2012年10月20日土曜日

正木美術館 w/ CP-500

現在、大阪府下の町は9つある。
市部ではない、だからといってつまらない所なわけもなく、たとえば三島郡島本町にはサントリー山崎蒸溜所があり、岬町には古墳群やみさき公園があり、太子町は名前通り聖徳太子ゆかりの地。

しかし、忠岡町、といわれると、ちょっと困る。失礼ながら、何があるところだっただろうか。
南海本線を利用して大阪市内から岸和田あたりまで来れば、横切ることはできる。だから、なんども横切ったことはあるのだが、さて、何があったかといわれると、全然思い出せない。

調べてみると、現在日本一小さい町が忠岡町であるそうだ。
以前は、同じ大阪府の田尻町だったと思ったが、いつのまにかあちこちで最小町を奪い合った末に現在は忠岡町だそう。

忠岡町、なにかあるかと調べてみれば、広島のマエケン投手や、ショートトラックスピードスケートの西谷岳文の出身地だそう。
2万人にも満たない人口からそれほどの人材を……


で、忠岡駅に降りた。昭和……
(わざわざなんば方面ホームを撮ったが、和歌山方面ホームはもうちょっと立派な感じ)

ここから正木美術館へ歩く。
あれこれ寄り道していこうと、google mapsにお寺や神社をチェックしておいたのだが、正木美術館に行こうとしてあれこれ道を聞いているおじいさんおばあさんを見かけ、エスコートすることになったので直行。
どうも途中に案内らしいものがなく、お年寄りにはいささか不親切な気もする。バスとかも出てないのに距離あるし。

正木美術館の外観写真、撮ったはずなんだけど記録されてないな。
撮ってから電源すぐ切ったら消えるとか、そういうのかもしれない。CP-500も相当古いカメラだし、ありえる。


正木美術館の展示は、「利休参上」。
生前の利休を描いた現存唯一の絵が、この美術館にある。長谷川等伯画。利休62歳、秀吉の茶頭になる年の絵だそう。
利休は180cmはあるでかい人であったそう。私も180cm以上あるでかい人であるから、親近感がある。利休は堺商人の子、私は堺商人の曾孫であるから、これも親近感がある。

で、展示は利休一色かと思いきや、必ずしもそうでもなかった。
利休展というだけあり、まず茶器がずらっと来る。しかし、利休らしい黒樂茶碗ばかりが並ぶわけでもなく、唐高麗のものもあれば、織部好みもあり、小堀遠州のきれい寂びなものも。
樂茶碗は、利休が生きていた頃のであろう、楽初代長次郎作の「両国」、これが利休像の下に置かれて、いかにもな佇まい。
他に、江戸時代になってからの三代目が焼いた、黒の「散聖」と赤の「武蔵野」、それから大阪にかつてあった谷焼といわれる窯のものがあった。
茶入では、大名物「有明」肩衝茶入がある。唐物で、将軍家から大友宗麟を経て徳川に渡り、会津松平を経てここに来たそう。ネーミングは小堀遠州らしいが、小堀遠州は名付け好きなのかしら。
茶杓が珍しく色々あって、利休作「ゆみ竹」、小堀遠州作「両樋」、細川忠興作、山上宗二作など。

私の好みでどれかひとつ、とあれば、小堀遠州が「浜千鳥」と銘をつけた、堅手茶碗が好き。淡いピンクでいかにも小堀遠州が好きそうなやつ。
他に面白いところでは、江戸時代頃に国産陶器の需要が増えすぎ、オランダに委託して生産させた猪口なんてものがあった。
にわか陶芸ファンには興味深い展示をひと通り眺めたら、奥へ。

すると、なにやらものすごい竹細工が並ぶ。
田辺竹雲斎という、堺の竹細工職人の作品。襲名して現在は三代目が健在で、そのお子さんの田辺小竹氏も世界的に活躍中。
襲名してはいても作風は、今初めて見る私にも明らかなくらい違う。だんだんハイカラになっていって、小竹氏に至ってはもう現代アートの世界。
私の好みでは、二代目の「亀甲透かし編み瓢形花籃」。ごく細い竹ひごが、たっぷり合間を取りながら精緻に編まれ、なんだか重力がなくなったように軽い。花籃なんて実用品の姿をしているのにとても実用されそうに思えない。夢でも見てるような作品だった。



