2012年7月1日日曜日

御所 w/ Cybershot DSC-F505V

今日も今日とて天気が悪いが、御所の方に天皇陵巡りに。


今日のカメラは久々に大物で、サイバーショットDSC-F505V。
私がデジカメ触り始めた頃に憧れたシリーズのひとつ。それなりに長続きしたシリーズで、2002年秋のDSC-F717まで続いた。

デジカメという商品は大体1995年くらいから世にではじめたが、当初はデジタルガジェット感が強く、撮影用品としてフィルムカメラとは差が大きかった。
しかし少し時代が進んで100万画素を超え、200万画素に近づく頃から、撮影装置としてフィルムの一眼レフに勝負を挑むような製品が出始める。
オリンパスならC-1400L、CANONならPowershot Pro 70、そしてソニーはCybershot Pro DSC-D700というのを出した。
D700はレンズ一体型一眼レフで、今でもCOOLPIX P510とかの高倍率ズーム機にあるような、オーソドックスなデザインだった。
その後続けて、DSC-F505Kという、明るい巨大な高倍率ズームレンズ(といっても5倍だけど)の鏡筒に、コンパクトなカメラ本体を接続したような、異形のカメラを繰り出した。

このシリーズがまだ売り場にあった頃、高画質レンズを搭載するデジカメとしてはこれが理想の形じゃないか、と私には思えていたものだが、ようやく今頃試してみる機会を得たわけだ。


近鉄に乗って、乗ったことなかった御所線で端まで。


御所駅前は、この駅舎の対面、東側に昭和っぽい商店街のアーチが見えた。
鄙びているってほどでもないけれど、なんというか、バブルが来る前で止まっているような雰囲気か。
私の生まれ育った町は、田舎町のくせしてバブルに浮かれて、「ここは大阪の副都心として高層ビルの立ち並ぶメガロポリスになるんやー」とブチ上げて開発始めて結局頓挫、でも街の姿だけは変貌してしまった。
バブルで変貌しなければ、私の町と御所は、わりと似たような姿になっていそうな気がする。
線路を挟んで一方が古い商店街と住宅街、一方にスーパーマーケット、というのも、昔は一緒だったな。こっちのスーパーは潰れたというか、再開発のために潰したけれど。
電車が一時間に4本なのも一緒。

商店街も趣深いが、駅沿いを南北に走る国道24号、下街道に沿って南下。駅近くに幹線道路の国道が通ってるのもうちの町と一緒だ。



南に歩いて行くと、鴨明神こと鴨都波神社がある。
延喜式では大社に列せられ、崇神天皇の時代に鎮座したというから相当に古い。
祭神は積羽八重事代主命。

鴨(加茂)氏の祖先である大鴨積は、鴨の地に事代主神を祀る神社を作ったことから、賀茂君の性を与えられた。氏族としては鴨長明や賀茂真淵が有名だろう。
以前はもっと南の高鴨神社あたりが本拠地だったが、このあたりに移ってきて集落を形成していたそうで、遺跡が発掘されているとのこと。


境内はあじさいが多かった。私にしては珍しく良いタイミングに来た。


境内摂社は神農神社と稲荷社、恵比寿神社と春日神社があった。
社叢に埋もれるように建っていて、なかなか趣がよい。季節もあってか、社叢のほうの元気がいいのかもしれない。

ここらで雨が降ってくる。
わりと降られにくい晴れ男体質なのだが、今日は結局ずっと降ったりやんだりが続く。



南に歩いていくと、そう遠くなく、すぐに孝昭天皇掖上博多山陵がある。
5代天皇の孝昭天皇は、いわゆる欠史八代で実在しないといわれる。
しかし実在説もあり、9代開化天皇までは、ここ葛城地方を本拠地として九州までを支配していた国の王であって、10代崇神天皇が九州側から政権を取った、という話もある。


すぐ東側に「孝昭宮」という鳥居が見える。
階段を上がっていくと、孝昭天皇陵の山の上に向かって拝殿があった。

身も蓋もなく言ってしまえば、実在しないから陵墓もないはずの孝昭天皇だから、この陵墓も、記紀の「掖上博多山陵に葬られた」とあることから、たまたま博多山と呼ばれていた自然の丘をあてて陵墓としたものだろう。
で、山の神様が祀られている神社があるのはよくあることだから、それを孝昭天皇を祀っている神社だということにした、というところだろうか。邪推ではあるけれど。
今まで行ったことのある天皇陵で、こうも明らかに天皇陵の拝殿と同じ所を拝む神社は見たことがないから、なにか特殊な例だと思うのだけど……
(武烈天皇陵と志都美神社が、まあ、同じといえば同じ方といえなくもないけれど)


