2011年10月8日土曜日

東海道枚方宿 w/ CAMEDIA X-2

劇団どくんごという旅のテント劇団が素晴らしいという評判を聞き、大阪城公園でやってるというので見に行くことに。
しかし開演は夜なので、昼の間にぶらりと枚方に出かけてみた。
ぶらっと大阪スタンプラリー」というのをやってる、とリーフレットをもらって、それを見て行く気になったというのに、肝心のスタンプをもらい忘れるというヘマをしてしまったのだけれども。

持ちだしたカメラは、先週カード入れ忘れで使えなかったCAMEDIA X-2。
このカメラは発売当時から画質が眠いと評価が低くて、実際私が使ってみた感じでもなんだかシャープネスが足りない画質だったので、設定でシャープネスをハードに、コントラストをハイにしてみた。
枚方行きは自動的に京阪電車になるので、京橋から特急で一気に。


枚方駅の北口から出て、左手の路地に歩いて行くと、散髪屋のある角に「宗左の辻」という道標が立っている。
写真右下方向が駅から来た道で、東海道は、来た道から見てまっすぐ(写真左)に大阪方面、写真右奥に京都方面。
で、この碑は見ての通り新しいが、


古い碑が少しずれたところにある。
こっちが200年ほど前に立てられたもの。開発で道筋も若干ずれて、ずれたのにあわせて立て直したのが先の新しいやつかな。

府道20号線を渡ると、ビオルネ枚方というショッピングセンター。
イオンが入った本館と、マクドナルドなどが入った小さな南館にわかれているが、その間を突き抜ける歩道が東海道になる。


ビオルネ本館の壁にも、少し先の公園の向かいにも、枚方宿の案内板が作られている。
枚方はなんというか、やたらと碑がたくさんある。この先にもいっぱいある。
古いものもあれば、最近作ったのも多い。


このまま東海道沿いに行くのもいいが、地図を見ると南側の山に神社があるようなので、ビオルネ西側の道を南に行って線路をくぐる。


道沿いに、クラレチアン宣教会枚方カトリック教会。
なんというか見事に強烈なゴースト。ここまで出たのを見るのも久しぶりで思わず嬉しくなってたりして。
光学ファインダーで撮ってたので現地では気づかなかった。厳しいシチュエーションなのはわかってたけれど。


坂道を上がっていくと、意賀美神社。
同じ名前の神社が岸和田にも泉佐野にもあるが、いずれも淤加美神を祀る(ちょっとずつ呼び名が違うけれど)。
淀川を目の前にした枚方と、歴史的に少雨な泉佐野とでは、祀られてる意味合いが違ってきそう。水の神様なら治水も雨乞いも祈れそうな気はする。


境内には琴平神社、あと稲荷社もある。
そんなに広々した境内ではないのだけども、写真からも垣間見える通りに木々が多い。
鎮守の森がしょぼい神社も寂しいから、これもいいかもしれない。


西側への階段(こっちが参道)を降りると、地蔵が立っている。
神社なのに、と思いきや、元々この山は万年寺という寺があり、山の名も万年寺山という。
そこの坊さんが、疫病避けに祇園社を勧進してきて須加神社を創建した。
しかし明治になって廃仏毀釈運動で万年寺が破壊され、須加神社が残った。
明治初期には同じく神社合祀が進められていたから、近所の日吉神社と須加神社は、べつのところにあった意加美神社に合祀されることになった。
しかし意加美神社の旧地は狭かったので、須加神社のあったところに遷座してきて、それで今に至る。


さらに少し下がると梅園がある。シーズンにはかなり咲き誇るそう。


梅園から道を挟んで向かいが、御殿茶屋跡。
秀吉の時代に、京街道(当時は東海道とは別の街道扱いだった)に沿って見晴らしのいいこの高台に茶屋御殿を建てて、枚方城主本田正康の娘・乙御前を住まわせていたという。
江戸時代になってから幕府に接収されて、秀忠や家光は逗留したこともあったらしいのだが、目の前に枚方本陣があるせいか、使われなくなって打ち捨てられ、老朽化した末に1679年の大火事で焼け落ちて、以後再建されることなく、今は公園に。
そういう経緯もあり、特に往時を忍ばせるようなものもない。



見晴らしはこんな感じ。
立派な太陽電池パネルが目立つ建物は、株式会社ケアライフというところの介護施設で、9.9kWあるとのこと。
左手遠方に見えるのは枚方大橋。外環状線が通る。


万年寺山の北側の階段を降りる。
京阪の線路を見下ろすので鉄道写真にいいんじゃないか、と一瞬思ったが、カーブの内側からじゃあんまり良くないかもしれない。撮り鉄ではないのではっきり判断もできないけれど。


ガード下をくぐって東海道に戻り、ちょっと西に下がるとちょっとした公園がある。
ここが枚方宿本陣で、当時はここ三矢村の庄屋である池尻善兵衛が、公家や大名専用の宿として屋敷を提供していた。
本陣は明治3年に取り壊されたというが、明治天皇は本陣があった頃にいらしたのかどうか。

