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2011年9月18日日曜日

阪堺電車沿線歩き(堺編) w/ OM-4

先日ついに大阪府下の鉄道をすべて乗りつくしたのだが、降りて街を見て歩いたのは終着駅の近くばかり。(一応、ただ機械的に乗るのではなく、端まで行ったら降りて歩いてあたりを見ることをルールにしてはいた)
線路の端以外にも面白いところはいろいろあろうと思うが、しかし、全駅下車を目指すのはちとハードルが高い。
そういうわけで、めぼしい路線の沿線を歩いてみることにした。

OLYMPUS OM-4にF.ZUIKO 50mm F1.8をつけて、フィルムはちょっと奮発してSUPERIA PREMIUM 400を入れて出発。

南海本線の浜寺公園駅まで行ってから、阪堺線浜寺公園駅にリーチして、証拠の一枚。
ここから北へ歩いて行く。

素直にいくなら、阪堺線のちょい西をずっと通っている紀州街道沿いに行けばいいところだが、最初はちょっと東側に回ってみた。
が、近くは古くからの高級住宅地。しかし別に歴史的建造物保存地区だとかそんなもんでもない、大きな一軒家がたくさんあるエリア。そうカメラを向けられる場所でもなかった。


ただただ歩いて、船尾駅。

ちょっと北に聖テモテ教会というのがあったが、テモテとはTimothyのことであった。
狭い道から50mmでは収めきれずに写真がうまく撮れなかったが、1889年からある歴史ある協会だそう。

石津川近くまで来ると、橋が無いので素直に紀州街道に合流。


合流した所で、花将軍・北畠顕家の顕彰碑があった。ここで顕家公が戦死したという。
説明の碑があるのだけど、車にでもぶつけられたのか、まっぷたつになったのを修復してあって、ちょっとちゃんと読めない。昭和12年に顕家公600回忌に建てたもの、とは読めた。


紀州街道をすこし上がると、石津太神社。ここらの地名は石津(いしづ)だが、ここはいわつた神社と読む。
孝昭天皇7年(紀元前469年)に創建という歴史を持つ、日本最古の戎神社という。
今でこそ街中のそう大きくもない神社ではあるけれど、かつては孝徳天皇・孝謙天皇の行幸もあった壮麗な神社で、秀吉や木村重成も参ったという。

祭神は蛭子命、八重事代主命、建御名方富命、それから天穂日命とある。
石津連(いしづのむらじ)の祖神が天穂日命。



紀州街道をどんどん歩いて、地名が湊に変わって、新湊小学校を通りかかる。
するとそこに、なぜか風車がある。
説明板によれば、畑の潅水用水を汲むのに使われていたとのこと。大正時代には多数の風車が並んで観光客も多かったほどだとか。


そういえば街道沿いに祭りのちょうちんがたくさん吊るされている、というかまさに若い子らが釣り下げているところだな、と思っていたら、行く手に山車と大勢の人の塊が現れた。


一本東に回避して、船待神社というところに裏手から入ると、まさに祭り。
菅原道真公が大宰府に赴任するとき、ここで船を待ったとかそういう言い伝えのある神社。
人が多いのは苦手なので、早々に退避しちゃった。


もう少し行くと、紀州街道が急に広くなる。
元は自動車がすれ違うのも厳しいくらいの幅の旧街道だが、かつての環濠だった川の北は、大幅に拡幅されている。片側3車線+複線の鉄道+広い歩道が通る。
ちなみに私の本籍はこのあたり。

ブックオフ堺御陵前店に寄り道し、なぜからき☆すたなど買い込んでまた歩く。
ちょいと東側の裏手に入り、名物・氷くるみ餅で有名な「かん袋」の前を通り、入れそうなら寄って行こうかと思ったけどちょっと混んでそうなのでパス。子供の頃から知ってる馴染みの味。

ずんずん北に行き、アスティ山之口というアーケード商店街に入る。
ここは開口神社というところがある。


塩土老翁神を祀る神社で、神功皇后の三韓征伐の帰途に勅願があって創建された。
住吉大社の奥の院ともいわれる。塩土老翁神が、住吉三神を一柱にまとめたようなものとかで。
(来るの二度目なので簡単に)

