さんだ街かどスイーツバルというイベントがあると友人に聞き、「三田って行ったことないから行く理由付けにいいかも」と振ってみたら二人して行くことになったので、出かけてきた。
今日のカメラはCaplio RR10。
業務用っぽいカメラばっかり出してた時期のリコーが、コンシューマ向けに振った製品。
携帯電話を2倍に分厚くしたくらいのサイズはある(当時としては普通)けれど、結構洒落た格好のカメラではある。
JRで大阪から、乗ったことのない福知山線新三田行きに乗り込む。
ウワサの都会の秘境駅・武田尾駅を通過して、谷の隙間にある駅かと思ってたら、ほとんど山の中に埋まってる駅だと知る。
意外と早くに三田に到着。
三田は神戸よりも大阪のベッドタウンだという話も聞いたことがあるが、たしかに丹波路快速で1時間そこそこで大阪駅なら十分通勤圏だ。
三田についたものの、早過ぎて友人がまだきていなかったので、ひとりで市街地と反対側にある三輪神社の方へ向かう。
駅前の観光案内所でもらった地図を見ながら歩くと、地図から受けるイメージよりずっと早くに到着。近い。
この後もずっと「地図で見たより近い」と思い続けることになるのだが、三田は小さな町だ。さらにいえば、地図に細い路地まで書き込んであるから、縮尺イメージがずれるのだろうと思う。
なぜか露出がぶっ飛んだが、鳥居から参道が綺麗に整備されている。
震災の影響を受けてから修復したのだろう。
三田の町は、もともとこの三輪明神の門前街として開けた、と案内板にはある。
拝殿。やはり新しいが、しかし趣味の悪いような再建でもなく、このまま古くなっていけばそのまま趣がよくなるのだろうと思う。
参拝順路を示す小さな張り紙(摂末社の祭神の一口説明など、いっぱい貼ってある)に誘導されていくと、裏手に回れとある。
この琴平宮と遥拝所は、このとおりに古いものが残っている。
他の摂末社はやはり再建されたもので、新しい。
一回りして、左手の方にのぼりの山道がある。
このあたりは麓だが、地図で見ると、もうちょっと山の上のほうが城山公園となっている。
城山といっても、戦国期の三田城はもうちょっと別のところにあった。
三輪神社の由緒には、南北朝時代に松山弾正という領主がここに遷座して社殿を奉納した、という話があるので、その頃に山上に城を作って、三輪神社をその守り神とした、というとこだろうか。
で、この山道に沿って、5基もの古墳がある。
古墳時代後期、6~7世紀半ばのものということで、規模は小さい。
5世紀とかだと100メートル超えるよう前方後円墳が地方豪族レベルで作られたりもするのだけれど。
山道を通り抜けると、三輪明神窯史跡園に直接入れる。
このとおりの連房式登り窯の跡。
1~3号まで窯があるが、ちょっと紛らわしいが3号から順に古い。
3号は完全には残っておらす(写真右2段目・左3段目)、2号は後から1号を重ねるように作られたので残っていない。1号だけ完全な形で跡が出ていて、これが兵庫県指定史跡。
3号は14室もある大型のものだったが、1号は4室。3号は文化・文政の頃のもので、1号は明治に作られて昭和のはじめまで使っていたくらい新しい。
三田焼、というと必ずしも有名ではない。
私はたまたま、美術館で三田焼のコレクション展示があるのを見たことがあったが、やはりそういうの見る前は知らなかった。
解説員の方の話によると、宋代中国の青磁の技術が、朝鮮を経由して日本に来たのが江戸時代初期。鍋島藩など北九州諸藩が、藩の財源となる貴重な技術として部外秘にしていたが、ついに初めて他国に伝播したのが1800年ごろ、この三田にだった。
このあたりは燃料に適した赤松の林で、しかも青磁の釉薬に適した石が取れた。
