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2011年8月14日日曜日

千葉県一周旅行 初日: 佐原


まだ冷夏だった7月、私は夏休みの予定をあれこれ考えていた。
候補は幾つかありつつも、高山本線で飛騨高山に行き、富山に抜けて日本海側を戻ってくるようなルートを考えていた。
そこで、珍しくつけていたテレビで「千葉・茨城の観光産業が苦戦」というニュースが飛び込んできて、そういうことなら東関東もいいかもしれない、と気が向いた。

今回は二泊三日の予定を立てて、千葉県をぐるっと回ってくることにした。
まあ、正直に言って、関西人の私にはあまり千葉がどういうところかのイメージがない。ニュースを聞かなければ候補にも挙げなかった。
漫画「男たちの好日」の舞台である、というのは鮮烈なイメージではあるのだけど。
しかし、鉄道で一周できることとか、一周する間に見ていけそうな街がいくつもあり、予定は作りやすかった。

大まかに、新幹線で東京に来て、JRで佐原→銚子→勝浦→館山→木更津、と回った。



初日は新幹線に乗って品川へ。
そこから快速エアポート成田で総武本線→成田線と乗って、成田で乗り換え。
成田駅は四方向に線路が出ているのに、それが全部成田線だという不思議な駅だが、成田線に乗って佐原へ向かった。

千葉一周、というなら総武本線経由じゃなく、常磐線で我孫子で乗り換えて成田線支線で成田へ、というほうが一周らしいルートだけれど。


ちょうど先日の8月6日、広島原爆が投下されたその日に、今なお続く三里塚闘争の天神峰現闘本部が強制撤去された、と聞いていた。私は運動にコミットする立場ではないけれど、正義とはなんだろうなどと考えつつ車窓を眺めていた(美化あり)。
成田空港に行く列車は15両編成とかになっているから、途中の駅のホームが雰囲気の割にすごく長かったりするのが珍しい。
成田駅から先は、のどかな田園風景という感じ。

で、自宅を出て6時間後、午後3時ごろ、佐原到着。

格好のいい駅舎だが、今年の2月に新しくなったばかりらしい。

佐原はかつて「江戸優り」とまでいわれ、利根川に流れ込む小野川に沿って水運の中心地として大いに栄えた。
栄えた時代には伊能忠敬を輩出し、街の誇りにして観光の目玉になってるよう。(ちなみに忠敬の出身地は九十九里で、佐原の商家に養子にもらわれてきた人)

駅から降りるとちょっと寂れた雰囲気だが、江戸優り時代の街の中心地は南東に外れている。
午前中に到着していれば、駅前にレンタサイクルがあるから、それを使って回るとよさそう。

駅から真っ直ぐ伸びている道を行くと、諏訪神社の大鳥居が見える。
それをくぐってさらに行くと、当然諏訪神社にぶつかる。

神社は丘の上にあるが、ふもとには伊能忠敬の銅像がある公園があった。1983年にできたもののようだ。



鳥居をくぐり、階段をまっすぐ上がっていくと、郷社・諏訪神社。
祭神は建御名方神。
大神惟季という鎌倉時代の武士が、藤原純友の乱で功を挙げて下総大須賀に領地を得て、その時に信濃の諏訪大社から勧請を受けた。そして戦国時代になってこのあたりを開拓するときに、ここにこの神社ができたとのこと。
今ある社殿は1853年のもの。

諏訪神社のある丘は、神社すぐ裏のあたりは公園になっている。
公園に沿って、南側から丘を降りていく。道沿いにはお寺がいくつか。
ふもとの法界寺前の広めの道を東にいくと、東薫酒造という酒蔵がある。

かなり古い蔵元で、1825年創業だそう。
いつでも予約なく蔵見学もできる。私はちょうどタイミングが合わなかったので、中までは行けずだったけれども。

江戸の昔は、大阪・兵庫の酒に比べれば関東の酒はさっぱりダメだといわれていたそうだけど、現在のこの東薫酒造は、杜氏の及川恒夫氏が様々な賞を受ける名杜氏。
試飲でいくつかいただいて、スタンダードな感じの「東薫 純米酒」が好みだったのでこれを土産に一本購入。

