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2011年6月11日土曜日

嵯峨野観光鉄道トロッコ列車~北野天満宮

平日に休みがとれたので、土日や祝日には混んでいて行きづらいところにいこうと思い立ち、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車に乗りに行くことにした。
連休中や桜・紅葉シーズンだと予約必須、当日券もあるけど朝に並んで夕方の分が取れる程度の有様らしいが、オフシーズンの6月、天気は梅雨の曇り空、しかも平日金曜日とくればなんとかなると踏んで予約なしで吶喊。


JR西の誇る新快速で一気に京都に降り立ち、初めて乗車する山陰本線で嵯峨嵐山駅へ。
トロッコ嵯峨駅は目と鼻の先にある。

駅舎は、簡素なものかと思ってたら全然そんなもんではなく、駅自体が博物館化していて大きい。
入ると、切符売場、保津川下りの乗船券売場、土産物販売、待合所をまとめたホールになっていた。
切符売場には幸い行列もなく、約50分後に発車する嵯峨野7号の席が取れた。
トロッコ列車には一両だけ、壁がないオープンエアーの客車があって、雨が降ると客を乗せられないから当日券のみの販売になっているのだが、やはりその車両の切符が出てきた。

普通なら50分も待ちがあると持て余すところだが、何やら色々あるようなので見物に。

待合所に隣接して、「19世紀ホール」という、19世紀をテーマにしたミニ博物館がある。
表にはD51型機関車の51号車が展示されている。以前はくずはモールで展示されてたものだそう。

中は喫茶コーナーっぽい感じで、テーブルと椅子がたくさんあって、展示は周りを囲んでいる程度。
ピアノがあったり、ベートーヴェンやなんかの偉人の銅像があったり、19世紀ならなんでもいいんじゃないか感があるが、そこで眼を引くのは人車であった。
人車についての詳細は、「しろくまベルスターズ」を参照。人が客車や貨車を押して運ぶ鉄道で、戦前にはちょくちょくあった。
まあ、展示解説に「日本にはかつて“人車”の時代がありました」というのはさすがに誇大だと思うけれども。
嵯峨野の「嵯」のハッピ着てるけど、なぜか人車は近畿圏にはほとんど存在しなかったということが、別途パネル展示されている全国人車鉄道分布図からわかる。近畿どころか、愛知県以西には福井・宮崎にあるだけ。静岡と栃木だけで半分くらい、他はほとんど関東・東北にある。

19世紀ホールの奥にいくと、嵯峨野鐵風館といって、蒸気機関車を展示しているエリアに。
蒸気機関車の展示は有料ということで、別にある「ジオラマ・京都・JAPAN」とセットの入場券が500円のところ、トロッコ列車の切符を持っていれば400円。

   蒸気機関車は、D51 603・C58 48・C56 98の3台と、「若鷹号」という小さいのがいる。
D51の603号は、蒸気機関車として最後まで北海道の追分で走った車両のうちのひとつらしいのだけど、国立科学博物館に移して展示する予定が火事で焼けたものらしい。燃え残った前半部分しかない。

C58運転席
で、他に客が居なくて案内の方が暇だったようで、C58の発車時の操作を実際にやってみる、というアトラクションがついてきた。
C58は紀勢線を走っていたものらしく、昭和44年だったか、それくらいのダイヤを書いたものなどを掲示してある。(しかし説明では北海道を走っていたとも言うので、関係ない物かもしれない)
レバー類は動かすとSEが鳴るようになってたりして、子供はさぞかし喜びそうだ。
いい大人の私は、なにしろ蒸気機関がどんなもんかはっきりわかってなくて、操作と機械の動きが上手く結び付けられなくて困惑気味。

北海道にいた蒸気機関車は、前からみると簡単に区別できる、という。何が違うのかと思えば、車体前部についてる手すりが、馬蹄形になってるのは北海道のものらしい。
積雪に耐えるために強度をあげた説(馬蹄形のほうが雪はけが悪くて弱くなりそうな気もするけど)、単に北海道の線区で手に入りやすいものを使っただけじゃないか説などを理由として聞いた。

Wikipediaにもまだ写真がない若鷹号
D51は火災で燃え残った前半分しかないが、その後ろには、小さな小型機関車がある。
それが「若鷹号」で、もとは国鉄ア4型蒸気機関車というやつで、元々阿波鉄道といった徳島ローカル鉄道会社にいたのを鉄道省が会社ごと買収したもの。
作られて15年くらいで廃車になって、後に技術者養成のために改造や修理の実習機にされた。

鐵風館の2階は鉄道模型ショップになってるらしいが、ちょっと他を見たかったのでそちらには行かず退出。
鉄道模型も面白いかもしれないのだが、あんまり車両に詳しくないのと、場所がね……。


