2011年11月26日土曜日

吉野 w/ DC-4U

秋なので、吉野に行ってきた。
春に行くべきところじゃないか、というのはさておき。

カメラはRICOH DC-4Uを持ち出し。




近鉄で阿倍野橋から吉野行き急行に乗って直行。
直行は直行なのだが、橿原神宮前駅から吉野までの吉野線の区間が長かった。
各駅停車なのはともかくとして、単線の割に運行本数が多いらしく、4回か5回も行き違い待ちの停車があってもう進まないこと。これで輸送密度上がるんかしら……


吉野駅。
観光地らしく駅前には売店が並ぶ。


ちょっと向こうにあるロープウェイで、さらっと上にあがる。
運営会社の名前が吉野大峯ケーブル自動車というのだが、ケーブルカーでなくロープウェイ。
これが現存最古のロープウェイであるそうな。
またゴンドラがえらく小さいが、28人乗りと表示があった。寿司詰めになるような……


ロープウェイを降りるとまたしばらく土産物・飲食店・旅館のエリアがあり、少し歩くとめちゃうま山ぐり、じゃなくて黒門が見えてくる。
黒門をくぐれば金峯山寺に入る。


少し上がると大きな鳥居が見えてくる。
銅(かね)の鳥居という、奈良の大仏を作ったあまりの銅材で作ったそうな。一度焼けて再建したものだけど、再建も1400年代らしい。


程無く金峯山寺の仁王門が見えてきた。


仁王門をくぐ……ろうと思ったら工事中だったので回りこむと、蔵王堂。
役行者がここ吉野で修行中に蔵王権現を示現したことから金峯山寺が始まったとされ、修験道の本山となっている。
かなり古さを感じさせ、またかなり装飾が派手だな、と思えば、秀吉が1592年に寄進したものだそう。


蔵王堂に向かって左手には威徳天満宮。
今から1000年ほど前、如意輪寺の開基・日蔵が金峯山で修行していたら、仮死状態に陥って冥府魔宮に行ってしまった。そこで醍醐天皇に出会い、「菅原道真を九州に流してしまった罪でこうして苦しんでいる。あなたが生き返って道真の霊を祀ってくれれば、私も苦しみから解放される」と頼まれ、生き返って建てたのがこの天満宮だそう。


ほかに、久富大明神とか、吉富稲荷大明神といった小さな神社がある。ここらの集落の氏神様だろうか、それともなにか違った由来があるか。


柵に囲まれて桜の木が植わっているところがあるが、後醍醐天皇の第二皇子・大塔宮護良親皇が幕府の大軍に攻められて吉野に立てこもった時、本陣とした蔵王堂の前で落城直前の酒宴を張ったという。
その陣地跡に、桜が植えられたり、灯籠が置かれたりして今に至る。


蔵王堂正面、かつて二天門があったところを降りていくと、導之稲荷社というのがある。
後醍醐天皇が京都から吉野へ脱出するとき、途中で夜道に迷ってしまったのだけど、稲荷社の前で歌を詠んでみると空に紅い雲が現れて、吉野への道を導いてくれたという。その稲荷社を勧進してきたのがここ。

ここでいい時間だったので、目の前にあったうどん屋に入って、鴨そばを頼んだ。
鴨肉とネギの入ったいわゆる鴨なんば。美味しく頂いてまた上がる。


ちょっと行くと東南院というところ。
古い霊山には大抵東南院とか東南寺があるもので、それは中心の伽藍が建って、そこから巽の方角に寺を建てて山の興隆を祈願するという慣習があったから、との話。


それから、左手に鳥居が見えてくると吉水神社。
義経が弁慶と静御前を連れてここに身を隠したり、後醍醐天皇が行宮としたり、秀吉が大花見の宴を開いた場所でもある。
そういうこともあって、宝物が多量に集まっているし、また現存する書院が初期書院造りの傑作といわれている。
明治までは吉水院という僧坊だったけれども、明治8年に後醍醐天皇・楠木正成を祀る神社となった。神仏分離のときに、天皇を仏式で祀ってるのは不味いから云々とあったよう。


