これほど対極にある映画を連続で見る奴、それが私である。
ネタバレしまくるから注意だ。
先にマッドマックスからだ。
●マッドマックス 怒りのデス・ロード
実は秘密にしてたけど過去作見てないもんで、公開当初はノーチェックで、周囲の友人らがあまりにもヤバい映画だというのでそれならば、と。1がマックスターンのやつ、くらいは知ってたけど、それくらいしか……
というか私、そもそもあんまり映画に詳しくないのだ。
映画館に行ってチケットを買おうとすると、でかでかと「ラブライブ満席。今日の全回売り切れ」の表示が嫌でも目にとまる。土曜とはいえ公開三週目だぞ。
私にとってラブライブって、あの奇跡のトゥルーコンテンツ「Baby Princess」の裏でいつのまにか発進していた、ありありとアイマスの後追いやなあと思わせるG's Magazineの新ネタ、という認識だったのに、知らん間に大きくなって……
で、着席して友人と予告見ながら、あ、これちょっと面白そうかも、とか至極フツーのこといいながら、明かりが落ちたところで画面に注目。
見渡す限り赤土の荒野。
ひとりの男。
双頭のトカゲ。
トカゲ走る。
男に近づく。
踏む。
食う。
うん、とりあえずカッコいい。
考えてみればこれだけで「核戦争後の荒廃した世界」だと舞台説明しちゃってるし、「北斗の拳の元ネタがマッドマックス(2だっけ?)だよ」という程度の予備知識しかなくても、すっと飲み込めるわかりやすさ。
なんかこう、全体を通して、とにかくカーチェイスとか爆発とか大砂嵐とかトンデモアクションとかをやりたいだけの作品なのは明らか。
でも、いくらなんでも舞台設定や状況説明がナシというわけにもいかない。
舞台設定とか状況説明とかそういうものを、時間を掛けずに簡潔なカットひとつでパッとわからせてしまう、という多分すごい高等な技術でやってしまうことで、テンポを崩したりアクションの密度を薄めたりせず、全編ひたすらアホカーアクションで埋め尽くすことに成功してるんだと思う。
いや本当に、最初から最後まで見せ場しかないような勢いだった。
こっちが想像できる範囲を、常に飛び越えっぱなしで最後まで走り抜けた。
私のような凡人では、緑の地がもうないことを知って、塩の大地に向けて走り去ろうとするフュリオサたちを見送ってエンディング……なんてヌルいこと考えてしまったところで、引き返して砦を奪うと決断するとこなんかもう、自分がなんて平凡なレベルの頭しかないかと思い知らされる。
それから、状況に囚われたり潰されかけたりする人たちが、それを振りほどいて自分を取り返すような話でもあって、私はこういうある意味説教臭いところがあるのが好きだな。一番好きな漫画家が富沢順だという私だ。
だいぶ人間不信じみてたマックスも、子産み女扱いされる砦に戻ろうさえした女たちも、盲信の中でしか生きられなかったニュークスも、死んでしまう者もあれど、状況の奴隷のままでいた者はなかった。
明らかにバイオレンスアクションなのに、ほとんど血や死体は見せないとことかも含めて、バカで激しくて頭悪そうで爆発して火を噴く映画だけど、下品でもなく下卑てもいない。
といって、決して高貴で気高い作品であろうとしてるようにも見えなくて、「この方が気持ちいいからこのほうがいいだろ」といわれてる感じ。まったくそう思う。
と、何か下手にまじめに語ってしまったけれど、だって見たらすぐに、すごいバカ映画であるためにすごく高い映画の技術が駆使されてるとわかっちゃうんだもん。
頭空っぽで見られる映画というか、空っぽでもちゃんと突き刺してくる映画。すごい。
私は、谷のモトクロスバイク軍団が好きだった。
バイクでウォータンクなんかとどう戦うんだろ、と思ってたらまさかの空爆。あんなところであんな激しいライディングができる恐ろしい技術の持ち主なのに、マックスやフュリオサの銃撃でばたばた撃墜されるソフトスキンの悲哀。ほとんど諸行無常、侘び寂び。
●ルック・オブ・サイレンス
インドネシアという国は、太平洋戦争まではオランダの植民地だったのだけど、あの戦争で日本軍にオランダ軍が追い出された権力の空白を突いて、スカルノによって独立が宣言された。混乱する国内だったけれど、国粋主義者・宗教家・共産主義者の対立を調停して国をまとめあげる、という立ち位置をとって、スカルノはどうにかこうにか国内を治める。
しかし1960年代後半には、スカルノの態度がかなり東側に傾き、外資の排除なども行って、英米はじめ西側と険悪になって国連脱退にまで至り、経済制裁で国内が疲弊。
