先週の高槻にほど近いが、京都に入って長岡京の土御門天皇陵にいってみた。
持ちだしたカメラは、COOLPIX 2100。
思えばこのカメラも現役当時に購入候補に入ったことがある。200万画素といっても2003年モデルで、KD-400Zより後のカメラだ。
メモリがコンパクトフラッシュで電源が単三、というのは当時の私にはアドバンテージに見えたのだけども。当時は、「CFなら前から持ってるけどSDカードは新規購入」という頃だった。
ただ実写サンプルで落としたカメラだったから、少なくとも画質面での期待はない。
午前中は春の嵐という勢いで暴風雨だったが、午後には止むということで出発し、長岡京市についた頃には大体午後1時。
京阪長岡天神駅からちょっと西に歩くと、すぐ長岡天満宮。
駅の側には大きな八条ヶ池。池の上に長い橋がかかって、中の島もある。
八条宮智仁親王にちなんだ名前とのこと。
鳥居からまっすぐ前、中堤の参道は、三本並走するうち真ん中だけ塞いであった。
ここの生垣のようなのがキリシマツツジであるそうで、樹齢100~150年くらいだろうという話。赤く花がつくと実に美麗であるそう。
参道に従って歩いて行くと、歌碑やら植樹やらで整えられたエリア。
茶屋と、隣は花屋に行き当たる。ちょっと派手な建物。
参道は続く。雰囲気がよくなってくる。
階段を登ると、紅葉庭園という案内があったのでそっちに右折。
この池にかかる石橋を渡ると、向こうに見える長岡大明神社に参拝できる。
大明神社から回りこんで、長岡天満宮の祭殿へ。
菅公は生前、在原業平とともにこの長岡によく遊んだといい、太宰府に流される菅公が「わが魂長くこの地に留まるべし」と名残を惜しんだことから、菅公の手による木像を祀ったのがこの神社の始まり。
拝殿は見ての通りの華やかさ。
撫で牛も3頭も。
古い方はそろそろ危険だから手を触れないように、とあった。
境内には以前の宮司の銅像もある。
メガネの方が中小路宗城氏。
明治から昭和にかけての宮司で、それ以前は衰退気味だったこの天満宮を復興させようと尽力し、社殿の改修や連歌所の新築、八条が池の整備とキリシマツツジの保存など様々な事業を成し、村社とされていた社格を郷社・府社と二度も昇格させた。
メガネでない方が中小路宗康氏。
次代の宮司で、平安神宮の旧本殿を譲り受け、移築する事業を果たした。
本殿の左手には、稲荷神社とその他の末社が集まっているエリア。
さらに南西の方へ回ると梅園がある。
ちょうど雨が上がって晴れ間が出た。梅を楽しめという菅公の配慮であろうか。
散っているものは散っていたが、まだ見れるのもあり。
オモイノママウメ、という耳慣れない品種の梅がある。
2枚目の写真がそれだが、一株からいろんな色の花が出るとかで、たしかにこの2枚目の写真も赤と白が混じってるのかもしれない。
長岡禅塾、というのが北側にあったが、公開施設ではないのだろうか。
ここからしばらく、高級住宅地という感じのところをひたすら歩く。
後から地図を見ると、北の走田神社とかに寄ってもよかったかもしれないが、そのまま土御門天皇陵に向かった。
途中で高速道路の建設現場をくぐる。
京都縦貫自動車道の未開通部分で、大山崎ジャンクションあたりから沓掛の方へと山の中を突き抜けていくよう。沓掛につながれば、すでにそこから亀岡・園部経由で丹波まで道がある。
住宅地を府道204号なりに歩いて行くと、参陵道の整備記念碑があった。
御陵道に入ってどんどん歩く。
あたりは高級そうな住宅地だが、開発されたのはあまり古い時代ではなさそうな感じ。土御門天皇陵も、割と最近までは、山奥にひっそり佇むような御陵だったのかもしれない。
到達。すぐ隣が民家だったり、参道脇は畑だったり。
また、この御陵は駐車場がある。いかにも駐車できそうなスペースがある御陵は他にもあるけれども、はっきり駐車場と表示しているのは珍しいかも。
土御門天皇金原陵(かながはらのみささぎ)。
鳥居の向こうにいい感じで高い木がそびえ立って、格好のよい御陵になっている。
雨はちょっと止みきらず、風も強い天候だったが、ここに着く前後には日が出てきた。帝のご威光が雨雲を遠ざけたか。
土御門天皇は、後鳥羽天皇の第一皇子で、わずか四歳で即位し、十三年在位して順徳天皇に譲位した。
そののち、順徳天皇は後鳥羽上皇とともに承久の乱を起こすことになるが、土御門上皇は関与せず罪にも問われなかった。
しかし、弟と父が遠流にあって自分だけ何もないのは心苦しいと、自ら土佐への配流を受けた。(後に少し都に近い阿波に移る)
そんなことからも伺えるように温厚な人だったそうで、父・後鳥羽院はそんな温厚さが頼りなく見えて、早々と順徳天皇に差し替えたとか。
日蓮が土御門天皇の子である、という伝説もある。土御門上皇がいたのは阿波、日蓮が生まれたのは安房だが、さて。
