2013年7月20日土曜日

平城宮跡 (K-01 / DA 21mm F3.2 Ltd.)

暑かったのだが、しかし湿度がちょっと低めで結構気持ちよく歩ける日だった。
久々にまとまった徘徊。

奈良は大和西大寺から、平城宮跡と陵墓群を見てきた。




写真のへたくそな私だけれど、特に酷いのは水平を外しまくる点だった。
今後はできれば水準器内蔵のカメラが欲しいな……と思っていたら、ホットシューに取り付けるアナログ水準器というアイディア商品を発見。
日本橋で上海問屋の店に行ったら見かけたブツ


これ一眼レフじゃ使いようがないよな、と思うが、ミラーレス一眼なら全然OK。時代が生んだ商品だ。

精度は不明。今回の写真で目に見えて傾いた写真が多くなければ、まあ問題ないといえる。
最悪の場合、水準器自体が傾いていて系統誤差が発生する、というのもありえる。
店頭で見た限り、気泡の大きさにかなりの個体差があったから、あまり精密にできているようには見えないのが正直なところ。

不細工? うん、それは私もそう思う。



近鉄大和西大寺駅に下り立つと、この駅はやたらと駅ナカが充実している。
昼飯どうするかというところだが、駅ナカで弁当買って平城宮跡で食べるというのもアリだろう。
店のほうもそれを狙ってか、カレー屋までが弁当を出している。

迷って、鳥料理「蔵や」のやきとり弁当。
それから「味季屋」のくず餅とあんこ餅を購入。みたらし団子が自慢の店だそうだが、ちょっとみたらし苦手で。


弁当ぶら下げて駅を出ると、平城宮跡より先に、西大寺に行ってみる流れがよさそう。


西大寺門前に、西大寺石落神社というのがある。
1242年に西大寺の鎮守として、開基の叡尊が開いたという。
拝殿もなく本殿むき出しの小さなもので、おそらく室町時代半ばからある古いものとのこと。
本殿の手前は階段になっていることが多いのだが、これは床を張ってある「見世棚造」というのだそう。



振り返ると西大寺の門。

門前にいた地元のお父さんが、このあたりについて色々解説してくれて、地図とガイドパンフレットをいただいた。
かつての西大寺の敷地の広さ、この辺りは景観のために50m以上のビルが建てられないこと、日葉酢媛命陵(垂仁天皇の皇后)で初めて殉死を禁じて埴輪をそなえるようになったとか、そういう豆知識なども教えて頂いた。



入ってすぐ右手が、四王堂。
中には亀山天皇が寄進したという十一面観世音菩薩像がある。


手前のこの石組みはなんだろう?



本堂。ああ露出オーバーだ。確かオートHDRにしてるのに……。
やっぱりK-01の中央重点度が強いマルチ測光は、ちょっと好みに合わないな。もっと平均的なのがいいんだけど……。

しかし立派な本堂。
年季はあるのだが、これでも一度火災でやられて江戸時代以後に再建したものだそう。1808年竣工で重要文化財。

拝観料を払って中に入ると、これも重文の釈迦如来立像や文殊菩薩像などがある。
もうちょっと仏像の見方わかれば面白いのだが、なかなか基礎知識もつかないな……。


かつての東塔跡が、基壇だけ残る。
765年に東塔が建った時からのものだそうで、西大寺でも最も古いもの。
東塔そのものは、室町時代に兵火に焼けてしまったそう。


愛染堂。
こういう正対アングルは意外と難しくて、傾いてしまったりパースがついたりしがちだが、まあまあ綺麗に収まったのは水準器のおかげか。

建物は1600年ごろに建ったものだそうで、重文の愛染明王像を祀る。


別アングルから、東塔基壇の向こうに本堂。


ここから平城宮跡には、ちょっとだけ距離がある。
ぶらぶら歩いて、選挙前日の最後の追い込みをかける候補者の皆さん(奈良は確か市長選も同時だったか)の声を聞きつつ、たどり着いたのは平城宮跡の中程西側。


