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2012年5月19日土曜日

古市古墳群 (2) w/ FinePix 4700Z

御所市に行こう、と思っていたのだが、寝坊して出発が少し遅れ、しかも上ノ太子駅あたりで人身事故があって近鉄電車のダイヤが乱れ気味。
しかも、もしかすると夕方から用事ができるかもしれなかったので、予定を急遽切り替えて、前回歩いた時に行き残した古市古墳群の天皇陵を回ることにした。

今日のカメラは、Fujifilm FinePix 4700Z。
兄弟分の4800Zはポルシェデザインのかっこいいカメラであるが、こいつもまあ同じような縦置きデザイン。これはこれで格好いい異形の姿。
今となっては馬鹿でかいという部類だけれど、発売された2000年当時には200万画素クラスで最小サイズであった。あの頃は単三電池を4本のみこむ薄らでかいのが中心だったので。


近鉄藤井寺駅で下車。北口から出る。

駅前にsol'yaというショッピングセンターがある。「そいや」と読んでしまった私を責めるものはなにもないと思う。素意や素意や素意や素意や。
Wikipediaの「藤井寺駅」の項目に、このsol'yaにCOSPAが入っているとあり、そのリンク先がコスプレグッズ専門店のコスパになっているのだが、このCOSPAはスポーツクラブであるよう。最初に書き足された時にはスポーツクラブと明記してたのだけど……

ちょっと北にはイオンモールもある、のだが、近頃郊外に現れる広大で華やかなイオンモールを想像していたら、かなり昭和っぽいスーパーマーケットが現れた。
私の地元の駅にもこんなスーパーあったな……昭和とともに消えていったけれど……

県道12号にぶつかったら、1筋だけ東にずれてまた北上。
住宅地だなー、というところを歩いていると、なにやら雰囲気の違う家がある。


ゆめいろミュージアム、なるところであった。
今は、大勢のデザイナーがネコをあしらった雑貨をいろいろ作って販売していた。
土間の広い町屋らしい家で、土間だけでなく座敷も使ってあれこれ並べるこの雰囲気、アーティストとアーティスト志望とアート好きが好みそうな感じ。もちろん私も好きな口である。



さらに北に行くと、小山善光寺というお寺がある。
今は浄土宗で、南面山無量寿院善光寺と称するそうで、本尊は牛にひかれて善光寺参りの信濃善光寺と同じ、一光三尊阿弥陀如来だそう。
7世紀後半、渡来系氏族の津氏が建立したらしいと出土品などから推定されているそう。

寺伝では、7世紀前半に本田善光(信濃善光寺を建立した人)が、難波堀江で立派な仏像を拾って信濃に持ち帰ろうとする途中、このあたりの寺で宿をとった。
そこの住職の隆聖法師が、その仏像を欲しいと頼んだのだけど何しろひとつしかないもので義光も譲ってくれない。そこで二人して三日三晩勤行をつとめると、なんと仏像がふたつになった。
そして本田善光は信濃で、隆聖法師はここでそれぞれ善光寺を開いた、という。

もともと、もう少し北の津堂城山古墳の後円部に接するあたりにあったそうだけども、信長が来た時に城ごと焼かれて喪失。江戸時代初期に復興されて今に至る。



もうちょい北には産土神社。
縁起書きがなかったが、まあ名前の通り地元の人のための神社だろうから、解説などすることもないのかもしれない。


境内は立派で、稲荷社などかなりすごいことに。現代化アレンジかしら、この鳥居。


さらに少し北に行くと、大きな古墳がある。津堂城山古墳。


その後円部に、城山八幡神社が鎮座する。
この神社も善光寺同様、信長が攻めてきた時に焼かれた。元は西に800mほどの藤井寺高校あたりにあったといわれる。
1720年にこの場所に八幡社ができ、しかし1909年には先の産土神社に合祀された。
1912年に津堂城山古墳を発掘調査したとき、石室の天井に使っていた岩で神社の記念碑を作って建てた。
戦後すぐの1948年に再建された。

そういえばここは以前にも来たことがあり、その時にはその石室利用の記念碑があった気がするが、2011年8月に今の記念碑(今書いてる神社略歴はその碑に刻まれてる)に建て替えられ、旧記念碑は保存されている。


古墳の姿はこんな感じ。
左は神社に向かって右手。墳丘は結構形がはっきりわかる残りよう。さらに右手は広場になっていて、地元の少年野球チーム(女の子ばかり大勢いたので女子ソフトボールかなにかかもしれない)のグランドらしい使われ方をしている。
一部柵で囲っているが、ぐるっと一周囲っている感じでもなく、神社の裏手だけかな? 前方部にはそのまま入って行けてしまいそうなところもあった。