ここから、ぶらぶら住宅地を歩いて駅に戻った。
帰りは長岡京駅までいってみたが、村田製作所本社が駅に直結し、駅前も真新しく綺麗で大きい駅ビルが建った立派な駅。
その立派な駅ビルで、池田大作写真展が開催中であったが、土御門帝にちなんでここでやってるのであろうか。
今日のCOOLPIX 2100。
ニコンのブランドが付いていると期待値が上がってしまうもので、前もCOOLPIX 3700を高く期待して使ってみて、期待値を大きく下回ってがっかりした。
京阪長岡天神駅からちょっと西に歩くと、すぐ長岡天満宮。
駅の側には大きな八条ヶ池。池の上に長い橋がかかって、中の島もある。
八条宮智仁親王にちなんだ名前とのこと。
鳥居からまっすぐ前、中堤の参道は、三本並走するうち真ん中だけ塞いであった。
ここの生垣のようなのがキリシマツツジであるそうで、樹齢100~150年くらいだろうという話。赤く花がつくと実に美麗であるそう。
参道に従って歩いて行くと、歌碑やら植樹やらで整えられたエリア。
茶屋と、隣は花屋に行き当たる。ちょっと派手な建物。
参道は続く。雰囲気がよくなってくる。
階段を登ると、紅葉庭園という案内があったのでそっちに右折。
この池にかかる石橋を渡ると、向こうに見える長岡大明神社に参拝できる。
大明神社から回りこんで、長岡天満宮の祭殿へ。
菅公は生前、在原業平とともにこの長岡によく遊んだといい、太宰府に流される菅公が「わが魂長くこの地に留まるべし」と名残を惜しんだことから、菅公の手による木像を祀ったのがこの神社の始まり。
拝殿は見ての通りの華やかさ。
撫で牛も3頭も。
古い方はそろそろ危険だから手を触れないように、とあった。
境内には以前の宮司の銅像もある。
メガネの方が中小路宗城氏。
明治から昭和にかけての宮司で、それ以前は衰退気味だったこの天満宮を復興させようと尽力し、社殿の改修や連歌所の新築、八条が池の整備とキリシマツツジの保存など様々な事業を成し、村社とされていた社格を郷社・府社と二度も昇格させた。
メガネでない方が中小路宗康氏。
次代の宮司で、平安神宮の旧本殿を譲り受け、移築する事業を果たした。
本殿の左手には、稲荷神社とその他の末社が集まっているエリア。
さらに南西の方へ回ると梅園がある。
ちょうど雨が上がって晴れ間が出た。梅を楽しめという菅公の配慮であろうか。
散っているものは散っていたが、まだ見れるのもあり。
オモイノママウメ、という耳慣れない品種の梅がある。
2枚目の写真がそれだが、一株からいろんな色の花が出るとかで、たしかにこの2枚目の写真も赤と白が混じってるのかもしれない。
長岡禅塾、というのが北側にあったが、公開施設ではないのだろうか。
ここからしばらく、高級住宅地という感じのところをひたすら歩く。
後から地図を見ると、北の走田神社とかに寄ってもよかったかもしれないが、そのまま土御門天皇陵に向かった。
途中で高速道路の建設現場をくぐる。
京都縦貫自動車道の未開通部分で、大山崎ジャンクションあたりから沓掛の方へと山の中を突き抜けていくよう。沓掛につながれば、すでにそこから亀岡・園部経由で丹波まで道がある。
住宅地を府道204号なりに歩いて行くと、参陵道の整備記念碑があった。
御陵道に入ってどんどん歩く。
あたりは高級そうな住宅地だが、開発されたのはあまり古い時代ではなさそうな感じ。土御門天皇陵も、割と最近までは、山奥にひっそり佇むような御陵だったのかもしれない。
到達。すぐ隣が民家だったり、参道脇は畑だったり。
また、この御陵は駐車場がある。いかにも駐車できそうなスペースがある御陵は他にもあるけれども、はっきり駐車場と表示しているのは珍しいかも。
土御門天皇金原陵(かながはらのみささぎ)。
鳥居の向こうにいい感じで高い木がそびえ立って、格好のよい御陵になっている。
雨はちょっと止みきらず、風も強い天候だったが、ここに着く前後には日が出てきた。帝のご威光が雨雲を遠ざけたか。
土御門天皇は、後鳥羽天皇の第一皇子で、わずか四歳で即位し、十三年在位して順徳天皇に譲位した。
そののち、順徳天皇は後鳥羽上皇とともに承久の乱を起こすことになるが、土御門上皇は関与せず罪にも問われなかった。
しかし、弟と父が遠流にあって自分だけ何もないのは心苦しいと、自ら土佐への配流を受けた。(後に少し都に近い阿波に移る)
そんなことからも伺えるように温厚な人だったそうで、父・後鳥羽院はそんな温厚さが頼りなく見えて、早々と順徳天皇に差し替えたとか。
日蓮が土御門天皇の子である、という伝説もある。土御門上皇がいたのは阿波、日蓮が生まれたのは安房だが、さて。
ここから、ぶらぶら住宅地を歩いて駅に戻った。
帰りは長岡京駅までいってみたが、村田製作所本社が駅に直結し、駅前も真新しく綺麗で大きい駅ビルが建った立派な駅。
