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2011年10月15日土曜日

近鉄生駒線沿線の神社巡りw/ CAMEDIA X-450

まだ乗ったことがない近鉄生駒線で、王子駅から生駒駅へと移動しつつ、何度か途中下車して一回り。

今日はCAMEDIA X-450を持ちだしてみた。

まずは大和路快速で大阪から王寺へ。

王子駅はなんだか、初めて来るといまいちピンとこない形をしていた。
後尾の列車に乗っていたから、降りるとまるでローカル駅のような、ホームに隣接した改札がある。(これが近鉄乗り換え向けの西口改札で、東口改札は駅の規模なりの橋上駅舎つきだったのだが、知らずに行ったので)
改札を出ると、左手に近鉄生駒線王子駅。右手側にはショッピングセンタービルと、JRのホーム裏にあたる部分に飲食店が軒を連ねる。
ホーム裏飲食店の先を見ると、駅の入り口らしい大きな階段が見える。関西本線より大きな駅なんてあっただろうか。JR和歌山線王子駅が関西本線と別体でしかもより大きい? そんなばかな。などと勘違い。

困惑しつつ、昼食時だったので駅前のショッピングセンター・りーべる王寺に入ってみた。
店を探していると、中京圏の味・スガキヤがフードコートに入っていて、「こんな大阪間近の奈良にもあるのか」と珍しがって、そっちに行ってみた。
(今調べたところでは、大阪にも兵庫にも複数あり、最西端は姫路らしい。しかし、どの店舗もちょっと目立たない感じのところにあるから、なかなか気付けないようだ)
うっかりネギラーメンを頼んでしまい、通常のラーメンとの内容差と価格差に首をかしげた。現地の友人に初めて連れていかれた時には「オススメできない」と言われていたのをあとから思い出した。
さておき、かつおだしが強烈な独特の味。チープなラーメンは、ちょっと普通と外れたような味をしてるほうが、かえっていいような気がする。


そこからどんどん西へ歩いて大和川を越える。
現地でケータイGPSを使ってgoogle maps見ながら歩いていたのだけど、偶然表示していた地図の範囲ギリギリ外に、久度神社というのがあったようだ。気づいていたら寄ったのだけど。


渡るとすぐ、多聞地蔵尊というのが建っていた。
弘化三年(1846年)に作られたお地蔵さんで、古くから信貴山参拝に向かう人の交通安全を守っているとのこと。

川向こうは、アップダウンの激しい住宅街。
偶然にも、というかまあ10月に行くからだが、目的地たる龍田大社の秋祭りをやっていて、山車を引いてるのか神輿をかついでるのか、囃子が聞こえる。
上がったり下がったりする道を1.5キロくらい行くと、龍田大社に到達。

参道にテキ屋がたくさん。
しかしまだテントかけてる途中。もう12時半くらいなのだが、祭りはもっと遅くなのかな。もう囃子が聞こえてるのだが、あれは練習だろうか。


大きい神社は、拝殿・本殿にアプローチする道がいくつもあったりしがちで、なぜか私はしばしば脇から入ってしまったりしがちなのだが、今回は珍しく正面参道から。
さすが官幣大社、鳥居も両部鳥居。


祭りの屋台に隠れてたのだろうか、縁起が見当たらなかった。
創建は崇神天皇の時代というから、B.C.148~29の間か。崇神天皇の生きた時代がそもそも不明瞭ではあるけれど。崇神天皇御自ら疫病払いを祈願して創建したという。
かつて、天変地異が起きたときに朝廷から特別の奉幣を受ける神社が二十二社あり、この龍田神社もそのひとつ。大社というだけあって、実際歴史的に見て相当偉い。

写真の通り、境内にもみじがたくさん。もう少しすれば真っ赤だろう。

拝殿右手にも何かありそうだったが、祭りの準備で何か柵を立てていて進めず。
拝殿左裏手に、摂社が3つ。横並びで、右から順に白龍神社、龍田恵美須神社、三室稲荷神社。


龍田恵比寿社は、1242年に西宮戎から分霊してきたものがあったが荒廃し、昭和62年に有志が再度分霊して再建したとのこと。

鳥居は露出オーバーで白くなっただけで、
目で見た色は普通の朱色。
三室稲荷神社は、いつ誰に創建されたかなどはわからないが、古くから商売繁盛を祈願されていたという。


白龍神社は、江戸時代の末に現れて信仰されていた白蛇が、姿を消したと思ったら明治41年になって葛城郡のにごり池に白龍として再来したのを祀っているとのこと。


変わったものとして、境内にカノン砲がある。
右の碑に大正3年吉日奉納とあるが、ネットで見たところによれば日露戦争で鹵獲したものじゃないか、とのこと。


境内に池があって、それに浮かぶように下照神社。名前通りにシタテルヒメを祀るのだろう。
この摂社も特に縁起書きが見当たらず。拝殿裏手の三社にはちゃんとあったのだけど。