書院。うっかりしたが、この右手に屋根の端がちらっと見えているのが吉水神社の本殿か拝殿か。
近くの勝手神社が臨時で遷座しているとか看板が出てたりなどして、吉水神社本殿はもっと奥にあるのかと勘違い。

書院には拝観料400円、しかし、現在もそのまま残っている行宮に足を踏み入れられるのはなかなか珍しい体験だろうと思う。
狩野永徳の襖絵があったり、義経や弁慶の鎧や篭手などあれこれ展示されていて、持ち主・作者のネームバリューのインパクトが強い。一休とか蝉丸なんて名前も出てくる。


また登って行くと、勝手神社というこれもまた歴史ある神社があるのだが、立入禁止になっている。
三間流造の立派な社殿があったらしいのだが、放火で全焼してしまった。
義経が頼朝に追われてここに潜んでいたとき、攻め寄せてきた来た追手に、ここで静御前が舞を見せて魅了し、その間に義経を逃れさせたというような伝説があるところ。


その近くに、櫻花壇という旅館がある。
谷崎潤一郎や吉川英治も泊まっていき、「吉野葛」や「新平家物語」を執筆していたとか。

ここから先は、しばらく淡々と登山。
道はおよそすべて舗装されていて、普通の靴でも平気で登れる気楽なところ。
ただ、このあたりからはかなり傾斜もついてきて、登って行くとなんだかんだでかなり体力はいる。ロープウェイからバスで奥の金峰神社まで上がって、そこから歩いて降りてくるのがおすすめルートのよう。


横川覚範の首塚があった。
義経が頼朝に追われ、吉水院からさらに奥の吉野水分神社へ逃げていくとき、それに追いすがった僧兵の大将が横川覚範。
そして義経の鎧を着て身代わりとなった佐藤忠信が、義経を逃がすべく殿になって戦った。


もうしばらく上がると、佐藤忠信が横川覚範へ矢を射かけた矢倉の跡がある。
この高所を取って射かけた矢でなんとか横川覚範を討ち取り、首を埋めたのが先の首塚。


かなり登って、ようやく吉野水分神社に到着。
鳥居の柱と島木の間に台輪という補強が入っている、というのはたまに見るけれど、その台輪に屋根がついてるのは珍しい。
また、鳥居の柱の前後に稚児柱という補助柱みたいなのがあるのはよくあるが、これは後ろにしか稚児柱がない。


門はなかなか派手。この派手さは秀吉が絡むパターンか、と思えば、やはり社殿もなにもかも秀頼が寄進したもの。

創建年代は不明だけれど、延喜式には載っている。
祭神は、三間造りの社殿の正殿に天之水分之神、右に天萬栲幡千幡比咩命、玉依姫命、瓊々杵命、左に高皇産霊命、少彦名神、御子神を祀る。
しかしなんとも変わった境内で、ぐるっと周囲を回廊が囲んでいる。
ただ惜しむらくは本殿が工事中でビニールシートしか見えない。こんな面白い造りの神社が見えないとはー……


境内には、秀頼が寄進したという神輿があったり、柴神社という社があって、そこにある柴を燃やして灰を子供の皮膚病に塗ると治るとか、子供がらみのものが多い。
「みくまり」が「御子守」となまって子宝祈願やら子供の健康を祈られるようになっているそうな。

奥に金峰神社というのがあるのだけど、さらに2キロ近く登るのは体力的に厳しい(体のでかい奴は上り坂はしんどいのだ)ので、ここから下山。


水分神社からすぐ、世尊寺跡というところがある。
廃仏毀釈でぶっ壊されてしまったが、残った本尊は蔵王堂に、それから「吉野三郎」といわれる釣鐘が残った。その釣鐘は、平清盛の父・忠盛が寄進したとある。
見晴らしのいいところでもある。


どんどん降りていくと、道の脇に吉水宗信法印の墓がある。
吉水院の住職だった人で、後醍醐天皇を迎え入れ、天皇が病で崩御した後にも南朝の正当性を訴えて北朝足利方と戦うべく吉野の意見を纏めた人物。

下りは道を少し違えて、寺院がたくさん並ぶ道を通ってみる。


竹林院。ここは現在旅館を兼ねているよう。


桜本坊。石碑の通りに勅願所であった。
境内にまた神社があって、吉野弁財天、とある。金峯山寺が蔵王権現を祀る修験道の山だけあって、あんまり神仏分離が厳格でない感じ。しかし廃仏毀釈で壊された寺もあったし、残ってる寺とは何が違ったのかな。