その立派な駅ビルで、池田大作写真展が開催中であったが、土御門帝にちなんでここでやってるのであろうか。
今日のCOOLPIX 2100。
ニコンのブランドが付いていると期待値が上がってしまうもので、前もCOOLPIX 3700を高く期待して使ってみて、期待値を大きく下回ってがっかりした。
今回はまあ、その前例があるからそれほど過剰に期待してないつもりだったけども、まだ期待値高かっただろうか、やはり期待ほどいい感じはしなかった。
というか、ガワは違うけど中身はE2100もE3700も、かなりよく似たカメラだった。
単三ニッケル水素電池ではバッテリーがすぐ切れる、という話は聞いていたので、今回はRCR-V3で運用した。まあ、RCR-V3なら特に不安なく半日使えた。
この個体はバッテリー蓋に破損があってきっちり閉まらないので、その点でも筐体内側の端子だけ生きていればいいCR-V3のほうが今回は好都合。多分この電池蓋は弱い。
CFカードが2GBだったせいか、起動にかなり時間がかかってしまう。
レンズはすぐ出るけど、液晶がしばらく映らずに待たされる。128MBくらいならスっと起動するかも。
COOLPIX 3700も、2GBのSDカードでは同じような挙動だった。
で、E3700でも発生していたけれども、光学ファインダーで使うと挙動がおかしい。
異様なほどレリーズタイムラグが長くなったり、シャッターが切れなかったり。液晶をオフにしてから、再度オンに戻すのにも5秒くらい、不自然に長くかかる。
液晶を切ると、例えばAFとかAEみたいな撮影(および液晶ファインダー表示)に必要な機能までスリープしてしまって、レリーズ半押ししてやっとルーチンが再起動される、それに数秒かかってしまう、液晶をオンに戻すときも同じことをしてる……みたいな話なのかなあ。
なんでこんな不思議な仕様なのか、ちょっと使い物にならない。
液晶オンで使うなら、まあ普通。
でもE3700でも思ったけど、ファインダー下部に情報表示のための帯が出ているから、フレーミングの邪魔。消せるのだけど、消すと何でもかんでも全部消えてしまう。
記録が速いわけではない、というか結構遅いのだけど、3枚分ほど連写バッファがある。
どうせならAEブラケットがあればいいけど、そういうクラスのもんではない。
ベストショットセレクタ(連写して、手ブレが小さいカットをカメラが判断してそれだけ記録する)はある。
ただ、バッファをカードに書き出している間は、ズーミングとか一部の動作に制限があるようで、ちょっとのろくささを感じる。
ここは、連写バッファがないE3700よりはいい点。E3700は1枚1枚待たされる。
で、CCD感度はISO100固定か、それこそシャッター速度の下限に当たるまで増感しないみたいで、手ブレする。広角端でも1/8秒とかで増感なしだと手ブレするしかない。
そこで、とりあえず常に連写しながら撮影するようにした。連写を使えば、画素数少ないこともあって救えることも多い。
E3700も似たような仕様だったが、こっちはISO50実質固定っぽいから、E2100のほうがマシ。
操作性は、電源ON/OFFとズーミングを間違える。E3700と同じ。
十字キーのタッチもイマイチ。なんか曖昧でしっかりしてない触感。
露出補正はメニューの中。ニコンなのに。ただまあ、露出補正値を含めて、設定は記憶されるのはマシなところか。
確かこの頃のニコンは、電池が入るグリップ部が膨らんでいることを「しっかり持てるグリップ」とか言い張っていた記憶があるが、確かにホールドはしやすい。右手は。
画質は……発色とかホワイトバランスは、まあ悪くない。露出はオーバーだけどもヘンに揺らがないので、途中から-0.7補正で使うようにすると、安定してしっかりした色の絵がでた。
しかしレンズが悪いのか、ブルーフリンジが相当ひどい。
200万画素にしても、あまりシャープに写ってる感じもしない。まあ今日は雨で条件が厳しかったのだけれど。
200万画素にしても、あまりシャープに写ってる感じもしない。まあ今日は雨で条件が厳しかったのだけれど。
総じて、悪いところはいくらでも出てくるけど、褒めるようなところはない。面白い特徴もない。
三洋に作ってもらったカメラなんだろうなあという感じ(裏蓋外すとSANYO印のICチップが出てくる)だが、三洋って自社で売ってるカメラはこんなショボくてつまらない製品にはしないのになあ。三洋は動画に強いとか、動作が機敏だとか、一芸もたせたカメラが大抵。
使い物にならないほど酷い短所はないから、カメラとして使うことはできるけども……
(ただし電池持ちが本当に使いものにならないほど酷いという話も)
(ただし電池持ちが本当に使いものにならないほど酷いという話も)