2013年3月20日水曜日

知多半島の旅(1) 半田 (LUMIX FZ2)

前から知多娘。というローカル萌えキャラを仕掛けている知多半島。
ローカル萌えキャラ自体はけっこうそこら中にあるのだけど、ちょっと現れて消えていくものも多々。

まあ、あくまでローカルだから、近畿圏からせいぜい中国・中部くらいまでのキャラでないと、大阪の私まで活躍ぶりは伝わって来づらい。
VOICEROIDが出た東北ずん子、福島県白河市の小峰シロ、南に行けばおおいた萌えおこしプロジェクトとか、やっぱり大阪からは見えにくい。

じゃあ大阪の私からどのあたりが目にとまるかというと、萌えキャラというべきかはさておきいまいち萌えない娘 (と本来やるはずだったこと)とか、大垣きゅん物語であったり、そして今回のネタたる知多娘。というところ。
そういうわけで、いざ知多半島に現地調査。


とりあえず、ちょっと時間の都合があったので、前日夜からの行動になった。
いきなり宿に入るところから。

宿は半田で取った。
じゃらんで半田か武豊で……というくらいで探してみたら、名鉄イン半田駅前が知多娘とタイアップしてるのがわかって、せっかくだから萌えキャラ非常食つきプランにしてみた
日本酒の出るプランもあったのだが、まあ酒は自分で選んで買いたいなというところで。

で。

(国盛にごり酒は自分で買ったもの)

これかいな。たまげるわ。
いざ非常事態があって取り出したら、別の非常事態を引き起こすぞ。

名鉄知多半田からJR半田の間くらいのエリアは、どうも住宅はあれども飲食店などはない感じでちょっと困った。
名鉄知多半田の西側、国道247号を、さらに北か南にある程度行ったあたりにあれこれあったかな。

ともかく一泊して朝。

名古屋のあたりは、喫茶店のモーニングセットが過剰に豪華だという。
その影響だろうか、ビジネスホテルでは朝食は別途有料ということが多いけど、ここでは宿泊料に込みだった。どこでもそうかはわからないけれど。
で、バイキング形式なのもよくあるけれど、パンが5つも6つも選べる。これもその影響だろうか。


宿を出ると、駅前には「2013年 新美南吉生誕百年」とPR中。
私はさっぱり童話を与えられずに育ったので、宮沢賢治も新美南吉もとんと疎いのだけれど。
知多半田駅から名鉄で北に2つ、半田口駅に行ってから西に1.5kmほど歩くと、新美南吉記念館がある。今回はちょっと遠いのでパス。


駅前ビルはこんな感じできれい。
高層マンションなんかも建っていて、半田の駅前あたりは真新しく都会的。


しかしこのビルには、知多娘グッズショップがあるぞ。
あいにく朝の9時には開いてないだろうと思うので、今回は素通り。
知多半島は今回では半分もまわれてない感じなので、また来る機会もあろう。


知多半田駅東側を北に歩いて行くと、古い洋館が建っている。
旧中埜家住宅という、国指定重要文化財。夏目漱石の義弟が建築家で、その鈴木貞次という人が建てたそう。
中埜というと、ミツカンの創業者の一族かな。

普段はカフェをやってるようだが、狙ったように水曜定休。残念。
まあ祝日だから、開けてたけどまだだった、という話かも。


すぐとなりに、上半田山の神社という小さな神社があった。
瀬戸内は大三島の大山祇神社を本宮にする、大山積神を祀るお社。
戦国時代のちょっとまえ、1473年に、半田城の城代家老がここに何かした(看板かすれて読めず)という記録があるそうで、それより前はよくわからない。
ご神木はなかなか渋い。


もうちょい北に、龍台院。曹洞宗のお寺。
知多四国八十八箇所めぐりの20番札所になってるそう。
境内は、一直線に道があって両脇は森深いくらいの植樹。ただまっすぐ行ったらお堂がある。
さすが曹洞禅寺、ストイックな作りだ。