古墳北側に、古墳ガイダンス棟まほらしろやまという施設がある。(来たことあるけど)
入ってみると、パンフレットやパネルで古墳の解説があったり、出土品を一部展示したり。
その前で、石室がこう置かれている。


さて次は、ここから南西の方へずーっと歩いていく。
道中はずっと住宅地なので特に立ち寄るところもなく、藤井寺自動車教習所の近くにきた。しかし駅から遠い教習所だなあ。


そこまで来るとすぐ、雄略天皇丹比高鷲原陵。
どうも不思議な形をした古墳で、池の中に浮かんだ円墳と、東側にある方墳をあわせて雄略天皇陵としているよう。遥拝所は東側にある。
不思議な形っぷりは、google mapsの航空写真など参照。

歴代天皇でも強そうな響きの号を持つ雄略天皇であるけれども、名前通りに激しい人物で、皇位を巡って兄弟や従兄弟を次々謀殺し、即位してからも武力で方々を征伐して回った。
大悪天皇なんて言われもする一方、「獲加多支鹵大王」(=雄略天皇)と刻まれた鉄刀が埼玉と熊本から見つかったことで、勢力をそれだけ広めた強大な天皇だったともいう。
遠く新羅まで征伐し、内政面でも渡来人の技術も積極的に採用するなどの事跡があるので、悪といっても、鎌倉悪源太や悪七兵衛景清みたいな、飛び抜けた人をいう意味で悪なのかもしれない。(古墳時代に「悪」という字がそういう意味だったかは知らないけれども)

どうにも異様な形の古墳だけれども、古事記には「御陵は河内の多治比の高鷲にあり」、日本書紀には「丹比高鷲原陵に葬る」とあり、ここの地名は高鷲なので、場所はまあこのへんであるよう。
しかしこの変な形はやっぱり、あれこれ弄った結果。
雄略天皇ほどの天皇の陵となれば、円墳ひとつじゃなくて前方後円墳だろうという意識が働いたか、江戸末期に蒲生君平が調査した時には「遠くから見ると前方後円墳っぽいけど、近くで見ると、前方部は田畑にされちゃっていて円墳しか残ってないように見える」みたいなことを言ってる。
で、文久の修陵という、江戸幕府がやった古墳一斉修理事業において、上野館林藩が「前方後円墳だから」といってそれっぽい形に改修してしまった。
(このあたりの話は、矢澤高太郎「天皇陵の謎」より。面白い本なのでおすすめ)

これが雄略天皇陵とは思えない、という声もあり、複数の真陵候補がある。
堺の大仙陵古墳、宮内庁比定では仁徳天皇陵とされているあれがそうだ、という説もある。
埼玉で「獲加多支鹵大王」の剣が見つかった近くにある巨大円墳がそうだ、ともいう。現・雄略天皇陵と同じ時期のもので、しかもより大きい。地方豪族が天皇より大きな古墳を造るはずがないから、本当は関東に眠るんだ、と。
ここから2キロほど西に行くと、大塚山古墳という大きな前方後円墳があり、これがそうだともいう。


雄略天皇陵から南に下がり、藤井寺駅方面へ戻っていく。
今度は駅より南へ。



すると、辛國神社というのがある。

雄略天皇時代にできた式内社。
日本書紀に、雄略天皇が物部氏に餌香長野邑を所領として与えたので、ここに物部氏の祖神たる饒速日命を祀るようになったのが始まり。
神社の名前は、後に物部氏一族の辛國連が深く関わるようになったことから、と伝わる。
平安時代には、清和天皇から官社に指定されるなど栄えた。
室町時代に守護の畠山基国が社領200石を寄進し、春日大社から天児屋根命を勧進。
明治には近くにあった長野神社の素戔鳴尊を合祀。




もう少し南に行くと、すぐに見えてくる仲哀天皇陵。
しかし前方部が南向きなので、一周しないと遥拝所に辿りつけない。

父があの日本武尊、妻があの神功皇后という超ビッグネームの仲哀天皇だけれども、本人が何をやったというほどのことは記紀に書かれていない。
下手すると、仲哀天皇は架空の人物ではないかともいわれる。
ちょうど先日参拝した香椎宮に祀られているように、九州まで熊襲征伐に行って現地で倒れた。安徳天皇のように現地で葬られず、武内宿禰が遺体を持ち帰ったので陵はこちらにある。