葛城川をわたって南東の方へ。
野口神社が見えてくる。


境内にスズメバチ発生の警告がいっぱい。
虫トラップもいっぱいしかけていた。

祭神は神倭伊波礼毘古命、つまりは神武天皇と、その皇子の彦八井命。
葛城川の竜神として、五穀豊穣を祈願されているそう。

彦八井命の子孫である茨田の長官がここに住んでいて、娘がいた。
役小角が葛城山へ修行に行くため、毎日ここを通りかかっていたのだが、その彼に娘が惚れこんだ。
しかし役小角は修行に忙しいのでまったく相手にしなかったところ、怨んで彼を飲み込んでやろうと森の中の穴に隠れた。
そこに田植えに向かう村人が通りかかると、娘の化けた蛇が炎を吐いている。びっくりして持ち合わせていた弁当の味噌汁をぶっかけて逃げた。
改めて確認に来てみると、ちょうど蛇が井戸に入っていったので、岩をもって井戸の出口を塞いでしまった。

その後、蛇になった娘の供養にと、その出来事があった五月五日に、汁掛け祭と蛇綱引きが行われている。
味噌汁を作って参詣者にぶっかけて、それから全長14メートルにもなるわらで編んだ大蛇綱を、村の家々に引き回す。
娘さん余計に怒るんじゃないかという気がするが……

そんな縁起を書いた看板に並べて、このあたりの地名が「蛇穴」と書いてサラギと読む、その由来の解説もあった。
蛇がとぐろを巻いて穴を作った(輪になってる状態のことと思う)その様子をサラキと古い言葉でいっていたそう。上の祭りの故事にも繋がる気がする。
(他にも色々書いていたが、ところどころ文字が欠けたりして読み間違いそうなので割愛)



さらに東へ歩いて行く。
あぜ道のようだが、地図を見るとここを通らないとえらい遠回りになる。

この田園地帯の景色、これまたバブル前の、まだちょっと外れれば田畑が広がっていた地元の町を思い出す。
まあ、どっちかというと漁師町だから、山に囲まれた田園よりは、漁船がいくつも留められた砂浜のイメージが強いのが本当だけれど。

JR和歌山線の列車が通りかかって、慌てて一枚。片道1時間に1本だから、なかなか出くわせない。



追着神社(おいつきじんじゃ)、という変わった名前の神社がある。
祭神も阿治須岐高彦根命という、ちょっと聞き覚えがなかったが、
縁起などは書いてなかったので、「神名備にようこそ!」のページにお任せ。

阿治須岐高彦根命は迦毛大御神の別名であるそう。
また、こちらもさっきの役小角と蛇の伝説に由来するようだ。



JR和歌山線の玉出駅近く、大きめの道のY字型に交差するところで、役小角たらいの森、なるものがあった。
ちょっとした草むらくらいにしか見えないが、役小角が産湯を使ったたらいをここに埋めたとのこと。


南の丘が天皇陵なのだが、とりあえず東側に回る道からアプローチしてみたが、そっちが正解。


見慣れた天皇陵の看板があった。
しかし階段が長く丘に上がっていく。石が敷かれて整備されてこそいるものの、けっこうな山道。
一度道端にスズメバチがいたりもして、まあこの季節ならそこまで攻撃的ではないと思いつつ、ビビりながら上がっていく。


上がり切ると、突然開けてえらく立派な遥拝所が現れた。孝安天皇玉出丘上陵。
これまで行った天皇陵の中でも、遥拝所の格好の良さでは特に優れたところに思う。

6代孝安天皇もまた欠史八代、実在しないといわれる天皇。
実在性はさておき、102年間在位して137歳(日本書紀)まで生きたという天皇で、この最長在位記録は2300年ほど破られていない。



陵への登山道が途中で枝分かれしていたので、そこに戻って再度上がる。
わかれてすぐにこんな祠があったが、何を祀っているかはよくわからなかった。

さらにあがっていく。
道は、天皇陵の丘と、東側の別の丘との谷間を通っている。今あがっている道は、別の丘のほうへ上がる道。


何か神社の拝殿らしいものがあったが、何を祀っているかも書いていなかった。
地図で見ると、麓の満願寺の方を拝む向きだが。
そういえば、このあたりの神社はみんなこの形の拝殿になってるような。神社がみんな同じ格好の拝殿、という地域は時々あるのだが、何かゆかりがあるのかな。