で、この窯は大規模だから、ひとつひとつろくろを回して作っていられないということで、型押しで作るようになった。その型が、使用済み品として廃棄されたらしいものが発掘されている。
見たところ精緻な型に見えたが、実際技術的にはかなり高く、宋・朝鮮の名品にも見劣らないようなものが作れたとか。
しかし、三田の器にはモノとしての評価が高い割に、陶工個人の銘があるものは少ないそう。
このあたりは解説の方がボカすような言い方をしたが、型押しで量産するような作り方のせい(そうでもしないと青磁は歩留まり悪くてまともに生産できんのだが)、あるいはまあ、質が高くて、同等の質が高いといわれるブランド品がある、となると取るべき販売戦略が、というような、まあ私が勝手に穿って聞いただけかもしれないが。
そういう話なども含めて、興味深いスポットであった。
一旦駅に戻って、到着した友人と合流。
スイーツバルのチケットを買い込んで、三田駅前商店街の伊酒屋のランチメニューで軽く昼食。
商店街は昭和のまま、でも駅前は近代化した雰囲気。つまりは商店街が風化していこうとしている。
商店街のちょいと駅から遠い側、スイーツバルの参加店がさっそくひとつ。
ここでさっそくチケットを引き換えてくると、ケーキが3つ4つ入るような箱に、パンフレットに書いてるフレッシュトマトの甘パン・ショコラフレーズの2つと、さらに別にクロワッサンにクリームを入れたようなのがさらに追加されていた。
今回引き換えた中で飛び抜けてボリュームがあった。帰って食べたけど味もよくて、なんでこんな気前よかったんかしら。
武庫川を渡る相生橋。
下流では川幅100メートルを超える武庫川も、このあたりではこんなもん。
角にある丹波屋という、佃煮などの店だろうか。
昭和33年皇太子殿下献上、つまりは今上天皇陛下が召し上がった味。
近くでこんな電器屋を発見。古いSANYOのロゴや。
店頭販売はしてなさそうだけど、どうも窓からそんな古くない製品の箱が見えたので、工事や宅配で近くの人に商売続けているのだろうか。
そしてすぐそばに、今度は日立の電器店の跡。軽四が止まっている白い看板の店、今は散髪屋だが、側面の壁にHITACHIのロゴが残っていた。
手前の化粧品店も、よく見るとテクニクス音楽教室の看板が。
昭和関西家電業界の縮図があるようだわ。
ちなみにさらにもうちょっと行ったらPanasonicの店もあった。
ちょっと武庫川沿いに西に行くと、光明寺という小さなお寺。
なんだか趣味の良い雰囲気。1638年に開山で、もとは三田城鬼門筋に防災・鎮護を願って建立されたとのこと。
近くに鍵屋重兵衛記念館というのがある、というので行ってみるが、
ええええ。思いも寄らない形。
資料が今はほぼ展示されていなかったので、改めて調べてみた。
村上源氏で赤松則村の子孫にあたる一族が江戸時代に武士をやめ、三田で金物屋「鍵屋」の朝野家となった。
初代鍵屋重兵衛藤原頼秀は、鍵屋を繁盛させた上に河内で鋳物の技術を習得して、三田藩公認の鋳物師になった。
この金物屋も、江戸時代以来の老舗ということになろう。
裏手に回ると戎神社がある。西宮戎の分社。
しかし、正式に分社となったのは明治のことで、神社自体はもっと古い。少なくとも安政6年の献灯が境内にある。
すこし南西に下がり、小寺公園というところを通りかかると、こんな碑がある。
白洲退蔵(白洲次郎の祖父)とともに三田藩の藩政改革に務め、神戸で九鬼隆一と共に起業。独立して商社を設立して巨万の富を築いた。神戸相楽園がその頃の小寺泰次郎の屋敷。
近くに川本幸民という人の出生地があるというので行ってみるも、普通の民家の門前に看板があるだけ。元は大きな川本家の屋敷があったのかもしれないが、子孫が広がるに連れて分離されたのだろうか。