平城宮跡とはどんなものかと思っていたが、なんというか、道の走った空き地という感じ。
地図で見ても相当な広さなのだが、ほとんど空き地。ぽつりぽつりと資料館や研究施設、あるいは復元遺構などがある。
ついでにいえば、平城遷都1300年祭が終わってしばらく経った現在では、人の姿も少ない。
1300年祭のときはどんなだったんだろな。この広さと、人混みというのがいまいち結びついてくれないくらいには広々としている。


木陰にベンチを見つけて、弁当をオープン。
唐揚げは、脂気を落としたあっさりしたタイプ。美味しかったのはつくねかな。
奈良時代なら唐揚げなんて恐ろしい贅沢品だよな、と思いつつ頂いた。
くず餅とあんこ餅は、ちょっと持ち歩いてる間に押さえてしまったか、包んでる葉にくっついてしまって剥がすのに難儀したが、適度に甘くて好ましい。


近くに平城宮跡資料館があったので、まずここから。

中では、発掘の方法の展示やら、発掘品の展示など。
どうも、仕事サボって木簡に顔描いて遊んでたり、さらに凝って腕・足パーツを作ってアクションフィギュアに加工してたり、当時の高級官僚もたまにはサボってたのがうかがい知れた。
私の好きな唐三彩の、陶枕なんかが粉々になって展示されていて、これ割れてなければ大層なもんだろうなあ。奈良三彩、とされてる壺なども数点あったけれど、当時奈良で作ってたのかな。


平城宮跡は、広い敷地の北側に大極殿と遺構展示館、東に宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにますたかみむすびじんじゃ)、南に朱雀門と平城宮歴史館、西に平城宮跡資料館と、施設が散っている。
全部回りたいところだが、一応私はここに天皇陵めぐりのために来ている。
暑さもあって、ちょっと全部行くと力尽きてしまいそうなので、大極殿のほうへ。



まあ、目立つ。


近づいてもさすがの威容。


中の中央部には、高御座が構えられている。
かつて天皇がここに……といいたいところだけれど、さすがに高御座の造りについての1300年前の記録ははっきりとはないようで、京都御所の大正天皇の高御座を元にイメージで作ったものだそう。


大極殿正面から、朱雀門を望む眺め。



大極殿から西に歩いていくと、宮内庁があった場所が復元されていた。
左手の石の上には、瓦葺の正殿があったそう。
ここは土塀で囲われていたが、土塀も建物もできるだけ当時の工法で再現したとのこと。


そして遺構展示館へ。
ここは文字通り、発掘を行った遺構そのものの展示がメイン。


こんな具合で、遺構そのものを保存してある。



磚(せん=当時のレンガ)を敷いた廊下なんてのも、当時は贅沢なもんだったそう。



半分しか見ていないことになるが、一旦平城宮跡を離れる。
県道104号線を東に行ってちょっと南にそれると、いくつかのお寺が集まったエリア。


法華寺。
奈良時代からある歴史ある寺で、当時は全国の総国分尼寺だった。なんでも光明皇后の后宮だったところがそのままお寺になったとかで。
日蓮宗? と思われそうだが、当然奈良時代に日蓮宗はない。天台宗すら来ていない。
光明宗という宗派を名乗っているが、最近まで真言律宗だったそう。真言律宗も当然、空海が真言密教を持ち込んでからのもので、奈良時代にはない。鎌倉時代に叡尊が復興した縁のよう。



なんだか先の見えない参道が気になる春日社があった。
しかし由緒書きの看板を見たら、祭礼のとき以外は門を閉ざしている神社だそう。



えらく年季の入った門の、海龍王寺。
もともと毘沙門天を祀る寺があったところ、玄昉という僧が、遣唐使として無事に仏法と経文を持ち帰れるようにと願をかけ、また平城宮の北東鬼門を護るために、海龍王寺と改めたのが731年。
この表門は16世紀のもの。

写真がないけれど、門を入ってすぐの参道の雰囲気が良い。こういうお寺は趣味がいい。
拝観料を納めて中へ。


本堂。17世紀中期のもの。
時代の割りには古い様式で、奈良時代風の部分が多いとのこと。
中には鎌倉時代のものらしい、重要文化財の木造十一面観音菩薩像などが祀られている。


それから国宝の五重小塔。
高さ3メートルほどのミニチュアっぽいものだが、8世紀頃の建築様式を今に残す貴重な資料で、工芸品とかではなく建造物として国宝指定されている。
1300年のオーラはやはり違う。

