2012年9月1日土曜日

東洋民俗博物館・あやめ池 w/ CAMEDIA C-40ZOOM

 どこ徘徊しようかと思いながらgoogle mapsを眺めていたら、東洋民俗博物館というのがあるにが目に止まった。
 菖蒲池というところも、そういえば奈良の中でもまるで気に留めたことがない土地だった。
 気に留めてみると、駅から遠くないところに見るところもいくつもありそう。

 先週は外出記録を更新しなかったのだが、三洋のDSC-MZ1を持って外出はしていた。
 なので、今週は同じレンズを使った、しかし内容的にはあんまり似てない兄弟機であるオリンパス CAMEDIA C-40ZOOMを持ちだしてみた。




菖蒲池駅はなんというか、ブルジョアっぽい。高級住宅地だ。


菖蒲池はもう、駅から見えていてすぐにアプローチできる。



橋がかかっていて、西側というか、池の向こうにショートカットできる。が、とりあえずそっちは使わず反時計回りに散策。


どうも池の形状が複雑すぎて、ずっと池を見ながら歩いていても、いったいどういう形か見えてこない。
地図で見ると、ロールシャッハテストに使えるんじゃないかと思えるような謎の形状。私は座ってるウッドストックに見えるけれど。



池を一周りし、西側に、東洋民俗博物館はある。
一見すると住宅のよう……には見えない。近隣のハイソな一戸建てとはいささか趣が異なる。


昭和3年、つまりは1928年。創立84年というところ。


博物館の創立者である九十九黄人氏の言葉であろう。
氏は104歳まで人生を謳歌してらしたので、つまりハレー彗星を1910年と1986年の二度見ているから、HALLEYS COMET TWICEとある。



そして博物館の建屋。
かつて、といっても2004年まで、この辺り一帯は近鉄あやめ池遊園地であった。
あやめ池遊園地も大正14年だったかの開園で、その3年後にこちらがオープンしたのだけど、当時としては遊園地に隣接していても違和感のないモダンでハイカラな建物であったよう。
屋根がガラス張りだったのを普通の屋根に直しただけで、ハコそのものは昔のまま。

ここで入り口を見ると、見学者は右手奥の家に声をかけて、と看板を吊ってある。
本当に普通の個人宅なのでちょっと気後れしつつインターホンを押すと、ご夫婦が気安い調子で出てくれた。
昔はなんか、ドラを吊ってあって、それをごーんと叩くと九十九黄人氏が案内に出てくれたらしいが、残念ながら黄人氏は1998年に亡くなられた。104歳だから大往生であるが。

今は息子さんが館長を続けてらっしゃるが、さすがに人を雇って常時受付しているというわけではなく、用事で出かけていて閉館していることもあるから、来る前に電話確認してほしいとのこと。
(私はほんとに地図でこういうのがあると見かけただけで、他にほとんど何も調べずにいってしまった。電話番号などの情報は奈良県観光情報のサイトなどで)


案内をいただいて中に入る。
19世紀末くらいに、フレデリック・スタールという人類学・民俗学をやっていた学者がいて、アフリカや東南アジア、東アジアを飛び回ってそこに住む人達の研究をしていた。

そして、アイヌ研究を目的に日本にやってきて、そして自然と松浦武四郎を知り、ハマってしまい、何度も来日して研究を重ねるようになった。
よほど好奇心の塊みたいな人だったようで、日本の文化にも色々興味を持った。
特に神社の千社札に熱中し、大正時代に白人が千社札持って日本中の神社に現れては貼っていく、ということをやっていたりして、日本人からは「お札博士」とあだ名され、当時の新聞にはスタール博士が東京に行った山陰に行ったと記事が出ていた。

そんなスタール博士に若くして通訳兼助手としてついてまわっていたのが、九十九黄人氏。
英語やドイツ語を独学して、17年にわたってスタール博士の右腕として活躍していたので、その縁でこういう博物館を作るに至った。



そんなスタール博士の像が表にある。
スタール博士に研究されていた土地の側で、博士の記録などを集めているところは少ないだろうけれど、ここはそういう数少ないところでもある。時に資料を求めて海外からやってくる人もあるとか。