川本幸民とは、三田藩の藩医の息子として生まれ、江戸で蘭学を学んで物理化学を研究し、洋書翻訳にも携わって「化学」という言葉を初めて創りだした人。
維新後には帰郷して、英蘭塾を開いて多数の人を育てた。
知ったことを実際にやってみる人でもあり、マッチ、ビール醸造、写真撮影などを日本で初めて行い、かつ成功させた人。兼松日産農林もアサヒビールも富士フイルムも三田に足向けて寝られないことであろう。
近くは寺町になっているようで、お寺が今あるだけで3つ、固まって建っている。
すぐ西隣がかつての武家屋敷エリアだったようで、武士に絡むエピソードのある寺が多い。
西方寺。確か浄土真宗。
荒木村重の武将・荒木平太夫が三田城に入った時、ともに移転してきた寺。
荒木平太夫というとちょっと馴染みがないが、Wikipediaによれば、荒木村重の小姓として荒木姓を許された重臣のよう。これくらいの実績のある人なら何かで目にしてそうな気もする。忘れてるだけかな。
こちらは正覚寺。浄土宗だったはず(西方寺と逆かも)。
山崎堅家という三田城主がこの地に移した。
これも私にはすぐ出てこない武将だが、またWikipediaに頼れば、荒木平太夫より少し下がり、山崎の合戦の後に三田に来た城主とのこと。
山崎の合戦のときに山崎城主をやっていた、という人ならこれも聞いたことありそうなものだけど、出て来なかった。
観音堂には文禄・慶長の役で九鬼嘉隆が持ち帰った観音像があるとか、初代三田藩主九鬼久隆の母、また三田焼を興した神田惣兵衛の墓がある。
妙三寺。日蓮宗。
幕末に射撃訓練に注力していた三田藩が、鉄砲射的奉納額を納めた。
また、詩人の三好達治が幼少期に過ごしたところでもある。
妙三寺から西へ、小高い丘になっている方に上がっていくと、そこはかつての武家屋敷エリア。
それらしい雰囲気はたしかに残るが、しかし今でも上流層の住居らしく綺麗に建て替えられた家が多く、重要伝統的建造物群保存地区などにはなれそうもないかな、と同道の友人のお話。建て替えても雰囲気おかしくしないように建ててるのは趣味がいいのだけれど。
そこにカトリック三田教会がある、というのだけど、地図の指しているところはどう見たって純和風のお屋敷。
丘に上がりきったら、すぐ隣にいかにも教会らしい洋館が見え、「この和風の屋敷は関係ない個人宅かな」と思ったら、
正面に差し掛かると、やはりこちらも教会の一部だった。
予想を外されて驚き、しかもこの味のある書体の看板。カトリック、の極太ゴシック。どこかで見たような書体。
南に和風の、北に洋風の館があって、今は礼拝を行ったりしているのはこの北側のよう。
信徒によって1952年に献堂されたとのこと。
南側の和館は、かつて三田藩の家老だった九鬼兵庫の屋敷だったそうで、現在は司祭の館となっている。
ちょっと行くと、また個人宅の目の前の路上に碑があり、かつての川本幸民の英蘭塾跡と、元良勇次郎の出生地を示している。
英蘭塾では、英語・蘭語・化学を、鉄道技官の九鬼隆範、帝国博物館総長九鬼隆一、赤心社初代社長鈴木清、元良勇次郎など多くの人物が学んだ。
元良勇次郎は、東京英学校(現・青山学院大学)の創立者で、米国のボストン大学で哲学を、ジョンズ・ホプキンス大学で心理学・社会学を学んできた日本最初の心理学教授。
三田藩は早くから藩校を開くなど、学問に力をいれていたようで、街の規模に比して大勢の知識人を輩出しているよう。そういう土地柄は羨ましい。
ちょっと西に、金心寺址廃寺跡(跡と寺がダブってしまってる気がするが)と、さんだ歴史資料収蔵センター。
収蔵センターはなんというか、収蔵センターだから、公開するための施設ではない感じ。中は事務的な感じだった。
スイーツバルに来ているのにさっぱり店に入っていないが、ここらでようやく店に。