で、これに目を奪われてうっかりしていたが、これを納めている西金堂もまた重要文化財。
西金堂もまた奈良時代の建築だそう。
こっちも1300年のオーラがあったはずだから、写真ぐらい撮ってるべきだろうに、それを見落とすということは私の目は節穴だ。


「自衛隊」という方向指示看板のほうに歩いていく。
すると、文字通り自衛隊の施設にぶつかった。空自の幹部自衛隊学校だそうで。


東西両側を、東がウワナベ古墳、西をコナベ古墳に挟まれている自衛隊。
これは西のコナベ古墳。


コナベ古墳の北に、仁徳天皇の皇后である磐之媛命の、平城坂上陵。
大阪堺の仁徳天皇陵とは随分離れているが、なんでも仁徳天皇が浮気したせいでブチキレて京田辺まで家出して亡くなったそう。京田辺とここはちょっと離れてはいるが、堺よりは遠くない。
仁徳天皇はどうも、仁君と名高いんだけどかなりプレイボーイでもあったとか……。


水上池という人工っぽい池を回って西の方へ。


すると次は、平城天皇楊梅陵(やまもものみささぎ)。
平城京を立ち上げた天皇……ではなく、上皇時代の810年に平安京から平城京に再遷都しようとして、嵯峨天皇とえらいモメた天皇。
710年の平城京立ち上げから100年くらいの間は、長岡京やら平安京やら恭仁京やら難波京やらあっちこっち動いていた。

そういういきさつもあって、ここが平城天皇陵に指定されたのだろう。
けれども、なんでもこの古墳は「大型の円墳」かと思ってたら、「前方後円墳の前方部が平城京建設のために取り壊された」ものだとわかったそうで、平城天皇より100年以上古い古墳ということになってしまった。


平城天皇陵から西へ。
歴史ハイキングコースのようなものが設定されていて、それにしたがって歩いていく。


見たことないのがいたので一枚。ダイハツのデルタ2000という車だそう。
5代目まであるようだけど、何代目だろう?



佐紀神社。
このあたりの地名が佐紀なので、地元の氏神様というやつだろう。

このあたりは古墳群になっていて、佐紀盾列古墳群といわれている。
前方後円墳の濠の形が、空から見ると盾のような形。それが向きを揃えて並んでいるからタテナミ。


垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命狭木之寺間陵。
すぐとなりに、同じ様な規模の前方後円墳が仲良く並んでいるのに、そっちは垂仁天皇ではなく成務天皇陵。
垂仁天皇陵は、5キロくらい南にある。


となりの成務天皇狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)。
サキ、という地名にあてられる感じがバラバラだなあ。

成務天皇は、なぜか記紀にほとんど書いてもらえなかった、という天皇。
ただ、成務天皇が作った道だとされている古道が少なからずあるとか。


成務天皇陵のすぐ南側に古墳があるのは、地図で見てもわかるし、宮内庁の立入禁止看板があることからもわかるのだが、遥拝所が見つからない。

東回りにぐるっと一周してしまって、結局西側、県道52号線からアプローチする位置だった。


称徳天皇高野陵。
孝謙天皇として即位して、一旦淳仁天皇に譲位するものの後に追放、再び称徳天皇として即位した。
史上6人目の女帝で、そして次が現れるまで850年も間があく。

道教が取り行っていた女帝が称徳天皇なので、色々アレな話も取り沙汰される。



さすがにかなり疲れてきたのだが、ここまで来たら見ておきたいのが北に。


露出オーバーでえらいことになっちゃったが、神功皇后陵。
神功皇后といえば、三韓征伐の帰りにそこらじゅうに神社を建立していってたりするもので、神社好きには大抵の天皇より有名な皇后といえる。

成務天皇陵は女帝陵・皇后陵に囲まれてるような位置取りだけど、それが神功皇后に称徳天皇なんて強烈な女性ばかりとなると、なかなか両手に花などと浮かれるのも難しかろうなあ。


そしてぶらぶら歩いて、近鉄百貨店に寄ってから大和西大寺駅に戻って帰宅。


終わって写真を見てみると、水準器の効能はなかなか良さそう。
水平外しすぎる私には強い味方になってくれそうだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