その神社の向かい側にもう少し上がると、陵墓の隣の山を拝むように金比羅神社がある。
山奥の森の中にひっそり、実に趣があるが、しかし拝殿の中を覗きこんでも不思議なほど暗く、えてして絵馬など飾ってるはずの中が何も見えない。周りの森深さもあって、なんだか畏れ多い感じが。


来た道とは別方向に降りていけるので、そっちに抜けてみると、満願寺という寺の広大な霊園に出た。
特に観光するような寺でもなさそうだが、さすがこれだけ霊園が広い寺となるとかなり経営は安定してるようで、お堂も真新しいし、離れて見ると寺務所らしい建物が巨大だったり。

県道212号を北上すると、さっきのたらいの森に戻る。
さらに通過して、和歌山線の線路を越える。


玉出駅の上を越えるように、高速道路らしいのを建設中。京奈和自動車道か。

食事するところがなくて困っていたが、コンビニを見つけたので軽く補給。
そのコンビニのすぐ裏手に、


茅原山吉祥草寺。
634年に役行者神変大菩薩が生まれたところで、舒明天皇の創建。
1200年以上前から「とんど」という火祭りをやっているのが有名。毎年一月十四日。

常識として写真は取らなかったが、お堂は中に入って参拝するようになっている。
五大明王像の前で不動真言を唱えてきた。最近不動真言は覚えたので、ソラでいって問題なしであった。



300年前、まだこの椋の木が小さかった頃、三輪山からきた白竜大神が飛来してこの木に鎮座したそう。


また、佐藤薬品工業の創始者・佐藤又一氏の銅像もある。
薬というものは、役小角が修行の中で発見した薬草を、山伏らが広く人々に普及したのが始まりだ、という話で、また、佐藤又一氏がこの吉祥草寺で暮らし、ここ茅原で会社を興したことから、縁で薬の感謝祭が行われているそう。



役行者腰掛石には、腰掛けても構わないそう。
私は遠慮しちゃうたちなので、見るだけに。


役行者が産湯を使った井戸も。


腰掛石や井戸は、隣の熊野神社の境内にあたる場所にある。
創建由緒はわからないが、言い伝えでは役小角が斉明天皇の時代に熊野権現を勧進して、吉祥草寺の守護神としたとなっているそう。


県道118号を東へ歩いて行く。
道が急に折れているところで、八幡神社がある。


特別な神社ではなく、おそらくこのあたりの氏神様だろうか。なんか烟っていたが、護摩炊いてるだけだろうか?
写っていないが、写真の後ろ側には子供向けの遊具が設置されている。私が子供の頃も、近くの神社でよく遊んだものだ。
なぜか、学習机についてるようなキャラクターが描かれた椅子がいくつも置かれていたのは、なんだか不思議な光景だった。子供なら遊具にできそうではあるけど、しかしただ座るにはちょっと意味がわからない感じ。


県道が折れている方には沿わず、まっすぐ細い道がある方へ。
市立掖上小学校のすぐそばに、山田考野次郎の碑が建てられている。
水平社創立大会で、16歳(14歳とも)の若さで演壇に立って、学校での差別について訴えるなど、演説の巧さで活躍した。
成長ホルモンの分泌不良で小人症だったことから、長くは生きられないといわれながらも、全国を飛び回って、最後はわずか25歳で福岡で亡くなったそう。


さらに東へ行くと、全国水平社発祥の地といわれるところに、水平社博物館がある。

知っての通りに部落差別問題へ立ち向かうために結成された水平社の博物館。
展示内容は……ちょっと、それほど詳しくない私には難しいところもあったかな。
創立前時代の状況から創立大会、その後しばらくのまっすぐ問題と立ち向かっていられた時代のことは、堂々と語ってみせていて興味深い。
しかし、労農運動と結びついたらアナボル論争に巻き込まれて混乱したり、戦争を迎えて状況がややこしくなったり、そのへんはちょっと触れ辛かったかな、と思わせるところもある。



