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2011年5月16日月曜日

加太淡嶋神社

加太は、単車でショートツーリングにいくとよく通る。
大昔は走り屋のメッカだったそうだけど、今は走り甲斐のある峠道が閉鎖されて、海沿いの景色がいい快走路が残った。

だから鉄道で行くのはなかなかモチベーションが持てず、南海加太線は長らく未乗のまま。
今回ようやく乗ることにした。
ちょっと乗って行ってすぐ戻って午後はゆっくりしよう、というくらいで出て行ったが、南海本線に乗るタイミングを誤って、目の前で目的の列車に乗り遅れた。
それは仕方ないのだけど、どうやらその乗り遅れた列車が人身事故を起こして停止したらしい。
改札を通ったときには何もなかったのに、ホームで待っていたら事故のアナウンス。
羽倉崎駅-和歌山市駅間で運転見合わせ、ときた。
10分ほど様子を見ているうち、JR阪和線への振替輸送が決まったようで、その旨のアナウンスがあった。
(今になってニュースを検索しても記事が見当たらないところを見ると、死亡事故ではなかったとか、比較的ニュースバリューが小さい程度で済む事故だったのかもしれない。朝とはいえ土曜だから通勤ラッシュにも掛からなかったし)

振替証
で、通常は1時間半くらいで行けるはずのところ、3時間半かかるという恐ろしい目に遭いつつ、加太に到着。
やっぱり阪和線と南海線を代替するのはちょっと無理が、というか、JR紀勢本線の和歌山-和歌山市間なんて1時間に1本しか走らないじゃないか……


加太は、和歌山県の西の端、淡路島と鼻を突き合わせるように紀伊水道を作っている突端の町。
そのため、大阪湾へロシアの艦隊が攻めこんできた場合、最終防衛ラインとなる要衝とされ、淡路島と加太の間に浮かぶ友ヶ島と合わせて、帝国陸軍の砲台陣地が築かれていた。
大阪・和歌山・淡路島・四国などへの海運でも賑わい、そして今回の目的地である加太淡嶋神社もまた、古くから参詣者が引きも切らない神社。
決して単なるしょぼい田舎町ではないのだ。

明治時代に敷設された加太線(当時は加太軽便鉄道という独立した会社だった)はかなりの人気路線で、昭和初期には早くも電化され、さらに沿線にできた住友金属の製鉄所への貨物輸送も担う重要路線となっていく。
まあ、今となってはモータリゼーションのせいで落ちぶれてしまってはいるけれども。


南海電鉄はおよそ駅を建て替えることが少なく、淡輪駅とか浜寺公園駅とか古い駅がいくつもあるのだが、加太駅もまた、明治45年に加太軽便鉄道が建てて以来の駅舎をそのまま使っている。
外からの写真はWikipediaやなんかで見れるが、内はこんなんだ。


駅のすぐ前は、少し高いところにある駅から降りていくスロープ通路としか思えない道なのだが、地図で見ると和歌山県道156号加太停車場線、となっている。
しかし、駅から50メートルちょっと歩くと、県道7号粉河加太線に合流する。なんだこの短さは。
調べてみると、世にはもっと短い県道がいくつもあり、長さ7mで幅14mの広島県道が最短だそうだ。広島県道は他に、418号井関加茂線に、半径2メートルなんて凄まじく急な180度カーブがあったりする。広島の道に偏見を持ってしまいそうだ。


156号線を踏破したあたりに観光案内所があり、地図をもらって見ながらぶらぶら7号線に沿って歩く。
中学校を通り越したところで、中村邸、というのがある。
もとは明治末か大正初期くらいに建てられた警察署だが、昭和になって警察が他所に移転した。
残った建物を中村清文氏が落札し、近くの住金製鉄所で働く人の寮を経営していた。
さらに後に民宿になったが、今は民宿を閉じて中村家の住宅になっている。
この建物は登録有形文化財になっている。