ほとんど写真も撮りようがないようなつくりではある。


その東隣に、攝取院というお寺。こっちは西山浄土宗という、ちょっと珍しい宗派。
浄土宗は、法然上人の没後に、念仏の解釈にブレが出て派閥が分かれていった。
初期に西山派と鎮西派に別れ、その西山派は禅林寺派と深草派と西山浄土宗にわかれている。

中では説法会でもやっていたようで、戸を立てて中で教学的な話をしているのが聞こえた。

この東側に、紺屋海道という、今の感覚では路地のような道がある。
ちなみに、紺屋と書いたら「こうや」と読むことが多いものだけど、ここはコンヤカイドウと地元ではいわれているそう。


紺屋海道の道端には、小さな秋葉社のお社が、私が気付いたので2つあった。(もう一つあったと思ったけど違うお社だった)
秋葉神社はあまり関西の方では勢力がないのだけど、静岡の秋葉山本宮秋葉神社を起源として火之迦具土神を祀る防火の神様。
江戸時代中頃に大火事があって、それから防火のために四ヶ所の秋葉神社を道沿いに作った。
防火組織として講(相互扶助会のようなもの)が作られて、それが紺屋海道講と名付けられたことから、紺屋海道の名前が残ったそう。

かつてこのあたりの交通の要衝だったという紺屋海道だけれど、秋葉神社の講の他には、どういうわけか歴史的資料には名前が全然出てこないそう。
ルートも実ははっきりしていなくて、語り継がれている所ではここだろう、と、なんとなくそう呼ばれているらしい。

そんな街道を北上すると、元カブトビール工場である半田赤レンガ建物に至る。


あいにく公開日ではなく、次はゴールデンウィークのようだけど、外からの見物は自由。
1898年に建てられたもの。


窓にはステンドグラスもはまっていた。
この、レンガの長辺ばかり見える段と、短辺ばかり見える段が交互にある積み方を、イギリス積みというそう。

カブトビールは、創業当時は丸三ビールといっていて、中埜酢店(後のミツカン)の4代目と、敷島製パンの創業者らが始めた。
1898年にドイツから技術者を招いて、本格ドイツビールを始めたのがここ。パリ万博で金賞を取ってよく売れたそうで、中京圏ではビールと言えばカブトが強かったそうな。
大正時代には三ツ矢サイダーを買収したりもして、しかし昭和初期には、日本のビール各社が合併してできていた大日本麦酒に併合された。
大日本麦酒というのはもう、アサヒ・サッポロ・エビス・カブト・東京ビールと名だたるブランドをみんなくっつけたようなところで、戦後の財閥解体まではシェア80%とかほとんど独占状態だった。

戦争中にビール製造を止められ、中島飛行機の倉庫に転用されてしまった。
軍事施設になったから、P-51の機銃掃射を受けた跡があったりも。
その後も醸造工場としては復活せず。


摂取院まで紺屋海道を戻って、東の海の方へ。
すぐに順正寺という浄土真宗のお寺があった。ここは檀家の方らしい人がよく集まって何か行事をしてらしたので、写真は遠慮。

東に歩いて、武豊線の線路を越えてもう少し。
すると、酒蔵らしい通りが右手に現れる。
中埜酒造の建物がいくつも並んでいて、これら建物の向こうは運河になっている。


その道沿い、業葉神社が建っている。
特に酒造会社が勧進してきたとかではなく、古くからの村のお社だったよう。
境内に山車とか祭りの説明看板はあるけれど、不思議と神社自体の縁起が見つからず。


で、神社の向かいは中埜酒造の「國盛・酒の文化館」。
酒好きとしてはここは見て行きたいなー、と思いきや、あいにく予約がないと入れない感じ。表に予約の空き具合を出していたのだけど、夕方まで一杯っぽかった。

ここは、明治23年3月30日の陸海軍大演習があったとき、大本営が置かれた場所でもあったそう。
大本営だった建物も現存していて、しかしここじゃなくて雁宿公園に移されている。


