹になってきていたので、日が暮れそうだから急ぎたかったけれど、檜原神社前の休憩所で、三輪名物のにゅうめんを食した。
つい一口食べてからの写真で何だが、山菜に卵焼きかまぼこ焼きナスと具だくさん。美味かった。

ここで土産のそうめんばち(そうめんの切れ端)と、今西酒造の清酒・三諸杉を一本。きれいな水色の一合瓶で500円。
あとで飲んだところ、純米酒じゃないけれど、スムーズですっきり飲みやすかった。
変に辛口を狙って、添加したアルコールが刺さるような味になってる日本酒が苦手だから、普段は純米酒しか飲まないんだけれど、これなら美味しくいただける。

ちなみにそうめんばちは、このあたりの農家の無人販売(野菜やなんかを料金箱に代金入れて買っていく、外国人が驚愕するといわれるやつ)でもよく売ってる。
土産物然とパッケージされたやつは、ちょっと割高だったかな……



もうちょっと行くと、玄賓庵という寺にくる。
玄賓という高僧が隠棲していたところで、謡曲「三輪」で題材にされているそう。


中はさすがに隠棲処だけあって狭く、狭い中に色々ある感じ。



道の脇に、龍神神社という看板が見えて、そっちに上がってみる。
すると、小高いところに池がある。人工池かな?

写真に見えているのが拝殿かな、と思って近づいてみたが、なんというか、神社らしい感じの建物ではない。
「日本最古の大神 八大龍王辨財天大神 龍神神社」とあるが、最古の大神ってどういう意味だろう。少なくとも弁天さんなら仏教伝わってからだろうし。


池の中央を分断するように拝殿?があり、その奥にお社。


拝殿からさらに奥に、多数の仏様が鳥居の向こうに並ぶ、という神仏習合な状態。
面白い景色のところではあるのだけど、なんとなく神道とも仏教ともちょっとずれた感じ。



大神神社の末社・貴船神社が現れ、いよいよ三輪山が近い。


このあたりで、三輪山の看板があったので、おそらく入山したのだろう。

近くを流れる小さな川が狭井川。ひょっとすると賽の河原ってこのへんか。



摂社・狭井神社。大神神社の荒神を祀る、式内社。
ここから神体山への登山口がある。遅くとも2時にこないと入れないのだけれど。



すっかりあたりが暗いが、もう大神神社の境内だから歩くのに困りはしない。
秋の夜長か、奈良は盆地で西側にも山があるせいか、日暮れが早い。


大神神社拝殿。さすがにご立派。ちなみに山そのものがご神体なので、本殿はない。
延喜式では名神大社、旧社格では官幣大社。大和の国一宮。
崇神天皇7年に創建したということになっている。

大鳥居が凄まじくでかいことで知られるのだが、大鳥居というのはかなり神社から離れたところにあるもので、そこまでは行かなかった。
ちょっとだけ家々の間からかいま見えたが、スケールがおかしいのはよくわかる。


さて、山の辺の道はまだあるのだけど、日が暮れてしまった。
ここで今日は一旦終わりにして、JR三輪駅へ移動。
30分に一本の列車を待ち、帰路へ。

次にくるときは、大神神社から南へ下がって、桜井近くの天皇陵をめぐろう。



今日のLUMIX TZ1は、思ったよりかなり感じがよかった。

素晴らしい高画質、とまではいかないが、10倍ズームレンズをこのサイズの筐体に収めているのに、まずまずソツのない写り。
歪曲収差なども目立たないし、望遠端でF4.2ならそう暗くもない。
大型レンズでありながら屈曲光学系、というイレギュラーな代物だけど、レンズの繰り出しなく起動するから立ち上がりが早い。
屈曲光学系はどうも逆光に弱かったりするのが多いが、それも特に感じなかった。

1/2.5型CCDの、中央部1/2.8型相当範囲の500万画素だけ利用している、ということで、もしかしたら画像処理で収差補正入れたりしているのかも。
そうでなくても、周辺部を捨てることで画質の粗を目立ちにくくできるのかもしれない。

