2013年4月13日土曜日

四條畷 (Cybershot DSC-F77)

ひょんなことから3連休ができたから、ゆっくり遊びに、一泊になってもいいつもりで出かけようか……と。
まだ行ったことがない街で、日帰りか一泊という距離にあるのは、さしあたり思いつくのは伊賀上野と敦賀。朝早くに出れば日帰りOKかな。
と思ったら、朝っぱらから淡路島で震度6弱の地震。

まあ被害なんかはなかったけれど、鉄道ダイヤがめちゃくちゃになった。
ところで今Google日本語入力が「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」をサジェストしてきたのだけど、私が割と工藤静香好きなことまでGoogleは掴んでいるのか。でもあの曲そんな好きでないことまでは掴んでいないようだ。
で、早く行くも何も、大幅遅れから到達不能まである事態に。東海道本線が神戸から京都まで運行停止、ほかほぼ全線に遅延発生。

そういうわけで、急遽行き先を変えて、近くの四條畷に。

今日のカメラは、サイバーショットDSC-F77。初代サイバーショットF1以来、伝統のレンズが回るシリーズ。



片町線を使うのも久々。東西線・片町線は少しの遅れで運行中。

四条畷駅は、意外と四條畷市内にはなく、隣の大東市にある。
ほんのちょっと北に歩くと四條畷市入り。
四条畷駅の北隣の忍ヶ丘駅が四條畷市北寄りにあり、そのちょっと北にすぐ交野市との境界がある。四條畷市は南北には短い。
しかし東西には意外なほど広くて、東に見えている飯盛山を越えて、奈良県に思えるようなところまで四條畷市。

商店街を通って駅西側に。
昭和な雰囲気で、道も狭い窮屈な商店街だけれど、活気をなくしている感じではない。
駅前に四條畷学園小中高短大が並ぶ学生街でもあるせいか、イオンが作れるほど土地の余った田舎ではない程度に都市部に近いせいか。


突き当りまで行くと、小楠公こと楠木正行の墓所がある。
南北朝時代の四条畷の戦いといえば、北朝・高師直の6万の大群に、わずか3000の楠木正行が果敢にも戦って負ける。
そしてここに、自害した正行を祀る小さな石碑が立っていた。そして没後100年ほどして、誰かが楠を2本植樹したが、それが550年を過ぎて、2本が融合しながら大木に育って今に至る。


さっぱりカメラに収まらない、かなりの巨木。

商店街は楠公通り商店街だし、近くの地名も楠公となっている。
商店街の商品にも楠公にちなんだネーミングのものがあったりして、楠公とともにある街という感じ。


商店街を戻り、駅を過ぎてさらにどんどん東へ。
この交差点が国道170号線旧道との交点。このあたりでは、旧170号=東高野街道でもあり、そこに四條畷神社の大鳥居がある。


どんどん東へ行くと、飯盛山の裾にさしかかって登り坂になっていく。
途中で、なんというかものすごいセンスの豪邸を見かけたりしつつ、坂をどんどん上がる。


そして突き当りが四條畷神社。
土地の名前がついた神社というと、その土地の産土神を祭ってるようなイメージがあるけれど、ここは四條畷の戦いで亡くなった小楠公ほか一族24名を祀っている。
隣に住吉平田神社というところがあるが、そこの神主さんが明治11年(1878年)に、小楠公を祀る神社を建立したのが始まり。


境内の雰囲気なんかも新しい感じ。
各県にある護国神社は、できた経緯とかその後の扱いなんかで、古い神社とはかなり違う雰囲気を持ってるものだけど、四條畷神社もわりとそんな雰囲気がある。


拝殿が横並びに繋がって、御妣神社には正行公の母が祀られている。


この神明鳥居は、伊勢神宮から贈られたものであるそう。


楠公慰霊塔。
豊中市の杉野製作所という会社が山林を買収したら、その山中に人知れずあったものだそう。
楠公(ここは大楠公・正成公のほう)が桜井の別れのあと、うちの寺に泊まって、それから兵庫湊川で自害なさった、という記載があるそう。
うちの寺、というのは、「大内河内守義弘 安楽寺」とある。大内義弘……という人をぐぐっても、時代も場所も官職も違う周防大内氏の義弘しか出てこない。
豊中に今でも安楽寺というお寺はあるようだけど、同じところだろうか。

ほかに、桜井の別れを表した彫像があったり、菅公を祀る楠天神社、飯盛山の東にある有源山にあった成人教学研究所にちなんだ有源招魂社というのがある。




北隣に、住吉平田神社。
由緒を書いた看板があるのだが、かなりかすれて読みづらい。
神社由緒記には、寛平年間(889~901年)に鎮座した、と書いてるけどよくわからないらしく、まあ700~1000年くらい前だろうとのこと。

住吉・平田と並んでいるのはどっちも地名じゃなく祭神で、住吉大神と平田大神を祀る。
平田大神ってどういう神様だろう?