道沿いに南下すると、観光案内所が。
1870年に建てられた小栗家という家のお屋敷で、萬三商店という肥料や大豆の卸商をやっていたそう。
だから一階は店らしい大座敷で、二階は普通の和室。
今は観光案内所と、地元の芸術家のギャラリーを兼ねている。酒器のほか、新美南吉にちなんだグッズや絵などを展示販売していた。


割と歩いたし、喫茶店兼土産物屋があった。「魚太郎・蔵のまち」というところ。


ホテルでも朝食食ったんだけど、コーヒーだけでもモーニングつけても値段が同じということで、もう一度。
このスクランブルエッグを乗せたエッグトーストというの、大阪じゃ見かけない文化だ。

ここで、味噌カツや味噌田楽が塗るだけで作れるという味噌調味料を土産に。
それから、半田じゃなくて東浦町だけど、原田酒造合資会社(飛騨にも原田酒造というところがあって紛らわしいのでフルネームで)の「純米吟醸 よき出逢を」を買ってきた。



一休みして出ると、運河がすぐそこなので出てみた。
この半田運河から見えるミツカンの黒塀の建物、これがひとつの名風景。
しかしそれでも今は、ミツカンの建物を老朽化のために一部建て替え中。2015年にはひと通りの改修が終わって、また黒塀が並ぶ景色が戻るとのこと。


そしてミツカン本社。
企業博物館の「酢の里」もある。予約優先とのことだったけれど、行ってみると余裕があるとのことで、入れてもらえた。

やっぱりミツカンといえば酢というイメージで、実際シェア1位。
しかし売上としては酢が3割、他のことも結構やっている。
味ぽんは誰もが知っている所で、さらには納豆においても日本2位のシェアを誇る。
まあ何しろ大阪の人間は納豆をあんまり食わんから、何が有名なのかさっぱりわからないが、「金のつぶ」といえば名前くらいは聞く。

酢を一日15ccほど飲むと、体脂肪が落ちて血圧が下がり血糖値の変動が穏やかになり……といろいろ効能を解説するビデオを見て、飲用酢ドリンクの「ブルーベリー黒酢」の試飲。想像していたよりずっと飲みやすい。

それから博物館見学へ。
多くの酢は、一旦穀物なり果実なりを醸造して酒にし、それから酢酸菌で酢に醸造する。
しかし、ミツカンの初代中野又左衛門は、ここらで盛んだった酒造から出る酒粕を元にして酢を作った。そうすると値段も安く、また味が合うからと、江戸前の握り寿司が普及する要因になって大ヒット。
さすがに今は酒粕ではなく米から作っているけれど、酒粕ベースの酢も細々とながら作っている。
「三ツ判山吹」という商品がそれで、首都圏限定または通販で売っている。関西じゃもちろん見たこと無いな。


ここから、JR半田駅へ戻る。

半田駅前に、半田市鉄道資料館というのがある。
ちょうど列車が来るまで20分あったので、そっちにぶらっと行ってみる。が、あいにく開館日は一部の日曜日だけ。

しかし、蒸気機関車の保存展示はやってるようなので、そっちを見に。


C11 265。
D51なんかだと大振りで迫力もあるけれど、C11は小さくてかわいらしい。
もともと国鉄明知線というところで6年ほど走っていて、それから武豊線に来て20年。そして1960年6月30日に動力近代化のため退役。最後のさよなら列車を牽引していたのがこの265番だそう。

さて、半田駅で武豊行きの列車に乗る。


半田駅の跨線橋は、明治43(1910)年11月竣工の古い跨線橋。
構内の看板にはJR最古とあるけれど、私鉄にもっと古いのあったりするのかな?
(南海本線の浜寺公園駅は、1907年竣工の私鉄で最も古い駅舎を持つけれど、あいにくあそこは地下道で跨線橋はない)
なんでも2010年に武豊線が電化されるとき、高さが足りなくて基準を満たせないからと取り壊しの危機があったとか。

ここから武豊に行って、歩いて名鉄に移動してから次の内海町へ。

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