館内には博士の展示物が並べられ、やはり、絵馬のコレクションが多い。
明治大正の頃のものなので、今の五角形に文字で願い事を書く形になるより、もう少し前の形のものがある。絵解きで願掛けしているものとか、文字通り馬を描いているものとか。

他のコレクションは、民間信仰にまつわるようなものが多かった。日本でいえば蘇民将来、朝鮮の天下大将軍のような魔除けとか、チベットやアジアの仏教や民間信仰の神像仏像などなど。
それ以外も、帝政ロシアの将校帽やら、朝鮮の長煙管やら、江戸時代の遠眼鏡やら、雑多なものも様々。

室内をよく見ると、戸棚などもかなりの骨董品。ガラスがまっすぐきれいなものじゃないと思ったら、開館当時からのもの。今割ってしまったら替えのガラスがなさそう。


さて、建物は大きく二部屋にわかれているが、先に入った左手の部屋がスタール博士のコレクション。
一旦、入口前のホール?で、九十九黄人氏の写真とともに記念撮影をしてもらう。しかしうっかりストロボ発光するようにして渡したら、写真にもろに照り返してしまって私しか写ってない。なんてこった。


で、右手の部屋、九十九黄人氏のコレクションを展示する部屋へ。
こちらになると、にわかに面白さのスイッチが切り替わる。

九十九黄人氏は、スタール博士の帰国後は、在野の民俗学者として日本中・世界中を飛び回って研究を進める。
しかし、そこでテーマに選んだのが性風俗とくる。
なぜ性風俗を選ぶに至ったかは聞かなかったが、なんというか、展示物を見たり解説を聞いたりするうち、「好きだからだろう」と思えてくる。

あんまりネタばらししても何だからひとつ言うと、南米某国に研究・収集に出かけた際、地下墓地に大量のミイラが眠っているところがあった。
「ひとつ持って帰ってもええよ」と現地人に言われた黄人氏、しかしいかな黄人氏といえど死体を日本に持ち帰るわけにはいかない。
そこで、局部だけ切り取って持ち帰り、現在も「チンコのミイラ」と展示されている。いや、説明書きにチンコと書いてある。

なぜか昭和天皇幼少のみぎりの御写真があったり、そして、黄人氏が勝手に車につけていた菊の御紋もどきなんかもある。
周りの車が近づいてこなくなるからええわ、とウルトラなことをいうていたそう。
時々警官に咎められたりしたのだけど、本物の菊のご紋は16弁のところ、黄人氏の物は17弁。これは菊のご紋ではないと強弁してパスしていたとか。

全体としてはスタール博士の収集と近い傾向でありつつも、雑多さが上がった感じだろうか。そしてところどころに紛れ込むエログッズ。


こっちを一周りして終わりかな、と思ったら、さらに奥に通された。
そこが、九十九黄人氏の書斎というか、研究室であった。

ここはもう、展示室はあくまで表向きのものだというのがよくわかる、凄まじいまでのエログッズコレクション。小さな部屋だが、圧巻の内容。
別に女性器丸出しの無修正写真が一杯、なんていうものではないのだけど、洒落の効いたジョークグッズやら、かなまら祭みたいな男根信仰やら。

さらには奥に書架があって、発禁本とエロ本がぎっしり。
また、日本初の文化人向けエロ雑誌(タイトルで忘れてしまった)が創刊号から最終号まで全部揃っていて、これはおそらく日本中探してもここにしかないとご自慢。

世界を飛び回ってエログッズもとい性風俗の資料を集め、そして世界の女性をたらしこみ、そして晩年には、100歳過ぎてもまだここで元気に来訪者にエロ自慢をしていた。
こんなことをしているから、洒落のわからない官憲に引っ張られることが度々あったそうで、共産主義の取り締まりが激しくなった頃には、留置場でよく「お前はアカか」と聞かれたそう。
そこで黄人氏は答えて曰く、「わしはピンクや」。

大正・戦前にこんなことしてたら色々困難もあっただろうけれど、それも洒落で笑い飛ばして、世界を股にかけるエロ研究者として長寿を満喫した、その一生の痛快な面白さが詰まってる部屋。
黄人というのは本名ではなく号なのだが、黄色つまりYellow、イエロー、エロ人、と掛けてあるという。