御陵は立派で、周濠も50m以上と広い、墳丘長242mの前方後円墳。
ただ、中世に城として使われていたようで、かなりいじられてしまっているそう。
かろうじて埴輪が残っていて、19代允恭天皇陵より新しく、24代仁賢天皇陵より古い5世紀後半の古墳だろうとわかっているとのこと。仲哀天皇は14代なのだけど。



東側に回って駅の方に戻る途中、割塚古墳というのを発見。
陪塚かと思えば、こちらは5世紀初頭のものらしく、仲哀天皇陵より古い。
墳丘が完全に残っている珍しい古墳だそう。



ものすごい建物の前を通りかかったが、これ生涯学習センターだって。



辛國神社に戻ってきて、すぐ近くに葛井寺がある。クズイデラでなく、これでフジイデラと読む。
境内に聖武天皇の寄進したという燈籠なんかが置いてあって、さすが古社という雰囲気。

中に、ヴィクリディタ・サマディきりく、という喫茶店があったので、そこで一休み。
しかしなんというかその、店員の就業態度が甚だしく悪く、客が居ないから談笑してるくらいは一向にかまわないにしても、ふたりして客席に座って売り物らしい茶菓子囲んで談笑してたら客だか店員だか見分けつかんし、客が来ても談笑し続け、席に着いたら水とメニューだけ置いてまた談笑に戻り注文とりにこず、客がコーヒー飲んでても静かな店内に店員の話し声だけが響き渡り、客が席を立っても談笑し続け、こっちから会計しろと言いにいったら値段だけ言って受け取って、ありがとうございましたの一言もなくすぐ座って喋り続ける、とまでくると、流石に酷すぎる。

最後にこれだったから、どうにも気分悪い一日になってしまった。



今日のFinePix 4700Zは、数量限定版のブラックモデルであるようだ。品番は詳しくはFinePix 4700ZBだそう。

スーパーCCDハニカムを初めて採用した高級モデル。
1/1.7型240万画素で、出力画素数は384万画素相当の2400x1600。
35万画素から130万画素、130万画素から200万画素と、画素数が高まるとまるで撮れる絵が変わる時代であったから、画素数が多いのはそれだけで大きなウリになったが、しかしこのカメラを400万画素といって売っていたのはいささか強気すぎるか。

まあ、ハニカムの最大画素数での出力は、やはり当時から「水増し」との声が強く、ノイズも多いし解像度も低い、と、良いとはいわれていなかったようだ。
今になってみればどうか。とりあえず中央近くを等倍で切り出してみた。


まあ、確かにちょっと水増し感はある。1.3倍のデジタルズームです、といわれるとそんな感じもある。
全体的にノイズが多くて、平たい所でもザラっとした感じもする。ノイズのせいでJPEG圧縮が少し汚くなっているのも感じられる。
(なにぶんスマートメディアのカメラなので、400万画素FINE画質では64MBに40枚程度しか撮れない。それはいので、今回はNORMAL画質での撮影。ファイルサイズは1枚750KBというところ)

200万画素の高級機、オリンパスC-2000Zとかに比べると、確かに等倍で見るとかなり落ちる。
しかしまあ、数年後の1/2.7型300万画素とか1/2.5型400万画素CCDのカメラだったら、この程度の画を出すカメラも出てくるし、その頃は(マニアの批判を浴びつつ)それで許容された。
さらに言えば、その後も一部の高級モデルを除いては、等倍で見るともっと悪い画を出すようなカメラばかりになっていった。


130~200万画素時代にはあまりデジカメを触っていなかった、「普通の画質」の水準が2003年の1/2.7型300万画素くらいにある私の目には、まあ許容範囲だけど、もうこれは人による。


まあ、ハニカム400万画素とは扱わず、CCDの画素数並の200万画素で撮影すれば十分きれいだろう、と思ったら、このカメラは200万画素での記録がなぜかできない。
400万の下がいきなり130万で、その下は35万画素。



ただ、どうも私が手にした個体は、レンズが悪いみたい。
12年落ちの中古カメラだから、落下させてレンズの玉がズレたりしてるのかもしれない。
ネットで他の人の写真を見ると、私のと同じような傾向はあるようにも見えるけど、私のほど酷くない、という写り。


どうも、中心から外れるほどピントが外れていく。
上の小山善光寺境内の写真にもかなり酷く現れていて、撮影対象が平面だとか、撮影距離とかにかかわらず同じように周囲がボケる。
多分、レンズエレメントがズレて、像面湾曲になってしまってる。