駅からまっすぐ2キロくらいは離れてるだろうか、西山地区というあたりに来ると、大きめの道路と道路沿いの商店が集まったエリアに来た。
このあたりが街の中心に見える。福知山線が来た時、鉄道を市街中心に通すより郊外に駅を置くことを選んだ町だろうか。
まちのパン屋さん パンプキン本店。お店の写真なのに露出ぶっとんでしまった。
ここはイートインもあるということで、一休みする。
スイーツバルチケットとの引換は、ひなまつりケーキまたは三田ロールのどちらか。
三田ロールを選んで、一緒にコーヒーを頼んでイートインへ。
過剰に肩の力が入ったような雰囲気ではなく、見たとおりにシンプルなロールケーキ。
地場の卵と米粉を使っているとのこと。あんまり甘すぎなくて、またクリームの中に入った黒豆の塩味がアクセントになっている。男性にもいい味わい。
三田ロールはスイーツバルの後にも通常メニューに残る予定とのこと。
ちょっと南に、ル・パティシエ・プチムッシュ。
さっきからお店の写真に限って変な露出になる。
こちらのスイーツバルメニューは、三田の母子茶というのを使った母子茶ムース、三田いちご大福ロール、三田栗モンブランの3点からひとつ。
私はあいにくその、大阪まで持ち帰る必要があるので、途中で横倒しにして台無しにすると悪いのでここでは引き換えず。同道の友人が引き換えていた。
それからもう一店、KOBEお菓子の店 モリナカ。
うっかり店の写真を忘れた。
こちらでは、スイーツバル限定モリナカ三田でお散歩パックというのが出る。
かなりの人気店のようで、多数の子供連れで店内が混雑していた。お散歩パックは、まんじゅうくらいのサイズの、黒豆やいちごを使ったものが2つ3つ。(詳しく確認するまえに家族が食べてしまった)
確か、黒豆王というのと、黒豆おうじといちごひめ、というのが入ってた記憶。
ここから西の山手の方に、金刀比羅宮があるはずと思って歩いていったけど微妙に間違えて通り過ぎ、心月院というお寺の方に方向転換。
隣接して、熊野神社がある。
小さいけど鎮守がしっかりした、森に囲まれるようなお社で趣良い。
もちろん熊野大社から分社されたものだろうけれども、三輪神社といい三田戎神社といい見逃した金刀比羅宮といい、三田独自の地元の神様や偉人を祀るような神社ではない。古い町は結構そういうのあるのだけどなあ。
そして清凉山心月院。曹洞宗の寺院。
この山門は桃山時代の作。絢爛豪華になりがちな桃山時代にしてはストイックな造り。
少し入って総門。
唐破風の真ん中にある菟毛通という部分は桃山様式だそうだけど、1753年に建てられたものだそう。
庭園が美しい。
(右の写真は凝ろうとして失敗した恥ずかしい下手くそな写真だが、なんとこれしかお堂が写った写真がないという)
本堂はあいにく1786年に焼失して、1991年に修復された。
中に上がることもできて、寺宝の水墨画の展示をやっていたり、白洲家三代についての展示などもあった。
総門の外に経堂があり、これも1835年のもの。大般若経六百巻・念仏三昧経・大蔵経・十六羅漢像を所蔵している。
そこから少し上がると、九鬼家歴代当主の墓地がある。
九代九鬼守隆から、その後三田藩主を務めた子孫が続く。守隆は嘉隆の次男。
他にも当主以外の九鬼家の人々、妻や女子らの墓が集まったところも奥にあった。
また、九鬼隆一男爵の墓地は大きくとられていた。
そして、三田藩重臣であった白洲家の墓もまた、一所にまとめて作られている。
白洲正子自らデザインしたという、板状の石を五輪の塔の形に切ったような墓標が、次郎・正子夫妻それぞれひとつずつ立っている。
戒名不要、葬式不要と遺言して逝った白洲次郎と、またあの正子夫人のことだから、あまり形式にこだわるようなこともなかったのだろう。