表にこういうのがあるが、右の「吾唯足知」という有名な絵解きにも、裏に黄人氏が考えた絵解きネタが仕込んであったり。

エロネタ博物館、と言ってしまうと軽薄なものに聞こえるけれど、それを大正から平成までやり通した黄人氏という人間が、東洋民俗博物館をただの秘宝館とは一線を画させているように思える。
実に面白い博物館だった。一見の価値あり。



あやめ池の橋を渡ると、駅にはすぐ。


駅から、今度は南側へ線路を渡る。
商店街を通り過ぎ、南東の方へ歩いて行くと、



三輪神社がある。
地図で見ると結構敷地が広いから、大きいところかと思ったが、それほどではなかった。
しかし境内はよく整備され、地元の信仰は受けているよう。

三洋DSC-MZ1は、同じレンズなのに大層逆光に弱いカメラだったが、このC-40ZOOMの方は、かなりゴーストやフレアの出方が異なる。やはりレンズコーティングや鏡筒内処理は違うようだ。
ただまあ、条件も厳しいけど、やっぱり派手にゴースト出たなあ、とは思う。



表の鳥居や参道は新しいが、奥の鳥居は大正時代のものと刻まれていた。



拝殿。
賽銭箱に書かれた賽銭泥棒向けの警告が、どことなく雰囲気があってちょっと怖い。私は賽銭入れるほうだから怖がる必要もないのだが。



そこから西へ来ると、菖蒲池の南側にある池にくる。
大きさでいえばこちらのほうが大きいのだが、こちらは蛙股池という。
推古天皇の時代に、日本で初めてのダムとして人工的に建設されたそう。
確かに地図で見ると近くに川がある。ダムなら出ていく先もあるはずだが、どこに流れ出ているのかはよくわからない。もう単なる池になってるのかな。


池にかかる橋(これは綾女橋というらしい)をわたると、菖蒲池神社というのがある。蛙股池だけどあやめ池神社。
法隆寺縁起に、推古天皇時代・607年に菅原池(今の蛙股池)が作られた時、弁財天社をたてて池の守護神としたのが始まりというから古い。
いつ頃からかはわからないが、途絶えていた時期があったよう。昭和35年に復興。野見宿禰と菅公を合祀して、奈良市の菅原天満宮の分祀となっている。


ちょっと変わった造りの拝殿。
そもそもが弁財天社だから神仏習合な神社で、この右手には弁天さんを祭ってあって、真言まで書いてある。


神社の北側に道があって、そこを通りたいのだが……


思いっきりダートですな。
まさかこんな高級住宅地で道が未舗装なんてことがあると思っていなかった。
まあ自転車が通ったらしい跡があるし、通行に問題もなかったが、池の端のはずなのに藪や木立が深くて池が見えない。夜は誰も通らなくなるんだろう。

ダートを抜けるとすぐ中野美術館があるのだが、今は展示期間外で休館中。

もう少し歩いた先に、大和文華館というのがある。
戦後すぐ、近鉄の種田虎雄社長が、奈良にふさわしいレベルの高い美術館を作ろうと言い出して、美術史家の矢代幸雄に一任して作り上げた。
コレクションがあって美術館を開いて見せるようにした、という通常の流れではなく、美術館を作るからと美術品を収集して開いた、という逆順なのが珍しいそう。



園内はハイソな雰囲気の庭園。いつの季節でも何らかの花が咲いているように作られているようだ。


建物は、なんというか、写真に撮るのが恐ろしく難しい形。
直線的で、まっすぐとこんな感じが端まで続いている。下半分は石垣ではなく、平瓦を並べて繋ぎ目にかまぼこ型に漆喰を盛った「なまこ壁」というもの。

今の展示は「明清の美術 爛熟の中国文化」。
水墨画の山水図が多かったかな。山水図は、ちゃんとした見方を知っているわけじゃないけれど、なんとなく眺める分には好きな部類。たくさんあると、繊細なのも奔放なのも比べて差が見えるので面白くなる。
他にも、西洋風の遠近法などが取り入れられ始めている作品だとか、当時の文人・画家が用いた装飾された筆とか、ちょっと面白い展示もある。