これで一回り。地図で見ると、鎮守の森が広大で、社殿は一隅にこぢんまり集まってる感じ。(それでも並みの神社より境内が広いけれども)


鳥居からまっすぐ出ていく方向に細い路地があるが、そこに鳥居がちらっと見えたので行ってみると、真新しい金刀比羅宮があった。
アルミ枠と塩ビカバーの額にコピー用紙を入れた現代的極まりない縁起書きがあったので見てみると、1588年から大和川水運の守護神として祀られているという。
また、ここに1474年から不動明王を祀っている。神仏一緒くただが。
写真の反対側の左手に、古い石灯籠があって、古くからあることは伺える。
この鳥居は、触れてみると金属製だった。形はオーソドックスな明神鳥居だけど、近代化している。

ここから歩いて、近鉄生駒線の信貴山下駅へ。


かつてこの駅から信貴山東ケーブルが出ていた。
今でも、あからさまに山に向けて一直線の道路があるので、跡地はよくわかる。


信貴山駅から、北へ向かって平群駅へ。
小学2年の時に、近所の友達が平群町に引っ越していったのを思い出すが、今どうしてるだろう。


平群駅から少し北には、長屋王の陵墓がある。
公園、とある方は、東屋的な公衆トイレがあって、近隣ハイキングコースや長屋王の説明文などがある。
「続日本紀」には長屋王は生駒山に葬られたとあるが、近世の資料ではこの平群梨本の塚がそうだろう、と宮内庁の指定された。


すぐ北西には、長屋王の妃である吉備内親王の陵墓もある。
住宅と住宅の間の階段を通って行くので、なんだか生活音も丸聞こえで落ち着かない。皇族が埋葬されている古墳間近に居住する、というのは、果たしてどういう気分になるのだろう。

さらに住宅の間を縫って北に行くと、家が途切れて田畑になり、視界がひらける。
そこから見えている鎮守の森に近づいていくと、それが平群坐紀氏神社(へぐりにいますきのうじじんじゃ)。紀氏神社で通る。


紀氏の祖神・平群木菟を祀るため、紀船守が創建した。(ちなみに紀船守自身は、泉州淡輪の船守神社に祀られている)
今となっては大きいようには見えないが、延喜式の時代には名神大社だったそう。


拝殿はちょっと変わった造り……だけどなんか既視感もあるような。
また、拝殿を取り囲むように小屋がみっつ建てられている。中に特に何か祭ってたりもせず、神馬の厩舎という造りとも思えず、なんだろう?

鎮守の森が、ちょっと密度が低いというか、向こうが見通せてしまうくらい。そして、摂社の春日神社のお社が、木々の隙間から見える。お社が木々に隠れるような、逆に暗い森の中に浮かび上がるような、面白い風情があった。(じっくり拝んでいる人がいたのと、手元のX-450では撮りづらい被写体だったので写真は遠慮)

境内をなにやら工事中で、地元のおっちゃんが軽トラで乗り付けてあれこれ機材を持ち込んでいたので、じゃまにならないように気をつけて辞去。
また住宅街を歩いて、元山上口駅へ。


元山上口駅から、一分駅まで乗車。
生駒線は竜田川に沿って走る鉄道で、竜田川は、生駒山から信貴山まで連なる山を西に、松尾山と南北に連なる山々を東に、その谷間を流れる。
東側は、一分あたりまで来ると平たくなる。よって、奈良方面へと通行しやすい場所になり、第二阪奈有料道路が一分駅近くを東西に貫く。

駅から168号線に出て、雨が無視できない雨量になってきたので、コンビニに飛び込んで折りたたみ傘を購入。
第二阪奈道路のややこしい高架下交差点を南に超え、西に渡って住宅地になっている高台に上がっていくと、竹林寺がある。


ここには竹林寺古墳といわれる古墳がある。
大阪の古市や淡輪など、古墳は割と固まって多数作られがちなのだが、この古墳は生駒にぽつんとひとつだけで存在している。発掘調査などもされたが、生駒の豪族のものじゃないか、くらいしかわからないようだ。


そして生馬山竹林寺。
行基が仙坊を構えたといわれ、鎌倉時代に行基の舎利瓶(骨壷)が出土したことから高僧が集って興した。
その割には新しいきれいな寺だが、廃仏毀釈で絶えてしまい、100年以上経った1997年に復興されたものとか。


廃仏毀釈以前のものであろう、結界石や行基顕彰碑などが残る。


そして竹林寺の門外からちょっと横手にいくと、墓がある。
鎌倉時代に掘り出された舎利瓶は再度埋葬されたというので、それがここなのだろう。
大正13年に内務省が設置した説明板があって、行基についての説明の横に「渡来系大僧正」などと落書きがされていた。
Wikipediaに、93年当時の写真が掲載されているが、当時は墓の祭壇の向こうにあったらしいお地蔵さんは、今は向かって左手側に移されていた。