あんまり墓地の写真をぱちぱち撮ってるのも不敬にも思うので、写真は控えた。守隆公については、さすがに歴史上の人物ということでご勘弁願って。
寺も庭も墓地も涼やかな雰囲気で、清凉山という山号もよく似合うように思われた。
山をまっすぐ降りていくと、高層の府営住宅が真新しくそびえ立つところに、兵庫県立高等女学院跡の碑と、白洲退蔵出生の地の看板がある。
白洲退蔵、次郎の祖父。幕末の財政窮乏や維新の混乱から三田藩を守って立て直し、新政府の太政官札の流通に尽力した人物。
息子の白洲文平は、ハーバード大学やボン大学に学び、帰国して銀行などに入るも人に使われるのがいやで独立、綿貿易の「白洲商店」を大成功させて巨万の富を築き、建築を趣味として美術館まであるような自宅を建てるなど散財しまくり、そして昭和恐慌ですべてぶっ飛ばした。散々人生を楽しんだ末に、阿蘇山の麓で静かに亡くなったという。
その子が、風の男・白洲次郎。
駅に向かいつつ少し寄り道。
三田小学校と有馬高等学校のあったあたりは、かつての三田城跡。
すぐ隣には川本幸民の顕彰碑。
そこから武庫川の方へまっすぐ降りていくと、かつて三田博物館(九鬼隆一が建てた私設博物館)などがあったエリアに。
三田ふるさと学習館というところだが、あいにくもう閉館時間。
かつてここは、これも九鬼隆一の私設で有馬会図書館というのがあった。明治32年の図書館令より5年も前に建てられている。
すぐ隣が、旧九鬼家住宅。
こちらも開館時間を過ぎていた。こっち先に来てもよかったかな。
どんどん道を下がる。五差路の角に、サダオアイスという建物があり、地元男子中学生が面白がっていた。
現在の法務局の敷地内に、三田藩主御下屋敷の跡がある、が、石灯籠ひとつしかなく、それに実に無粋なアルミの柵を囲っていたので写真はパス。これだけ文化的な三田でどうしたことだ。
これでようやく駅に帰着。
スイーツバル参加店は他にもあるのだけど、かなり町外れに散在している状態で、これを全部回ろうと思うと、三田の町の史跡をすべて回るより大きい行動範囲が必要になる。
イベントの期間が2日だけだと、ちょっと苦しいかもしれないなあ。あんまり来てもらえなかったお店もあるかも……
駅前のキッピーモールにも参加店あり。
どちらも和菓子店で、西村清月堂と季節和菓子の店 松栄堂。
西村清月堂の方に入ると、あいにくスイーツバルのメニューは売り切れとのこと。
チケット1枚480円として2枚分まで、好みの商品と引き換えていいとのことで、抹茶のスポンジケーキに栗ようかんをくっつけたシベリアケーキ風のお菓子と引き換えてきた。
これもまた家族があっという間に食べてしまったせいで、商品名がわからない。新作だったのか、店のサイトにもまだ載ってないよう。
これで一回りし、多くのお菓子を手土産に神戸電鉄に乗って神戸へ。
板宿の焼肉店で夕食を取って帰阪。
三田は一日で大体後悔なく回りきれる町のスケール感が、街歩きするにはぴったり。
大きすぎると一日じゃとても無理だし、小さくても見る所少なかったらただの退屈な場所になる。これだけ人材の豊富な町だから、興味深い史跡が多かった。
Caplio RR10は、2001年の製品。
まだスマートメディアが普通に使われていた時代なのに、早々とSDカードを採用してあり、2GB突っ込んでも平気で使える。(128MB対応ファームウェアアップデートが出ていて、それは適用してある)
見た目はなかなかスタイリッシュで、一見すると縦型カメラみたい。
実際は横型で、サイバーショットPシリーズみたいな撮影スタイルになる。
私は左手指はカメラ下部にやるので、これだけ大きくレンズが左寄りでも特に問題ないが、苦手な人は苦手なところか。