強いて言えば、暗いところで色がマゼンタに転んでるのと、ちょっと派手で、かつ記憶色とズレた感じの色合いに見えるけれど、まあ十分許容範囲。
ISO800ではノイズリダクションでケータイカメラっぽくなるけど、ISO800に文句言ってもね。


露出は概ね問題ないけど、なんだか不思議な感じで、ハイライト飛びそうなら勝手に露出下げたりしてる?と感じたりした。思い込みかもだけれど。
それでいて、普段は私の好みよりは少しだけオーバー目に出る。
ダイナミックレンジが広い、というようなことはない。普通か、ちょっとコントラスト強めなくらい。

ISOオートは、1/100秒くらいから増感を始めている感じ。ベースがISO80で、ISO200までは上げるよう。
1/125秒でもISO125だったり、1/80でもISO80だったり、微妙にはっきり条件が読めないけれど。
手ぶれ補正もまずまず効くので、割と暗くても耐えていた。


筺体の作りはしっかりしていて、ボタンなどの触感も好ましい。このへんはさすがパナソニック。
スイッチがかちっとしたスイッチなのも、私は好き。ただ、手袋してると扱いにくいかも。
強いて言えば、モードダイヤルはたまに勝手に回る。

レンズキャップは失われていたが、電源オフ時にレンズは奥まっているので、特になくても支障は感じなかった。


驚いたのは、ジャンクかごに電池なしで放置されていた6年前のデジカメだというのに、日付設定が生きているという驚異的なキャパシタの寿命。
キャパシタ自体が死んでいても当たり前なくらいなのに、電気が残っているとは。


2006年のものだから、液晶が見えないとかそんなレベルの問題はなかった。
ただ、下方の視野角が狭いみたい。カメラを目より上げるとすぐ裏返る。……と思ったら、ハイアングル用の表示モードなんてのがある。
ガイドグリッド表示やヒストグラム表示ができたり、シャッタースピード・絞りが表示されたりで、このあたりは嬉しい。

なぜかズーミングがゆっくりしているが、まあ、キリキリ動かさなければいけない用途なら、パワーズームのコンデジである時点でダメだから、一眼レフ使うべき。


インターフェースは、ちょっと気になるところが多い。
やっぱり電気屋のせいか、カメラの常識とすこしずれていたり、常識で判断不能なことの説明がないところがある。
手ぶれ補正のモードが2つあるけど、何の説明もない。デモモードなんてのがあったが、解説的なものではなかった。調べると、MODE1が常時、MODE2がシャッターを切るときだけ。
エコモード1/2も同じようにわからない。1だと15秒無操作で液晶オフ、2だとさらに撮影後5秒間無操作で液晶オフ。
シーンメニュー Auto/OFFというのもわかりづらいが、これはモードダイヤルをシーンモードにしたとき、Autoだとモード選択メニューが毎回出て、OFFだと出ずに前回選択を使う。こんな設定いらんと思うが……
測光モードのアイコンも、これは一般的な表示ではないと思う。[(・)]で評価測光、[( )]で中央重点、[ ・ ]でスポット……だと思うんだけど、いいんだよねこれで。

露出補正はカーソル上ですぐ出る、という基本は抑えている。
うっかり2回続けて上に入れたら、オートブラケットも現れた。ブラケティングの間隔も選べる。

マクロがシーンダイヤルの中にあるのはイレギュラー(他社にもたまにあるが)だけど、まあ、これは別にこれでいいかもしれない。
シーンモードと併用するのはどうするのかと思ったが、シーンごとに通常かマクロか設定されているよう。料理モードだとマクロになっていた。
料理モードは結構良い感じの絵が出た。(にゅうめんの写真がそれ)



インターフェースにちょっと不満はあるものの、全体的に見て、思ったよりずっといいカメラだった。
2006年時点でこの品質になってるなら、現行モデルに特に偏見持つ必要はなさそう。