三矢公園からまた、今度は淀川の方へそれて、幹線道路に出る。

出ると見えるのが、淀川資料館。
しかしなんか気配がおかしいな、と思ったら、第二土曜は休み、ということだった。


また東海道に戻って、歩いていると道端に古い道標。
「すぐ国道第二号路線 京 / 左 枚方街道」とある。
枚方街道は、先ほどの橋を渡って北に行く国道170号。
今は近くに国道2号など存在しないが、道標からすぐ向こうにある、淀川資料館の前の府道13号線は、旧京阪国道になる。
京阪国道は今は国道1号線なのだが、1920年の道路法では「東京市より鹿児島県庁所在地に達する路線」として国道2号に指定されていた。
1952年に道路法が変わり、東京都中央区から大阪市北区を結ぶのが国道1号だと改められたので、この道標はその間のものだろうと思われる。


引き続き西へ行くと、道がクランクカーブになった角に、浄念寺という寺がある。
戦国時代、枚方の南側の山の手には、順興寺という、蓮如の子である実従が住職をしていた寺があって、寺内町が栄えた。
しかし江戸時代には順興寺もなくなり、代わって東西に分立した本願寺が、東は願生坊、西は浄念寺をそれぞれ重く扱うようになった。

露出がすごくオーバーになってしまった。
神社でもそうなったが、黒っぽい木造の建物を真ん中に入れるとオーバーになる感じが。X-2の測光は中央重点が強いのかもしれないな。


浄念寺の次の十字路で右折し、さらに歩いて行くと、市立鍵屋資料館
京街道の旅人相手に飲食を出したり宿を提供したりしていた大店だった鍵屋の建物を、枚方宿の資料を展示するために転用したもの。平成9年まで料理旅館として経営されていた。

創業がいつかは「天正年間」と伝わるだけで不明だけれど、1773年の裁判の訴状に鍵屋の当主の名前があるのが最古の記録とのこと。
昔の淀川では、「くらわんか船」という飯売りの船が往来していて、旅人の乗る船に鉤爪引っ掛けて近づき、「飯くらわんか、銭ないからようくらわんか」と乱暴に飯や酒を売る名物商売があった。
もとは高槻の船頭が、大坂の陣で徳川方の物資輸送に協力したことで、こういう営業の特権と、武士相手でも地元言葉丸出しの無作法御免を許されたのが始まり。
で、そういう幕府認可の商売だったくらわんか船と、岸から竿をさして船に餅を売る無認可の餅売との間でモメたときのがその資料だそう。

江戸時代からの建物に、昭和3年に増築した部分が繋がった大きな二階建て。(写真で見えているのは旧い建物)
ガイドの方によれば、3億円を費やして増築したとか。(さすがに今の金額に直して3億だと思うが、まさか当時の3億だろうか)

展示品の中に、吉田初三郎の枚方鳥瞰図があった。吉田初三郎はいいね。


鍵屋の裏手、淀川の岸に出てみる。
淀川の岸は公園。左手側は野球場になっていて、すぐ枚方大橋がある。
振り返ってみると、郵便屋の渡し跡、という碑がある。
このあたりには長らく淀川を渡る橋がなかったので、渡し舟がよく利用されていた。
明治10年になって対岸に国鉄が通ったので、枚方の郵便物はここにまとめて渡し舟で国鉄に持って行って運んでいた。

ここから京阪枚方公園駅へ戻り、電車に乗って大阪へ帰還。
渡辺橋で降りて梅田で時間をつぶして、夜を待ってから大阪城公園の公演へ。



CAMEDIA X-2は、いかんせん起動がのろくさくて4秒くらいかかる。当然ながら終了も同じくらいかかって、撮影テンポはかなり悪い。
あとは、撮影設定が基本的にすべて記憶される、のはいいけれど、ズーム位置まで記憶する。ただでさえ遅いのに、起動直後に望遠端までズーミングし始めた日には。
終了も、沈胴式レンズ+レンズバリアスイッチということもあり、レンズが引っ込むまでバリアを閉じられない。

画質が悪いと言われているのは主に遠景の甘さに対してだったけれど、それは多分シャープネスをハードにすれば大体いい気がする。しかしその設定だと、遠景というほどでもない距離で斜めの直線にジャギーが出たりする。まあ、どっちかといえば私はハードのほうが好き。
コントラストはハイじゃなくて標準でよかったかも。どっちでも好みの範囲だけど。
全体的に、AWBが黄色に転ぶ感がある。ほとんどどれも黄色っぽいから、こういう調整かもしれない。ただ、階段のカットみたいな日陰は若干マゼンタに寄ってるような気も。

光学ファインダーは、まあ十分使えるけど、C-2とかよりは良くはない感じ。
あたりが明るいと、合焦警告のLEDが見えなくなる。

しかし書き立てると悪いことばかりになるが、使ってるとそれほど悪い気がしない。
重さが適度で持ちやすいとか、手触りがいいとか、絞り優先モードでも十字キーで速やかに露出補正と絞り変更ができるとか、使いやすさにそつがない感じ。