県道が右に折れるところに、古い道標がある。
それにしたがって、県道を外れて民家の隙間の細い道へ。

少し歩くと、民家の混じって加太春日神社というのがある。
田舎町の氏神様みたいな雰囲気だが、神武天皇東征の折に天照大御神を祭ったのが始まりだとか、役行者が友ヶ島を行場にしたときに守護神として勧進したとか、そのくらい古い伝承があるらしい。
が、まあ、神社前にあった解説看板では、「十四世紀には住吉社としてすでに存在していたが、地頭の日野光福が自分の祖神の春日三神を合祀して春日神社にしちゃった、と『紀伊続風土記』にある」と書いてある。
社殿は1596年に建てられた物だそうだ。

拝殿の裏手。摂社の稲荷社などがある。

祈祷でも受けに来たのだろうか、境内に、ここまで狭い道を入ってくるの大変だっただろうなというベンツ Vクラスのでけえミニバンが停まっていた。
その車の人が連れてきたのか、あるいは神社で飼われているのか、老犬が一匹拝殿の中にいて、私が手を合していると尻尾を振って近づいてくる。近頃どうも動物に好かれるような。


近くには、寺がいくつもある。
私はあまり寺には知識も関心も作法も及ばないので入りづらいので、ちょっと覗く程度。どこも境内が地元の人の墓地だらけ。
光源寺、というのがあったが、もちろんヒカルゲンジと読むわけではないだろう。


川に突き当たって、川沿いに海へと向かっていく。
このへんはよもぎ餅が名物なのか、売ってる店が複数見られた。


川のすぐ南は山になっているのだが、歩いていると「役行者堂」と石碑が現れ、傍らに上り階段がある。紀伊-和泉の境界あたりには役行者がらみの遺跡は無数にあるのだが。
118段ある、と観光地図にあるので、その程度ならと上がっていってみる。


頂上にはちょっとしたお堂。まあ、それだけといえばそれだけ。
ちょっと木が多くて見通しはよくないが、隙間からは加太の海が見える。夕日が綺麗なことだろう。


さらに歩いて、ようやく加太淡嶋神社に到達。


延喜式式内社だろう、と思うが、延喜式には「加太神社」と書かれていて、果たして加太春日神社とどっちがそうなのかわからない。
祭神は少彦名命、大己貴命、息長足姫命(神功皇后)。

日本中にある淡嶋神社の総本社。
元々は友ヶ島にあった、少彦名・大己貴を祀る社らしい。
三韓征伐から帰ってくる途中の神功皇后が嵐に遭いかけて、神に祈って得た啓示のままに航行したら友ヶ島に無事辿りつけた、というエピソードがある。
神功皇后の孫である仁徳天皇がこのへんに遊びに来たとき、友ヶ島にあっても参りにくいだろうと、加太に移して社殿を作ったのが、今の淡嶋神社の原点という。

で、なんでそうなったのか今ひとつわからないのだけど、人形供養で有名。
流し雛なんかもやるのだが、別にそういう祭事をまたなくても、境内が人形で埋め尽くされている。
木彫りの熊やら象、犬、蛙、招き猫、えびすさまだいこくさま、日本人形、侍、天狗の面などなど。
写真を見たほうが異様さは伝わりやすかろう。その数2万体。







かなりなんでもあり感があって、割と今風のデザインの人形なども混じっている。
そのうち萌えフィギュアエリアが出来上がることだろうと思う。


神社自体はわりとあっさりしていて、境内も広くないし摂社も少ない。
しかし強烈な個性がある神社なのは確かだ。



ぶらぶら歩いて駅に引き返す。
小さな町だからわりとさらっと回れるし、景色もいい。観光地らしい部分もあるけど、昭和の姿のままやってるので、興ざめ感もない。
なかなかいいところだった。



帰りに、乗ったことのなかった南海多奈川線に寄り道。
私が子供の頃には、多奈川線の途中にある深日港から淡路島行きの船が出ていて、難波から多奈川へ直通する急行列車が走っていたものだが、船が廃止されてからは凋落した路線。
まあ、多奈川駅近くに岬町の役場があったりするから、生活に密着した路線として意外と本数は多い。単線だけど2.6kmしかないから、片道6分で行けるせいもあろう。

クラシックな駅舎や、急行直通時代の有効6両の長いホームが、現在の2両編成に合わせて柵で切られて風化している姿。
しかし、コンスタントに一日中一時間2本以上走るんだから、それほどどん底まで落ちぶれてるわけでもないのだけど。
近隣に観光するようなところもないもんだから、乗っていると少し場違い感、余所者感を味わえる。