すぐとなりに、神武天皇社がある。
ここが神武天皇の即位した場所だという。

水平社は、もともとは「日本国民はみな平等な天皇陛下の臣民だ」と尊王愛国の平等を打ち出していたのだが、やはり葛城の地から起こったからには、そうだろうと思える。


水平社博物館の向かいに、西光寺というお寺。
さっきの山田考野次郎氏がなくなったときは、この寺で水平社が社葬を行ったそう。


西光寺の脇から東側の山に上がっていくと、燕神社というのがある。
ここでも神倭磐余彦命、つまり神武天皇を祀る。

水平社創立の中心人物である西光万吉氏は、水平社の前には「燕会」という組織を作って、生活改善などの活動を行なっていた。
その燕の会の人たちが、大阪で廃社になる神社のご身体を譲り受けて創建し、活動の拠点として活用していたそう。

ここから東に抜け、川をわたって南へ。
斉明天皇陵へ向かう。

参道はすぐ見つかり、山の麓で階段になる。


階段になってすぐ、お寺がある。
華厳寺というそうだが、なんだかお堂ひとつだけぽつんとあるようなところだった。
(写真は下り向きだが)つづら折りの階段をひたすら登る。石畳が雨でちょっと滑る感じ。


先に、天武天皇后である大田皇女の越智崗上墓がある。
斉明天皇陵へ上がる階段から、ちょっと上から覗くと、坂の途中だけどはっきり分かる形に土が盛られていた。


そして上まで上がると、斉明天皇越智上陵。
女帝にして、35代皇極天皇となってから、重祚して37代斉明天皇となった。
また、初めて譲位をした天皇でもある。皇極天皇時代に蘇我蝦夷・入鹿を重用していたら大化の改新が起きて、譲位することになった。
勢力拡大にも熱心なところがあって、北は樺太まで出兵したといわれ、また朝鮮半島で百済が滅ぼされたと知ると、人質として日本に来ていた百済の王子を送り返し、さらに援兵をまとめて九州に遷都までして、出兵前に崩御したり。
晩年は土木工事も「やりすぎで民が労役で疲弊している」と批判されるくらいやっていたよう。
なんとも激しい天皇だ。

その激しい天皇の陵を参拝して、階段を降りていたら、足を滑らせたと思ったら踏ん張ろうとしたもう一方の足も滑り、一瞬空を飛んで尻餅をつく、と、成人してから最大級の派手な転倒をやらかした。斉明天皇はドジっ子男子がお好みであろうか。
この転倒で、腕につけていた、今時めずらしい液晶針式アナログ腕時計が壊れてしまった。
しかしまあ、しばしばジーンズの尻ポケットに入れているソニーReaderが、この時は鞄に入っていて無事だった。斉明天皇もそこまで鬼ではなかった。



陵を離れて少し行くと、こんな自販機発見。
スカールAとかスカルゲンCとか、聞いたことないなあ。


私のような体の大きい人間には上り坂は辛く、今回は何度も丘を上がって疲弊したので、近くのJR和歌山線の掖上駅へ移動。
そのまま乗り継いで大阪へ。



今日のサイバーショットDSC-F505Vは、さすが期待した通りの写りだった。


野口神社の鳥居を望遠端で撮ったカットの、ピクセル等倍切り出し。
まあ260万画素くらい(1856x1392)だから、1ピクセルが大きいというのもあるが、各ピクセルの鮮明な解像はデジタル一眼レフ並みだ。
2000年ごろには最高級の写りだったデジカメだろう。

レンズは38-190mm F2.8-3.3と、ちょっと望遠寄りだが、明るくて使いやすい。
和歌山線の列車が通りかかって、雨模様の中でとっさに望遠端で撮っても、F3.3の明るさのおかげでごくごく僅かなブレで済んだ。
広角端でちょっと樽型に歪むが、コンパクトなレンズに比べればずっと小さい。
望遠でも広角でも、絞り解放から四隅までくっきり写っている。

200ccの缶ジュースくらいあるでかいレンズのおかげだが、そんなでかいレンズを普通のカメラボディにつけたらバランス悪くてたまらない。
レンズを主役に据えるようなデザインで、レンズをがっちり握ってホールドできるようになっていると、実に安定して構えられる。
スイバルデザインだから、構え方の自由が効きやすいのも大きい。まあ、スイバル慣れしてない私は水平を外しまくったが(そのまま掲載した写真もあるが、修正してる写真も多々)、それは私のせいだ。

ホワイトバランスはだいぶ頼りないが、まあ、時代のものだと納得するしかないか。
AWBは、家電系メーカーは2000年にはまだ頼りないところばかりだった。富士フィルムなんかは早くから上手くやるようになってたんだけど。


これ使ってると、NEXシリーズにスイバルモデルが出れば、大きいズームレンズをつけても扱いやすいカメラになりそうだなあ、と思えてくる。
まあ、どうスイバル機構を仕込むかは、かなり難しい問題になりそうだけど。