今回は行っていないが、北に御机神社という式内社もあって、飯盛山はなかなか霊山ぶりを見せる。



階段がながい。
四條畷神社もかなり階段をのぼるのだが、その高いところから北に伸びる山道があった。もしかしたら一旦下りて登り直さなくても直接住吉平田神社に来れたのかもしれない。


社殿も新しい。最近になって立て直したようで、寄進者の名前を掲示していたりもした。


観光マップに従って、ちょっと北の川沿いにある弥勒寺というところに向かう。


が、別に大伽藍を誇るような寺ではなく、こぢんまりしたもの。


弥勒寺十三仏という、見るからに歴史ある石仏があった。
もうちょっと説明とかあるといいのだけど……


川沿いに下りていって、東高野街道に出てもうすこし北上。


和田賢秀(にぎたけんしゅう)の墓所。小楠公とともに四條畷の戦いで散った武将で、四條畷神社の祭神にも加えられている。
なんでも討ち取られる間際には敵将の首に噛み付いて離さず、その敵は噛み傷がもとで死んだという伝説があって、歯噛(神)様と地元ではいわれているそう。


その向かいのセブンイレブンのところから、東高野街道が真北に、国道170号旧道が北東にと分岐する。


東高野街道の方を北上していくと、四條畷市立歴史民俗資料館がある。

四條畷というのは、朝鮮半島から牧畜が伝わってきた時、それに適した土地だからと日本初の牧畜をやっていた土地だそう。

また、珍しいものとして、日本で最も古いキリシタン墓碑が四條畷で見つかっている。
飯盛山城に三好長慶がいたころ、キリスト教の受け入れが行われた。その家臣団のなかで、四條畷市の山の東側、田原地域を治める田原氏がキリシタンになって、レイマンという洗礼名を得た。
その田原レイマンの墓標と思われるもの。1581年没だそう。
日本人の墓石は立てるけれど、キリシタン墓碑は寝かせるから違いが歴然で、禁教になってからはかなりキリシタン墓碑は破壊されていっちゃったのだけど、この田原レイマンのものは、田原氏の菩提寺である千光寺の敷地に隠すように埋めてあったそう。


ここから東高野街道を通って駅に戻って帰宅するんだけど、途中の電器屋にやたらレトロな電卓やらが。


左はたしか東芝のロゴがあったっけ。右はカシオのFR-2650A。


ニッポ電機の小切手印字機。


コクヨKC-80A。シャープのOEMだそう。

レトロ電卓について検索してみると、電卓博物館という面白そうなサイトを見つけたので、あとで読んでみよう。



今日のサイバーショットDSC-F77。
まあこのシリーズは、前にF55F88を使ってみたりもしているので、お馴染み。
F55が1999年、F77が2002年、F88が2004年。
同時にFX77という、Bluetooth搭載モデルなんてのもあった。

F88は1/2.4型500万画素CCDで3倍ズームレンズだったが、F77は1/1.8型400万画素CCD。そして換算37mmF2.8の単焦点レンズ。
ヘンな格好しているわりには、かなり画質もよさそうなスペックを持つ。
2002年頃の、ソニー製1/1.8型300~500万画素CCDは画質良かったもんで、私はこの世代のカメラに好きなものが多い。

F77はといえば、期待されるレベルの画質は出てるな、というところ。
同じであろうセンサーのコニカKD-400Zほどカリカリにシャープではないけれど、あれはあれがシャープ過ぎるだけなので。
ただ、ちょっとコントラストが高すぎて、白飛び黒つぶれが出来てしまいやすい感じがある。

レンズはまずまず、ちょっと四隅に周辺光量落ちあるくらいか。F5.6ぐらいでも、四隅に空があると視認できる。まあ実用上の問題はないか。
ただ、逆光だとやっぱりある程度ゴーストとか出るみたい。(四條畷市立歴史民俗資料館の写真にちょっと出てる)
まあ、サイバーショットは時々びっくりするくらい逆光弱いモデルが出るので、その中では良い方。

プログラムラインは、あまり開放端を使おうとはせず、F4まではすぐに絞り込む。
F4のまま1/500秒までシャッタースピードを早めて、今度は1/500秒を堅持したまま絞り込んでいく。F8まで来たらまたシャッタースピードが早まるよう。
開放F2.8じゃ少し画質が落ちるとか、F4での画質に自信があるとか、そういうのがあるのかも。

起動は実に早くて、レンズを回すともう撮影可能な状態。
レンズを回す操作に慣れがいるものの、さっと出してさっと撮れるカメラではある。
なんとか胸ポケットに入るサイズでもあり、携帯性もまあまあ。閉じてしまえば突起部がほとんどない平板な形状なのもよい。
まあ翌年にはスイバル最薄モデルの京セラSL300Rが出るし、3倍ズームで抜群に小さかったカシオExilim ZOOMとペンタックスOptio Sが出てくるから、ここらとは比べるべくもないんだけど。

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