喜蔵院。ここにも神社があって、寿稲荷大明神とある。
ここはどういうわけか孔雀を飼っていたが、なにか祭事にでも使うのかな。

程無く、先の勝手神社あたりに降りてきて、また登ってきた道と同じ道に合流。
ずーっと降りていく。ロープウェイの駅もパスしてどんどん降りる。近鉄吉野駅には通じていない県道15号をどんどん歩く。


途中で、村上義光公の墓。
後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王の臣で、北条氏との戦いで吉野城が陥落した時、大塔宮の身代わりとして切腹した。もちろん首実検でバレて首が捨てられるのだけど、それを哀れんだ里人が墓を作った。

さらにどんどん行く。
このあたりは二車線の車道に路側帯もないような道なので、車がちょっと怖い。


そして最後の目的地、官幣大社・吉野神宮。後醍醐天皇を祀る。


そう派手ではなく落ち着いた造り。創建は明治天皇により、後醍醐天皇を吉水院=吉水神社に祀ってたのをちゃんと独立した神社するべく作られた。


摂社は御影神社・船岡神社・瀧櫻神社とある。
明治時代に南朝が正統とされて、建武の中興関係者を祀る官幣社が全国に作られたのだけど、そこに祀られなかった南朝の忠臣をここに祀る。


近鉄の吉野神宮駅まで歩いて行くと、大鳥居があった。

駅前の売店で、店番のおばあちゃんの、あれこれ商品説明をしてからそのまま自然にそれも買うことにしてしまう流れるようなセールストークを受けつつ土産物を買い込んで帰路へ。



DC-4Uは、まあ見ての通りの画質で、どうにもダイナミックレンジが狭すぎて撮影が難しい。
露出補正で頑張ってコントロールすべきだろうけど、メニューの中ですぐアクセス出来ない。
それ以上に液晶が恐ろしく悪くて、暗いと故障してるかと思うくらいノイズが出るし、明るいとフレーミングすら難しいほど見えにくくなるし、適度な明るさでもホワイトバランスの転びなど確認できないし、露出の確認も難しい。

当時は、CCDのカラーフィルターが、色再現性のいい原色フィルターか、感度の高い補色フィルターかで意見が分かれていたのだけど、これは原色フィルターのほう。
まあ、色は結構鮮やかに出てくる。時代が時代なのでホワイトバランス転んだりもするけれど。
しかし、やっぱり感度が低くて、スローシャッター警告はよく出る。
しかし、スイバルレンズ機だけあって、体に引きつけて安定した構えをとれるから、実際に問題になるほどの手ぶれはほとんど出なかった。
スイバル機にファンが多かったのも、今さらながらわかる気がした。バリアングル液晶ファインダーとはまたちょっと違う。
まあ、通常と大幅に違う構え方になるから、いつにもまして水平出てない写真が増えたけれど。

でもって、悲しいことにレンズの出来もイマイチな感じ。130万画素を使い切れてるように見えない、もやっと甘い感じの画質(これは画像処理のせいもあるかもしれないけど)。広角端でかなり歪曲もある。
マクロモードもどうやらテレマクロなようで使いづらい。

ただまあ、この程度の画質というのが1998年当時としてどれくらいだったかは、私にはいまいちわからない。
同時期のカメラはC-1400XLしか持ってなくて、いくらなんでもこんなクラスの違いすぎるものと比べても。デジタル一眼と廉価版コンデジみたいな差がある。

画質をさておいて、スイバルレンズは確かに面白いのでオモチャにはいい、とも思いつつ、起動に6秒ほど掛かって、撮影間隔も10秒くらい待たされる、という恐ろしいまでのどんくささは厳しい。
しかも、ズームレンズなのはいいけど端から端まで6秒ほど掛かる超遅いパワーズーム。これはちょっと笑った。
このへんは、さすがに98年当時でも超遅いといわれていたようだ。

まあ、悪くしかいってないけど、時代に寄るところも多いし、スイバル機面白い。
COOLPIX 900とかそのへんが見つかったら確保しよう。うん。