近くには馬場本店という、1842年に開業した蔵元もある。
酒蔵や酒屋が固まって複数あるということは、酒の名産地だったのかな、と思っていたが、馬場本店のウェブサイトによれば、かつては「関東の灘」とも言われていたそうだ。

こんな渋い道案内を見て、下新町の街並みとある方に歩いて行く。

両脇に古い町家や蔵が並ぶ。文化財に指定されている個人宅もあった。
右の家では今でも駄菓子屋として営業していて、カルメラ焼きなどの看板を立てていた。

一回りすると小野川にきて、いよいよ川沿いに江戸優り時代の古い町並みがくる。

伊能忠敬記念館も川沿いに。
館内ではその名のとおりに、伊能忠敬の生涯を詳しくたどる展示がされている。
商家の伊能家に養子に来て、商売人として店の資産を3倍に増やすほど経営者としても優れ、その上で学問を好み、当時の先端技術だった天文学や測量術をもって地図作成に乗り出す行動力。
郷土にそれほどの人物がいれば、自慢もできよう。
忠敬が使用した測量具とか筆記具、描いた地図そのものなども展示されている。

記念館の前には、ジャージャー橋こと樋橋がかかっている。
元々灌漑用水を通すための樋を渡したものだったから樋橋といい、水の流れる音をもってジャージャー橋というそうだ。
人も渡りたい、ということになり、コの字の樋をロの字に作り、手すりをつけて橋にした。

今でこそ木製で、古い町並みに馴染むように作られているが、実はこれは平成になってからこうしたもので、昭和時代はコンクリート製だった。
佐原の町並みは、今でこそ伝統的建造物群保存地区として大事にされているのだけど、昭和の昔には「新しい建物混じりすぎていまいち」「再開発して佐原の商業を盛り上げるべき」「小野川なんか汚いから埋めるか暗渠にしてしまえ」など、それほど歴史的価値は重視されていなかった頃もあったらしい。
まあ、私が街を歩いた感じとしても、江戸時代っぽいのから80年代くらいまで、いろんなレベルの古さがごっちゃになって、さらには「古いイメージで最近作った」というものも混在してるような雰囲気だな、とは思った。
しかしきっちり歴史的な雰囲気が揃えられた町というのも逆に人工的な感じが出てしまうだろうし、統一感がないのも面白いようにも思う。

そして、伊能忠敬旧宅。
意外とこれまで震災の影響らしいものをあまり見なかったのだが、ここではかなり影響大きく、旧宅は倒壊の危険があるから立ち入り禁止、とされてしまっていた。
新しい建物だとせいぜい、屋根瓦が落ちたか落ちかけたかでブルーシートを掛けられている程度なのだが、古い建物だとそれどころですまない。他にも立ち入り禁止にされている建物が町にいくつかあった。



建物や庭のようすは写真で。


記念館のちょっと北には、忠敬橋という橋がある。タダタカ橋ではなく有職読みでチュウケイ橋。

この橋を渡ってちょっといったら、佐原三菱館という大正モダンな三菱銀行の建物があったのだが、うっかりして橋を渡らず逆にいってしまった。
地図の見方が悪くてもっと遠いと思いこみ、旅もまだ先が長いから体力残しておこう……とか思ってたのだが、実際は見えるくらい近かった。地図の読めない男である。

ホテルが駅を挟んで反対側の少々離れたところにあるので、そろそろ移動。
駅前に街の駅わくわく食彩館というのがあるのだが、日曜は休みとのことだった。

佐原駅から東が歴史的な街並みで、西は割と標準的な街並みのよう。生活の中心は、成田線のちょっと北を走る国道356号沿いにあるようだ。
国道沿いのスーパーで食料など調達して、ホテルへチェックイン。