堺は住んでるところから近すぎて、色々見る所あると思いつつもなかなか行ってなかったのだが、「三好一族と堺幕府」と銘打った文化財公開があるというのでちょっと行ってみた。
時の十二代将軍・足利義晴と管領・細川高国が、細川晴元に敗れて近江坂本に追われてから、晴元とその臣下の三好元長が、将軍の弟・足利義維を擁立して堺から畿内を実効支配していたのが堺幕府。
12代将軍の政権を崩壊させたものの、すぐ内輪もめで崩壊してしまった政権であるけれども。
南海堺駅に降り立って、地図をもらって東へぶらぶら。
今回色々やっている場所をすべて回るには、臨時運行されているバスに乗って回るのがよさそうだけれども、私は適当に運動して歩くのが目的なので、徒歩でいく。
東へ行って、阪堺電車が並走する紀州街道までいって南へ。
少し歩くと、与謝野晶子の生家跡がある。かつて菓子屋の駿河屋という店だった。
跡、といっても石碑しかないのだが、それもそのはずで、かつて東側の歩道の幅しかなかった紀州街道は、戦時中の延焼防止策で西に大きく拡幅されたので、駿河屋はまるごと飲み込まれてしまった。建物などは残りようがない。
跡地がかろうじて西側の歩道に掛かっていたので、昭和36年に歌碑が建った。
「海こひし潮の遠鳴りかぞへつゝ 少女となりし父母の家」と、これは明治37年雑誌「明星」に初出した歌で、巻物に自筆されていたものを碑に写したとのこと。
続いて南に下がり、フェニックス通り(中央環状線にあたる広い道)を渡って一本西側の裏筋に入ると、千利休の屋敷跡がある。
屋敷跡の向かいが広い空き地になっていたので、そこにテントを張ってパネル展示や堺・徳島(三好氏はもともと阿波の豪族)物産の販売などを行っていた。
阿波では藍が名産だから、藍染めのハンカチなど販売していた。堺は……地元の茶屋や菓子屋の商品を並べてた感じ。
パネル展示の内容は、阿波の勝瑞城の発掘調査の話とか。
屋敷跡には、「椿の井」というものが建てられている。
利休が産湯を使ったという井戸で、利休存命の頃はここに居宅があった。
江戸末期には酒蔵が建っていた(江戸時代には堺は日本酒の大産地だった)が、井戸は残されていたそうで、酒蔵をやっていた加賀屋太郎兵衛がその井戸の傍らに利休好みの茶室を建てた。
これは先の大戦でも焼けたりすることもなかったが、今は京都に移築されている。
残っていた井戸に、大徳寺の改築で出た廃材を使って屋形を建てたのが今の姿。
大徳寺はあれだ、門の上に利休の像を設置したら、その下を通った秀吉が怒って利休を切腹させた、という話の舞台になってるところ。
今度はフェニックス通りを東へいくと、宿院頓宮がある。
摂津国一ノ宮たる住吉大社と、和泉国一ノ宮たる大鳥大社の両方の御旅所となっている立派な神社なのだが、空襲で焼けたり、戦後のフェニックス通りの拡幅・延長工事で神域を1/6まで削られるなどして、今は少々こぢんまりしている。
それでも両大社からの渡御祭は今でも続いている。
西側2/3くらいは公園になってしまっていて、神社らしいところは小さい。
公園の西の端には飯匙堀というのがあり、山幸彦と海幸彦の神話に出てくる潮乾珠が埋められているから、雨が降っても堀に水がたまらないといわれている。
裏手に堺ふれあい広場なる家屋があって、パソコン教室会場、と毛筆で描かれた張り紙……というか簡単な掛け軸のようなものが掛かっていた。味がある。
宿院頓宮からちょっと南にいくと、通り沿いに今井屋敷跡がある。
今井宗久の長男・今井宗薫が屋敷を構えていた場所とのこと。もとは織田有楽斎から譲られたとも。
見ての通り、今は看板と石碑があるだけだけれども。
そしてちょっと西に行くと、今度は武野紹鴎の屋敷跡がある。
これも今は石碑と看板があるだけで、あたりは写真のような感じ。
利休(当時は与四郎)が弟子入りにきたのはここのはず。
宿院頓宮がもっと華やかだった頃は、このあたりはかなり賑やかなところだったらしいから、武野紹鴎も今井宗薫も都心住まいを選んだのだろうか。
北に戻ってフェニックス通りを渡り、アスティ山之口というアーケード商店街に入る。
入っていきなり、古い写真や昭和の古道具など展示しているギャラリーがあってしばし覗き込む。開いてなかったけれど。
この商店街は、開口神社の参道でもある。
開口神社は、延喜式内社で、住吉大社の奥の院ともいわれる。
神功皇后の三韓征伐の折、塩土老翁神を祀るように勅願があって建立されたのが始まりとのこと。
鳥居の裏にひっそり、三好元長戦死跡の碑がある。
今日は解説ボランティアの方がいたから気づいたものの、言われないとわからんような目立たない碑だ。
堺公方派は、足利義晴・細川高国派との戦いに勝利して高国を自害させることに成功するものの、担いでいた堺公方・足利義維が征夷大将軍に任じられる前に仲間割れを始める。
で、細川晴元派と三好元長・畠山義堯に割れて戦争をはじめ、晴元派の木沢長政の飯盛山城を元長らが包囲。
時間の問題で城が落ちる、というところで、いきなり一向一揆が数万の軍勢で城を囲む三好方の軍勢を攻撃。
三好元長は法華宗の信者で、当時一向宗と法華宗の対立が激しくなっていたことを細川晴元が利用し、一揆勢に攻撃させたものだった。
で、元長の軍勢は壊滅、なんとか堺まで逃げてきたものの、ついに自害に至ったのがこの開口神社の境内だったそうだ。
時に32歳と若かったのだが、三好長慶・義賢、安宅冬康、十河一存らの名将を残していった。南宗寺も、三好長慶が父親の菩提を弔うために建てたもの。
今でも大きい神社だが、境内摂社がやたらと多い。まあ近隣の開発で小さい神社が次々潰されて合祀合祀でこうなっただけかもしれないが。
それから紋がちょっと面白く、巴紋かと思ったらよく見るとナスが3つになっている。昔、ここらの農家で3つ連なって生ったナスがあり、珍しいからと献上されたのが紋になったそうだ。(写真撮り忘れ)
堺の文化財公開は他でも色々やっているのだが、夕方から用事もあったので、ぶらぶらと堺東駅方面に歩いて行く。
他のところは別の機会に。