ただまあ、まだカメラを作るということに慣れていたとは言えない時代の、AV家電メーカー・ソニーの製品であるから、残念ながら操作系には首を傾げるところがある。

レンズにリングはあるのだけど、これはピントリング専用。
MFが使えて、MF時には自動的に画面中央を拡大してくれるのだけど、しかしそれでも11万画素そこらの液晶でMFする気にはちょっとなれない。
勝手に中央を拡大するということは、中央にしかMFできないわけで、作画的にピントを動かしたい時にはかえって邪魔になりそうだし。(あまりちゃんとチェックしていないから、これはOFFにできるかもしれないけど)

AFは、まあ私はよほど遅すぎなければ文句は言わないから、とりあえず普通。
ただ、マクロになると奥ピンになりがちな気がする。レンズ前2cmまで寄れるほどだから、寄りすぎているということはないはずだが、なぜか画面中央のものをすっ飛ばして変なところに合う。
合焦マークはあるけれど、どこに合ってるかわからないから、マクロではあまり信頼しがたい。

レンズ側面にボタンが4つあり、マクロモード、ホワイトバランス変更とマニュアルホワイトバランスの設定、スポット測光切り替え、とある。MF/AFはスライドスイッチ。
まあ、おかしい配置ではないのだが、意外にもズーミングがここにない。

で、ズーミングは本体側背面右上、よくある位置だが、ボタンではなくスライドスイッチ。
スイッチはアナログで、ズーム速度を調整できる……んだけどこれ、2段階くらいしかない気がする。また、結構重くてあまり細かく調整できなかった。

PROGRAM AEというボタンがあって、何のことかと思えば、露出モード切り替え兼シーンモード、というようなものだった。
一度押すと絞りとシャッター速度の表示が出る。
ここで、液晶下のPROGRAM AE ADJ/VOLUMEの+/-ボタンで、絞り値を変更できる。
絞り優先AEを呼び出すのに、プログラムAEボタンを押して、プログラムAE調整ボタンで絞りを操作する。謎だ。
もう一度PRORAM AEボタンを押すと、今度はシャッター優先AEモードになる。
さらに押すと、夜景やポートレートなどのモードになる。

で、Pモードの時に、そのPROGRAM AE ADJボタンを押しても反応がない。
露出補正が割り当てられてるものかと思えば、それはメニューの中。

これはもう、まったくボタン名が操作内容と合ってない。プログラムAE、という言葉の意味を何か間違ったまま設計しちゃってないか。

これだけボタンがいっぱいあって、ホワイトバランスまで専用ボタンがあるのに、露出補正はメニューの中行かないとできないみたいで、どうにも難儀だ。
ただ、AE自体はアンダー寄りの、かなり私の好みにあった設定。特に、山の中や神社など、オーバーになりがちなところで撮影することが多い私には、特に触らずそのまま撮れる感じ。

露出といえば、このカメラは1/30秒から増感していくようだ。
というより、明示的に夜景+モードにしないと、1/30秒より遅いシャッター速度にならない。
手振れ防止には良い設定だと思う。
感度が上がっても、それほどノイズが増える感じもない。ただ、ホワイトバランスが転びやすい。


動作速度は、レンズの繰り出しなどがないこともあって、比較的起動は速い。
撮影間隔も、まあ問題にはならないだろう。
ただ、メモリースティックの容量が大きくなるほど、起動が遅くなる。128MBを入れると2秒くらい遅れる感じ。
しかし、フル画素記録で一枚1.2MBくらいになるから、64MBや32MBでは頼りない。

バッテリーの持ちも、フル充電してもInfolithiumの残り時間表示は80分くらい。ストロボでも使えばガリガリ減る。
液晶のバックライトを消して反射型として、消費電力を減らすこともできるのだが、それは外が十分明るくないと使えない。
1400mAhもあるでっかいバッテリー使ってもこれだから、やはり時代かなあ。
同じバッテリー使って、DSC-P1とかDSC-F55Kとかはもっと短いから、これでもかなり良くはなってるのだけど。


謎の操作性やホワイトバランス、バッテリーの持ち、記録メディアの限界など、時代を感じる部分はあるけれど、しかし良いレンズを使ったカメラはよく写る、という動かしがたい事実を見せてくれる。
時代に風化されるデジタルカメラといえど、力を込めて作った製品は、古くなっても光るものを感じさせてくれるものだ。