ただ、ストラップが左下端につくのは、ちょっとカメラ的に間違いかな……
MP3再生にも対応するという一発芸がある。
ただ、専用転送ソフトを使わないとダメ。あいにく私の手にした品は、充電/接続クレイドルはあるけど、USBケーブルが欠品。完全に専用品だからどうにもならない。
クレイドル充電なのは、このカメラだけ使う分には、いちいち電池外さなくてもいいので便利だろう。後に初代EXILIMでウケた方式。
そして使ってみると……のろい。
スイッチを入れる。これが結構固いスライドスイッチで、クリック感もないので、ちゃんとONされたかは指でわからない。
2秒ほどAF/ストロボのLEDが点滅し、それから1秒ちょっとかけてレンズが伸び、もう2秒ほど待って撮影可能状態になる。2GBもの大容量カードを入れてなければもうちょっと速いと思うが。
総じて6秒くらい待てば撮影可能になるといえばなるのだけど、動かずに止まってる時間が長いから、体感的にレスポンス悪く感じる。
また、背面のモードダイヤルがポケットのなかで勝手にくるくる回るので、しばしば取り出した時点で撮影モードになっていない。
再生モードで起動すればまだいいのだけど、連写や文字モードで起動すると、モード切替が遅くてまた数秒待たされる。
終了は2秒もかからないけど、記録中だと引っ込まない。
記録時間は200万画素最高画質で3秒足らずで、そんなに遅くはないのだけど。
TIFF記録モードがあり、せっかく過剰に大容量のカードを入れてるんだからと思って使ってみたら、20秒以上時間がかかってとても使っていられない。
文字記録モードも、書類などを撮影するときにモノクロ二値で取り込むというちょっと便利そうなモードだけど、これもやっぱり20秒くらいかかる。
この次のCaplio RR30、さらにG3と、どんどん快速カメラ方面に突き進むリコーだけども、それ以前はもう、どれもこれも遅いカメラばっかりで、RR10と30の間に断絶がある。
画質は、まあ200万画素機として十分なところ。望遠端でも広角端でも、ちゃんと写っていた。
望遠端でもF3.8とそれなりに明るい。換算38-76mmの2倍ズームだけども。
妙にフレアやゴーストが出る感じのレンズでもある。あえて面白がってわざと出したりもするから、それはそれでいいけど。
この個体はちょっとボロい、というかうっかりコンクリートに落として筐体の蓋がきっちり閉まらなくなってしまっている。これは私がやったことで、よく壊れなかったなというとこ。
ただそのせいか、センサーにゴミが入ってるよう。空とか写して絞りが絞られると、もう見事に写る。ということは、NDフィルタじゃなくちゃんと絞り板が入ってることになる。絞り羽根ではなかろうが。
もしかするとフレア・ゴーストが多いのもそのせいかも。
まあ、落として壊していうのもなんだけど、ちょっとプラパーツが華奢で、電池などの蓋なんかは、心配になるくらい頼りない。10年経った今でも一応壊れてはいないんだから、十分作ってあるんだろうけど。
露出は全体的にオーバーというか、なんだろう、なんでもかんでもオーバーなわけでもない。
暗所を潰すことはかたくなに拒絶するのに、明所をぶっ飛ばしてしまうのは平気、という調子。だから画面に両方あったら必ず明るいほうが飛ぶ。
ダイナミックレンジが狭いめの感じで、原色系CCDだとそうなりがち。これで発色が色鮮やかならハマれば美しいという絵作りになるが、色はそれほど派手に出さない。うーん。
ホワイトバランスは、若干マゼンタ転びになりがちかな。
まあ、動作がのろくさいこと(多分当時としても遅いめのはず)を別にすれば、当時として悪いカメラではなかったんじゃなかろうか。
見た目がいいのは良いことでもあるし。