そんな中、軍隊内の共産党系といわれる左派勢力が決起し、軍首脳部の将軍6名を暗殺。
そのままクーデターを起こして軍と政府を掌握しようとしたが、後に大統領となるスハルトの迅速な対応により、たった3日で鎮圧された。
これを「9月30日事件」という。
9月30日事件以後、スハルトによる過激な共産主義排斥が行われ、推定で50~300万といわれる共産主義者(とされた人たち)が虐殺された。
しかし、こういう経緯から発生しているため、「インドネシアを破壊しようとした国賊である共産主義者への正義の粛清」というような捉え方もされ、虐殺を指導した者や実行者が、今でもなんら罪に問われることなく、むしろ社会の重職について裕福に暮らしている。
一方で、共産主義者と疑われて実際に殺されかけた人、家族を殺された人もまた、大勢インドネシア社会で暮らしている。
この映画には「アクト・オブ・キリング」という前作がある。
ジョシュア・オッペンハイマー監督が、虐殺者と被害者が共存するインドネシア社会を取材するも、政府としては触れられたくないからと、この事件の被害者への接触を禁じられた。
ならば、と加害者側に取材したドキュメンタリー。
ちょっとガラ悪いけどけっこう裕福そうに暮らしてる初老の男性が、1000人は殺したという虐殺者だったりする。
昔はダフ屋のチンピラで、虐殺にはそういう人がかなり動員されている。軍が直接手を下したら国際社会の批難を浴びるけど、民間人がやったならそこまでいわれないから。
そんな人らが、へらへら笑いながら実際に人を殺す様を説明する。
だからオッペンハイマー監督、「なら再現映像を撮るから実際にリアルにカメラの前でやってみせて」という、すさまじいことをやらせる。
「自らの行った殺人を自ら演じる」ということを行った元虐殺者らが、その演技を通じて自分がやったことを突きつけられる。
思考実験してみるなら面白そうなテーマだけれど、実際にそれをされた人の姿を見るというのは、なにか説明しがたい衝撃があった。
本当に忘れたくても忘れられないような、すさまじい映画だった。
それの続編として、「ルック・オブ・サイレンス」は、今度は被害者側に密着取材する形をとる。
密着するのは、兄が虐殺されてそのすぐ後に生まれた、めがね職人のアディ。
虐殺をへらへらと自慢する加害者たちの映像を見たアディは、兄と、今なお彼らを恨みながらも何もいえず静かに暮す母のために、せめて少しでも反省や謝罪をと、加害者たちに直接会いに行ってそれをオッペンハイマーに撮らせる。
その加害者というのが、アディと同じ村に住む人、役人、地方議会議員、果てはアディのおじさんといった、遠くてもさほど遠くない、近いと本当に近しい人たち。
大虐殺があって、その加害者と被害者がすぐ近くで暮らしている、というインドネシア社会のうそ寒さがよくわかる。
そして、被害者に直撃されてもなお、とにかく「自分のせいじゃない」とか「あれは正しいことだった」と、実にバリエーション豊かな言い逃れで、誰一人責任を認めず謝罪も反省も見せない加害者たち。
本当に見苦しいほどの言い訳を繰り返す加害者が、だからこそ、虐殺を本当に誇るべき栄光だと思っているわけじゃなさそうだなあ、とは推察できるものの、それでもやはり、アディに対して少しでも謝罪や同情を見せる加害者はいなかった。
映画として面白いのはどっちか、といわれると、これはやはり「アクト・オブ・キリング」の方が強烈だったとは思う。
あれはなんだか、事の善悪を飛び越えるような衝撃がある結末だったから。
「ルック・オブ・サイレンス」は、ただただひたすら胸糞悪いというか、ずっと眉間にしわを寄せて見てしまうような作品で、別に衝撃的な結末もない。
サイトの煽り文句で「感動と慟哭の結末」といってるのは、大嘘とはいわないまでも、これだけの悲惨な有り様にただこれだけの救いというか、これだけのことさえできないほど悲惨だったのかと思わせられるというか、そういう類の「慟哭」だろうと思う。
こんなことはアディと父母にかぎらずインドネシア中にあることで、それを胸の底に埋めながらも、社会は一応成り立ってしまうし、人はそこで生きていかねばならんというのは、ひたすら重苦しく心に残ってしまう。
そんなわけで、これ単品で見るより、「アクト・オブ・キリング」と一緒に見たい。
という具合で、ハイの極致とローの深遠の両方を連続して見てきた二週間でした。