絞るとおよそ解消するので、明るいところでは気にならなくなるのだけど。
一応フラッグシップモデルとして世に出たFinePix 4700Zだから、このレンズが正常ってことはないと思う。


発色は過剰なぐらい色鮮やか。いくら今日は天気が良かったとはいえ、ここまでギンギンにビビッドな世界ではなかった。記憶色すら超越する派手さ。しかし、これはこれで。
ただ、ハニカムCCDはダイナミックレンジが広い、といいつつ、コントラストが相当高い。
建物などを取ると、庇の下を残すように露出を撮れば屋根が白飛びし、屋根を残すと庇の下が、黒つぶれとまではいかなくても露出不足でザラザラになる。
こういうのはダイナミックレンジが狭いというのだが、まあ露出がハマるといいところなのでよしとしよう。

測光モードがスポット・マルチ・アベレージと選べるが、マルチ測光は私の手に合わず、ずっと露出オーバーに見える。どれくらいオーバーかも場合によって変わって、全然傾向がつかめない。
アベレージだと、少なくともどういう時にどれくらい露出補正すべきかはつかみやすい。


画質はさておき、2000年の製品と思えばかなり完成度は高い。

起動も2秒ちょっとだし、使っていて動きの鈍さは感じない。
メディアがスマートメディアでちょっと弾切れを起こしやすいが、撮影後プレビューをオンにしておくと、1枚撮影ごとに記録するかどうか選択できる。
取り出して1枚撮ってすぐ仕舞う、とやると、うっかり記録せずに電源を切ってしまう、という難点も出てくるが、水平大外しとか車が前を通り過ぎたとか、そういうミスをその場で削除できるのは、高画素数スマメ機ならメリット。

筐体もアルミとマグネシウム合金のしっかりしたモノで、さすが古い高級品だけあって、みっちり詰まったような重みがある。
液晶も2型と大きい。13万画素は当時としては高いし、低温ポリシリコンTFTで色鮮やかでよく見える。
ストロボも手動ポップアップ式で、使うべきでないところでは確実に使わないことができる。

操作性は一瞬面食らうところもあるが、使ってみるとかなり良い。
十字キー上下がズーム、左がマクロで右がストロボモード、とこれは普通だけれど、シフトボタンがあり、シフト+左で記録画素数、シフト+右で圧縮モード、シフト+下でセルフタイマー、となる。
十字キーの内側にはマトリックス式のモノクロ液晶があり、そのボタンがどういう動作をして、現在どういう設定かが表示される。残り撮影可能枚数もここに出る。液晶にバックライトもある。
何しろスマートメディアで400万画素なので、看板などメモるときは圧縮率上げたりがすぐに出来て嬉しい。

シーンモードや動画・連写はモードダイヤルで切り替え。もちろんカチっとしたダイヤル。
連写モードではAEブラケットもできる。動画は音声付きで撮れる(80秒までで10fpsだけれど)。

他に液晶モニターを使うメニューもあり、露出補正やISO感度設定、測光モードなどはここ。
最初は露出補正にカーソルが合っているのも好ましい。

まあその、これをどう持って撮影すればいいのか、というカメラとして酷くマズイところもあるのだけれども。これは手の大きさに応じた正解を探すしかないか。


電池の持ちが非常に悪いと当時は言われていたそうだけど、さすがに10年経ってニッケル水素電池の容量もかなり上がった。
東芝の2500mAhを使う分には、58枚撮影して特に何の警告も出ず。
100円ショップで売ってる1400mAhのものを入れてみると、フル充電に近いはずなのにすぐ減ってきてると警告が出た。
なお、CR-V3は使えない。

光学ファインダーが意外にショボいのはちょっと寂しい。マクロ用のフレームとかAF測距点マークとかは出てるんだけど。
また、液晶ファインダーを切っても液晶モニタは消えない。露出などのメニュー項目を表示させておくためのようだけど、節電効果はいかほどだろう。


ハニカム水増しで味噌はついたものの、やっぱりしっかりしたカメラだった。
よく作りこまれていて使って気持ちいいし、形状などのいわゆる常識的ではない部分をどう使いこなすか、という楽しみ方もある。
出足でいきなりミソをつけたハニカムも、その後信念を揺らがせることなく、2012年の今でもEXR CMOSとして画素を斜め45度に配置し続けているわけで、その始祖はコレだったという歴史も味わえる。