前回は東にいったが、今度はさらに北上。


すると、堺天神がある。
本社はもちろんこの菅原神社なのだけど、敷地に同じくらい偉そうな摂社がふたつ。おかげでどこから参ればいいかわからない不思議な境内。
天神は993年に創建とのこと。
摂社の一方は薬祖神社で、神農を祀る。神農は古代中国の皇帝で、自ら百の草を舐めてその毒を調べたと伝わる、農業と医薬の神様。
もう一方は戎神社で、このあたりの戎之町とか戎島町とかの地名の元になった神社を遷座して摂社にしたとか。(写真撮り忘れ)


このあたりで紀州街道を渡ると、ザビエル公園というのがある。
ザビエルが来て、ここの豪商・日比屋良慶に迎えられたので、日比屋の屋敷跡をザビエル来訪400年記念の年に公園にした。
品がいいというかなんというか、あからさまにザビエルの銅像があったりはしなかったので、写真を撮るにしても何処を収めるか迷うような公園だった。

そこから、小西アウグスティヌス行長の屋敷の跡がある、という紀州街道の東側を歩いて行くと、西側に堺刃物伝統産業会館が。
しかも屋敷跡の碑は、なにを失敗したのか見落としてしまった。歩道の車道側にあったらしいのだけど、反対見ながら歩いていた。
さらに、ちょっと寄り道すれば本願寺堺御坊があったというのに、これも気がつけば通り過ぎていた。なにをどんくさいことを……。



で、堺市立町家歴史館・山口家住宅。
ここらの庄屋さんの屋敷で、大阪夏の陣の三年後、1618年に建てられた。大阪の食い倒れ、京の着倒れ、そして堺の建て倒れというくらいで、立派なもの。
(かつて堺にあった私の実家もまあ古い町屋ではあったのだが、床抜けるようなボロ屋だった。子供の頃に取り壊したから、今どうなってるのかな)

築160年ほどの1775年に増改築がされているけれど、やたらと丁寧にやっていて、どこを直したのかわからないくらい。
ただ、160年の時代の違いで建築技法にすこし差があり、増築部分は木材をカンナで仕上げてあるが、元々の部分はちょうなでやってある。



もう少し北にいって、阪堺電車綾ノ町駅で、紀州街道の拡幅区間終了。
このあたりは阪堺線の線路もカーブしていたり、東西に二車線の府道が交差してきたりでかなり道がややこしくなる。
紀州街道の一本東の、綾之町東商店街と看板が掛かっている筋に入ってみた。


昭和の残滓……

本来の目的通り、できるだけ阪堺線の線路に沿って歩いて行ってみると、高須神社駅近くにきていた。
ところで、高須神社駅は「たかすじんじゃえき」とは読まない。


このオレンジの鳥居が珍しいということで、結構名前だけは有名な高須神社。オレンジの由来はなんだろう。
堺の鉄砲鍛冶の芝辻利右衛門という人が、家康に発注された鉄砲500丁を即納して褒美にここの土地をもらって、神社をつくった。
そんな大きな神社ではないというか、見ての通り、住居と一体化していて、どこまで本殿かもよくわからない。
祭神はお稲荷さんで、高須神社ってネーミングはどこからきたんだろう。

この高須神社が、堺の環濠の東北端にあたる。
かつて環濠だったらしいちょい広い道路のところで、紀州街道に戻った。


渡ってすぐ、風間寺という寺がある。
大阪夏の陣で堺の町は焼き払われてしまうのだけど、その復興のための地割を行った、風間六右衛門という地割奉行がいた。
今でも堺の町はきっちり碁盤目状の町割りになってるのだが、これを創り上げたのが風間で、名奉行といわれた。
ところが風間家というのが先祖代々の日蓮宗の大信者だった。お寺の地割も遠慮無くばっさりやったら方々から恨みを買い、「あいつは日蓮宗の寺だけ贔屓した」と幕府に讒言され、切腹に追い込まれたのがこの風間寺のある場所という。


市営住宅が立ち並ぶようなエリアがしばらく続いて、すぐ大和川にぶつかる。
大和川を渡ると、ついに堺市を踏破して大阪市入り。まあ10キロ弱くらいで堺市は横切れる。

そこからもう少し歩くと、阪堺線我孫子道駅。
ここで阪堺線に乗り込み、今日の散歩は終了。


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