離れと小さな庭がある。
離れの中には、田辺小竹氏による、部屋を埋め尽くすほど巨大な作品が組み込まれていた。「竹のインスタレーション 天と地」というそう。現代アートや。
私は絵の方の現代アートは、ただの一発ネタをやりあってるくらいにしか見えなくて、いまいち何を楽しめばいいのかわからないのだけど、立体物の現代アートは、異様なモノが存在するだけでインパクトがあって、私のようなド素人にも多少わかるところがある。


美術館を出て、少し徘徊。
あんまり体調よくなかったので、そんなにガンガン行かないけれど。まあ、たった4km平方の面積しかない忠岡町、ガンガンいったら岸和田にはみ出してしまう。



忠岡の街は、駅前に少し商店街と食品スーパーがある程度の商業と、沿岸部の埋立地に工場が誘致されている程度の工業と、あとはレトロな住宅地でできているよう。
海に近い住宅地の雰囲気は、こういうのが残る程度に昭和。まあ、泉州の海手は町が古いから、こういう感じのところ多いけれど。
紀州街道沿いにはブルジョアらしい豪邸が並んでいたりもする。特産品の毛布を織る工場も、街道近くにいくらか見かけた。



勝基寺というところ。
明隆という僧が、最澄に投げつけたという伝説がある「われ鉦」が寺宝だそう。
西光寺という寺があったのを、勝基上人が再興して今の名前になったとか。自分の名前を寺につけちゃうとは自己顕示欲あるなあ。
勝基上人、俗名を上杉範政というそうで、え?と思ったのだが、関東管領山内上杉氏とは違う(和泉には来てなさそう)。どういう人だろう?


もう一ヶ所、萬福寺。大阪では無数にある、行基の開いた寺。
中はすぐお堂で、なにか祭事をしているようだったので遠慮。


それから常然寺。
どうもこのあたりのお寺は敷地が狭いので、入ってすぐお堂で写真を撮る画角すら確保できない感じ。ここはさらに墓地がぎっしり詰まっていて、空間というものがまるでない機能的なお寺だった。



それに隣接して、忠岡神社がある。
元々は菅原神社だったそうで、古い社史などは不明だが、1701年に「古来よりある処の神社である」と記録されているそう。
明治の終わりくらいから近隣の神社をあれこれ合祀し、それで忠岡神社に改名した。
お寺よりは多少敷地に余裕はあるが、しかしやはり、ここらを代表する神社にしては窮屈ではある。


漁協の碑のある末社がひとつ。


ちょっと何がなんやらわからん写真だが、高濱虚子・高濱年尾・稲畑汀子の句碑がある。


ここから駅の山側に行ってみて、ちょっと商店街を冷やかしてから帰路に。
賑わってるとは言いにくい感じだったな……



今日のカメラはEPSON CP-500。1997年の製品。
35万画素VGAの時代から、いきなり130万画素SXGAの時代へジャンプした印象があるのだけれど、少しだけ、81万画素XGAの時代があった。
CANON Powershot 600とか、OLYMPUS C-800系とかそのへん。

1/3型81万画素CCDに、換算36mmF2.8の無難なレンズ。
この時代は内蔵メモリのみのカメラも多かったが、こいつは内蔵メモリ4MBに加えてコンパクトフラッシュ対応。純正オプションが4MBはともかく、10/15/20MBとなってるのが珍妙。どんなメモリチップをいくつ積んでるんだろう。

写りはまー……時代かなあ……。当時は決して画質が悪いわけではなかったようだけど。
ちゃんとオートフォーカスなので、それなりに近接撮影もこなせる。しかし、あんまりシャープな写りをしているとも言えないし、この程度ならパンフォーカスでいい気もする。
長方画素のセンサーらしいから、縦方向はもしかすると引き伸ばしみたいな処理かも。
明暗差がキツいとまるでダメになるのも、時代のせいかな。逆光に弱いっぽいのはレンズのせいだろう。

液晶は時代の割によさそうな感じで、電池を気にしなければ液晶ファインダー撮影もできそう。
ただ、なんか液晶つけるとぴぃーんと鳴く。電池減りそうだなあ。
光学ファインダーはさすがに時代もあって、それなりのものがついているから、使い心地は悪くない。


まあ、今となっては16年前のカメラに高望みすることもなく、未だ動いてるところに健気さを感じて、それでいいとしよう。
実はどうも、電池を入れているのに突然日付がリセットされたり、撮ったはずのコマが記録されていないといった症状があったが、16年前のカメラだからね。