トロッコ嵯峨駅の奥には、「ジオラマ・京都・JAPAN」というのがある。
広大なスペースに、清水寺や金閣寺、京都タワーなどの名所を置いた盛大なジオラマ。
8編成の車両が走行できる状態になっていて、ジオラマに接続されたコントローラーで、車載カメラの映像を見ながら操縦できる(有料)。
さらに、かつてブルートレインを牽引していたEF66型電気機関車の運転台が2つあって、その運転台を使って模型を操作できるようになっている。




さらに1時間に一度、ちょっとしたアトラクションがある。
私が観てたときは、ビル火災が起きてそこに向かって消防車が道路を走っていく、というようなことをやっていた。鉄道のみならず道路も自動車が走るようになってるようだ。

物販コーナーも隅にあって、Tシャツなどの土産物の他、鉄道員の腕章やら、車両の行先表示か何かのプレートやら、そういうものの実物販売があったりも。


さて、そんなこんなで待ち時間が過ぎて、列車のくる時間になった。
DE10型ディーゼル機関車が、嵯峨野観光鉄道20周年記念のヘッドマークをつけて入線してくる。(ウェブサイトの案内によると双子座デザインのを付けてる期間のはずだけど、なぜかアオゲラデザインだった)

乗り込むと、木材を組んだクッションもなにもないシンプルなボックスシートが両側に並ぶ。
窓がないのも、暑くなりかけるこの時期には気分も景色もいいところ。

ただ、妙なノリで解説を入れる車掌さんも名物であるそうだが、オープン客車だと騒音で聞き取りづらい。ちと残念。


座席は進行方向右側、ただ進行方向と逆向きだった。
後から考えると、右側の席のほうが景色に恵まれてる気もする。どっちにいてもある程度は景色のいい、ある程度は崖が目の前にある時間帯はあるのだが、右のほうが崖時間が少ない感じ。
で、入線してきたときに機関車を前にして入ってきたから、転車台もないのにどうするのかなー、と思ってたら普通に逆向きに走りだした。当たり前なような納得いかんような……

あとはしばらく風景の写真で。(ちょっと露出アンダーか)
トロッコ保津峡駅

トロッコ保津峡のたぬき


山陰本線の保津峡駅にちょうど車両が入線するところ
工事のおっちゃんがた







土手で区切られた手前の部分を、保津川下りの船が通る



で、トロッコ亀岡駅到着。

亀岡駅で観光案内所があったので地図をもらい、せっかくだからこのまま亀岡観光といこうかな、と思いつつ、とりあえずJR山陰本線の馬堀駅へ歩いて行く。
トロッコ亀岡から山陰線馬堀までのあいだは、畑と住宅があるばかりで特に観光という調子ではなかった。

馬堀から亀岡まで行って、と思ったら、馬堀駅についた途端にその亀岡方面が発車していった。
ううん、亀岡なんて多分、この機会を逃したら、次に来ようと思う可能性があるとすれば私の中で明智光秀ブームが起きたときだけなのだが……と思いつつ、京都方面に向かう電車のほうが早かったのでそっちに乗車。さらば亀岡。


京都に戻り、とりあえず嵯峨嵐山駅で下車。
そこから嵐電に乗り換えて、帷子ノ辻駅で乗り換えて、京福電鉄北野線へ。以前、嵐山本線は端から端まで乗ったことがあるが、北野線はまだだった。
北野線沿線、なんだか雰囲気が昭和でいいな。もし京都に在住するようなことがあれば、このへん住めたら落ち着くかもしれん。

北野線を端の北野白梅町まで乗ると、北野天満宮の近くにでる。
もはや学生身分など10年前に終わった身ではあるが、学びは生涯続くものであるから、しっかりあやかってくることにする。

さすが境内は、修学旅行らしい学生でいっぱいであった。






地主神社

文子天満宮(あやこてんまんぐう)と変わった名前だが、菅公を祭れというお告げを受けて北野天満宮の始まるきっかけを作った巫女の名前が多治比文子という。

となりの平野神社にも参拝。
今でこそ北野天満宮が大きいけれど、こちらのほうが古いし、かつてはかなり栄えた神社であるそうだ。応仁の乱で武士に焼かれ、天文法華の乱で坊主に焼かれて荒廃したらしい。
桜を神紋にするくらいで、境内は色々な品種の桜が植わっている。




それから嵐電に戻り、北野線から嵐山本線へ移って嵐電天神川駅で降り、京都市営地下鉄東西線に乗って六地蔵駅まで。
六地蔵から京阪で帰阪。