近畿圏をちょっと歩くと行基の残したものにぶつかるくらい、生前の影響力の大きかった僧で、信者ならぬ私にもなんとなく親しみがある。

それから168号に降りて、北に歩いて行く。
再びちょいと生駒山のほうに登ると、往馬大社こと往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)がある。



まずは鳥居があるが、そこの広場には社はなく、舞など奉納するための舞台らしいのがあるだけ。階段を登った上に、本殿などがある。
458年の「総国風土記」に現れるのが最初で、おそらくそれ以前から生駒山をご神体として祀られていたものだろう。延喜式では官幣大社。
祭神は伊古麻都比古神・伊古麻都比売神で、どちらもこのあたりの産土神。
鎌倉時代になって、八幡信仰が盛んになったときに八幡神五柱、気長足比売尊(神功皇后)・足仲津比古尊(仲哀天皇)・誉田別尊(応神天皇)・葛城高額姫命(神功皇后の母)・気長宿禰王命(神功皇后の父)を合祀した。

また、火の神としても知られていて、天皇が代替わりして大嘗祭を行う時には神木を提供する。
先に参った龍田大社が風の神で、高田川に他の川が一斉に合流するあたりにある廣瀬大社が水の神とされている。


階段を上がると、立派な拝殿。
なにしろ本殿が七柱あって横に連なっているから、拝殿も立派になろう。

また、摂社がかなりたくさんある。

北末社には、右から豊受比売社、仁徳天皇社、神明社、春日社、大山祗社。
すぐそばに英霊殿がある。


本殿南側に、瀬織津比売を祀る祓戸社。
このすぐ前に、大嘗祭に供出される上溝桜が立っている。


祓戸社の裏あたりに、水神社。
妻入りの屋根に平入りの社が入ってる。


南末社には、右から伊弉諾社、住吉社、猿田彦社、稲荷社。


左隣に、生駒戎神社。
本殿7柱に摂社12柱。多い。

境内は横長で、すべての社が生駒山を背にして整然と並んでいる。(北摂社は違ったかも)
生駒山を祀る神社、というのがよくわかる。


ここから降りて一分駅に戻り、生駒から大阪へと帰還。
石切駅でまた人身事故があって電車が遅れていた。数日前にも、お年寄りの車が踏切に閉じ込められ、焦って線路の方に突き進んでしまうなんてトラブルがあったばかりなのになあ。



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今日使ったOLYMPUS CAMEDIA X-450は、2004年10月というそろそろ廉価モデルも500万画素、ソニーの高級機で700万画素も出てきた頃に、今更感あふれる300万画素で出てきた廉価モデル。
どうでもいいようなカメラではあるのだけど、見た目が極めてかわいいという取り柄がある。

本当に初心者に振ったカメラで、記録画素数以外の画質設定というものが何もない。まあ、割り切っていけば特に問題はないけれど。
機能がないだけあって、操作系はシンプル。
露出補正は十字キーを上にやればすぐアクセスでき、補正量は常に表示されるし、電源を切っても忘れない。
マクロも2cmスーパーマクロまである。ストロボも2回発光でちゃんと調光する。

ホワイトバランスがちょくちょくコケるが、これはオートのみ。
センサーの性能もあってか、露出オーバーに弱い感じ。上の写真でも、神社の鳥居の赤が白く飛んだり。
で、もしかしてこれ全面平均測光じゃないか?というくらい、被写体で露出がすごく揺らぐ。緑が多いと常に-1.0くらいになっていた。
露出とAWBを外さなければ、画質は上々の部類じゃないかな。

CCD感度は基準がISO64。1/30秒から増感を始めるのは好ましいけど、ISO128が上限。その上限にぶつかると、手ぶれ警告が出るみたい。
形がいいのか、意外と手ぶれに耐える(1/6秒でブレてないカットがあったくらい)けれど、雨天の森の中なんて条件はちょっと厳しすぎる。上の古墳の写真などは1/3秒とかだ。
ISO128での画質は全然ひどくないから、せめて320くらいまで増感させてもいい気がするのだけど……。

動作がちょっと遅くて、スイッチ入れてレンズが伸びて画面が出て、それから撮影が可能になるまでワンテンポ遅れる。
xDカードへの書き込みが著しく遅くて、しかも連射バッファがないので、撮ってから次を撮影するまで5~6秒ほど待たされる。廉価機だとしてもこの遅さは20世紀レベル。
もちろん、書き込みが終わるまで、電源OFFにもできない。
ちょっとスナップで使うには厳しい遅さ。

このあたり、CAMEDIA X-2だと、レンズの繰り出しは遅いけど出たらすぐ撮影できるし、書き込み中にでも電源OFF操作をすれば、最大限速やかにレンズを戻し始めてくれる。X-2は一つ一つの動作は遅いカメラだけど、タイムラグをできるだけ減らそうとするような動き方をするから、総じて使用感はそれほど損なわれてなかった。

ま、別にこれというようなカメラではないけれど、外観がかわいいのを大きなメリットと考えれば、特に文句も出ないカメラ。