ここから、学園前駅へ歩いて、そこから帰阪。
学園前駅というのも、町が帝塚山学院に支配されているみたいで、不思議な光景。



今日のC-40Zは、三洋DSC-MZ1と同じレンズを使う兄弟機でありつつ、製品コンセプトも出来上がりもまるで違う、似てない兄弟。
DSC-MZ1は、高度な動画撮影、高速連写、7段AWB、HDR撮影など、当時の三洋が誇ったデジタル撮影技術をふんだんに盛り込んだ、他に類がないような多機能カメラだった。
C-40Zはといえば、当時のフラッグシップモデルだったC-4040Zをぐっと小さなボディに収めたような製品で、P/A/S/Mフルモードで各種撮影パラメータの設定がほとんどすべてできる(MFがないくらい)という、小さな高機能撮影装置。

まあC-40Zは、小さいといっても今となっては十分大きいのだが、2001年秋のモデルとして、詰め込まれた撮影機能を踏まえれば、非常に小さい。
レンズひとつとっても、スペックこそ35-98mm F2.8-4.8と平凡だけど、ちゃんと6枚羽根の絞りが入っている贅沢なもの。だから、絞りは細かく手動設定できるし、シャッター速度優先モードもちゃんとある。

写りもなかなか良好といっていいと思う。
湾曲もよほど真っ直ぐな物を撮らなければ気にならないし、望遠から広角まで開放で使えそう。
前述のとおり、同じレンズのMZ1と比べると、どうもMZ1は逆光時のフレアやゴーストが酷いのが気になったが、C-40Zはそれほどでもなかった。特に逆光に強いほどではないが、それなり。
それほどカリカリにシャープな写りというわけではないけど、400万画素に負けてるというような悪さではないだろう。


今では見られなくなった補色フィルターのCCDを使うので、やはり定説の弱点として、ちょっと色の出方に癖があるとは思う。
これはこれで爽やかなチューニングで、決して悪いとは思えないけれど。まあ、たまにちょっとやり過ぎに思えることはある。
逆に、補色フィルターなら原色フィルターより2倍の光を使えるから、色の階調は豊かに思える。1/1.8型の高級機と同じCCDを使うだけあって、ダイナミックレンジが広い。


筐体は、前面投影面積は小さくも、厚みが相当大きいので、ジーンズのポケットにとかは突っ込むのは難しい。
そのかわり、筐体天面にサブ液晶があって、撮影可能枚数やモード設定などが表示される。
レンズはほんとに左端ギリギリにいるから、左前面に指をかけるような持ち方をする人には持ちにくいのだろうが、私には特に問題なし。
コンパクトデジカメは、左手の親指を立てて人差し指とでL字を作り、そこにカメラを乗せて右手を添える、というのが、サイズ問わずで安定して持てるやりかた。

まあ、ちょっとかわいい形ではあるが、多分女性がこれをカワイイと称した時代はないと思う。
ボディはプラスティッキーで、そんなに高級機っぽい感じはない。
機能的には、私の好きなスライドレンズバリアスイッチ。左右の幅が短いので、スライドのストロークも短い。ただ、それほど贅沢なスライドレールは奢っていないので、若干重いか。
ボタン類の押しづらさなどは感じない。古いが、印刷が削り取れてたりもしない。

液晶の写りもなかなか。多分三洋の低温ポリシリコンTFTだろう。


バッテリーについては、RCR-V3で使ったが、特に不安定になることもなく動作した。
ただ、単三電池で使うとかなりライフが厳しいという話もある。厳しそうなカメラではある。
2001年とかそれ以前の、単三電池2本のカメラなんて、大体ライフがキツいと思って間違いない。

当時としては良いカメラだったんだろうなあ、と思わせるところは多いのだが、しかし今となってはスマートメディア機なのが苦しい。
xD化されたモデルがあったらなあ。オリンパスはなぜか、既存モデルのxD化版というようなモデルはほとんどリリースせず、スマメ時代からxD時代への製品の流れに、なんとなく切れ目がある。
多分C-40Zの後継はX-2になるんだと思うけど、いろんな意味で雰囲気が変わる。
C-300Zの次はX-200だろうけど、あれはC-300Zの後継というよりμ-10の廉価版に見える。
C-5050Zは、C-4040Zより更にもうひとつ格が高くなった感じがする。
C-700系のC-730UZが割と素直なxD化なくらいかな。