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2012年2月18日土曜日

Kobe de 清盛 2012 (1) 須磨 w/ Digital Revio KD-400Z

大河ドラマ「平清盛」にちなんで、神戸市がKobe de 清盛 2012なる観光イベントを仕掛けていて、それに乗って関西私鉄各社が1dayパスを企画していたりしたので、ちょっと乗っかってみることにした。
山陽電鉄の須磨浦公園駅から三宮にかけての私鉄・地下鉄と、発行各社沿線から三宮までの路線が乗り放題、大河のドラマ館・歴史館の入場券もついてるリーズナブルな1dayパス。

ちょっと行くところが多くて撮影枚数が多いので、全く使ったことのないカメラ持って行ってトラブル起こしたら嫌なので、KD-400Zを持ち出し。


とりあえず遠い方から行こう、と、三宮から神戸高速経由で山陽電鉄・山陽須磨駅まで移動。
1dayパスのエリアとしては須磨浦公園駅が端だったのだが、まあ、須磨浦公園なら別の機会にそこだけ行ってもいいかと思ったのと、須磨浦公園駅に乗っていた直通特急が止まるかわからなかった。
どうも車掌さんが不思議な発声をして、「つぃあー、てゃーどー」とか何か言ってるんだけど聞き取れず、板宿駅について初めて「次は板宿」と理解する状態で、「てゃーまー」といって月見山にきたところで聞き取ることを諦めたから、ともかく乗り過ごさないように須磨駅に止まった所で降りた。
後から調べると須磨浦公園には止まらなかったようなので、結果的にはよし。


駅前の国道2号線を東に歩いて行くと、程なく村上帝社という小さな神社がある。
名前通り、村上天皇を祀っている。

琵琶の名手であった藤原師長が、さらなる奥義を求めて中国に渡ろうと京都を飛び出した。まあ現代ならロックスターを夢見て渡米しようとしたようなものだろうか、まったくロックな話だ。
しかし須磨で汐汲みの老夫婦の家に泊まると、その老夫婦が越天楽を「感涙こぼれ嬰児も躍るばかり」という神業のような演奏するのを見せ付けられた師長。渡航をキャンセルした。
その老夫婦の子孫は現代まで続き内田裕也を輩出した、というわけではなく、実はその老夫婦は村上天皇が師長を止めるために差し向けた精霊であった。
天皇自らも師長の前に現れ、自分には「玄象」という名器があるから、もうひとつの名器「獅子丸」を師長に与え、喜びの舞をなし給った。
以上が謡曲「玄象」のあらすじで、ここには獅子丸を埋めた琵琶塚があったとされる。

琵琶塚は前方後円墳だったそうだが、あいにく山陽電車の線路で分断されてしまったそう。

そこからさらに東へ。
綱敷天満宮という神社が見えてくるが、その手前に、諏訪神社がある。


なぜか鳥居がない神社。敷地もある程度あるのに、小さいお社があるだけ。
社殿が東向きなので東向明神ともいわれる。
一説では、諏訪が訛って須磨という地名になったともいうので、かなり古い神社のよう。

向かいの綱敷天満宮にアプローチ。


なんの塔だったかな。


幼き菅公と、母子像。
菅公の母上については記録がほとんどないが、「家風」という言葉を最初に使ったとか、伴氏の出身だということだけわかっているという。
「ひさかたの月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな」という歌を菅公元服の折に贈ったとされている。

夫に尽くし、やさしく、我が子をかわいがりながら、単なる教育ママではない厳しさと賢さを兼ね備えた女性だった、という言い伝えがあるという。
近頃は少子化、虐待の話もよく聞かれるようになり、震災を経て家族の絆についてあらためて問い直すべきではないか、であるから菅公御神忌1100年を記念して、良妻賢母の象徴としてここに銅像を建立した、とある。
えー、んー、なんといったものか……

いろいろなものがあって、えらく派手な境内だ。


なす。これに腰掛けて本殿に向かって祈ると、どんな願いも叶うという。
他では見たことないが、かわらけ投げみたいに結構やってるところが多いことだったりするのかな……と思ったが、ぐぐった限りでは綱敷天満宮のことしかヒットしない。


きた時からちらほら看板で見ていたが、このサーファー菅公。
成功をおさめるためにはうまく時流の波に乗るのも大切、さらには須磨の海にくる若者たちにちなんで、幼少の菅公にサーフボード持たせてみたというような説明がある。
もはや菅公全然関係ないというか、この天満宮も例によって菅公が九州に流される途中で立ち寄っていったことにちなんで作られているのに、果たして讒言で追われた菅公はその時波に乗れていたのだろうか。というか、波が高くて船が進めないからここで止まったって話じゃなかったか。


拝殿も豪華。


天満宮といえば牛だが、なんか大群が。

なんというか……須磨寺もB級スポットとして知られてしまってるのだが、この綱敷天満宮も相当だ。関西のオシャレを代表する神戸で、なぜこういうセンスに突き進んでしまったのか。




北上して西国街道に出ると、菅の井というのがある。
菅公がきたときに、旧家・前田家の人がこの井戸の水を汲んで差し上げたところ、菅公が大いに喜んで自画像をお礼にくださったという。


菅公手植えの松。


隣接して元宮長田神社がある。
前田家の人々が氏神の長田神社を崇敬していたが、長田まで行くのがいささか遠いので屋敷の中に分社してもらったもの。


山陽電鉄須磨寺駅にきて、商店街へ。


商店街からすぐ、看板がある方に折れてちょっと行くと、頼政薬師寺というのがある。
前田氏の建立といわれ、本尊は聖徳太子作の薬師如来。寺号は浄福寺というが、源頼政が再興したことから頼政薬師という通称がある。
あいにく阪神淡路大震災で倒壊して、平成11年に再建。


商店街に戻ってしばし北上。
古い店ばかりなのに、薬師寺参拝の客に支えられてか、閉まってる店は少ない。


商店街の北端あたりに、「弘天さん」という知恵の輪くぐりがあった。
綱敷天満宮と須磨寺が共同で、5歳の菅公と7歳の弘法大師を祀る祠に知恵の輪をくぐって参るように作った。最近。
ここ10年くらいに商店街の道を「智慧の道」と呼ぶようになって、ここ2~3年に寺社共同で受験生の応援をやっていたので、ここにこういうのを作ったとのこと。去年。

須磨寺がB級といわれるのは、何かあったら片っ端から形にしてしまうサービス精神のせいかもしれないな。大乗仏教の精神か。

そしていよいよ須磨寺にアプローチ。
歴史的な雰囲気のあるお堂と、?、と思うような不思議なものが入り乱れる。



源平の庭、といって、平敦盛と熊谷直実の像。
幸若の「敦盛」のワンシーンを再現している。

平敦盛は笛の名手だったが、一ノ谷の合戦で須磨の浦から平氏が退却を始めるとき、愛用の笛を忘れたからと取りに戻ったせいで、退却する船に乗り遅れかける。
海の上で船を追う敦盛に、源氏の熊谷直実が追いつき、一騎打ちを受けよ、さもなくば軍勢に矢を射掛けさせる、と挑む。

この後、直実は敦盛を組み伏せていざ首を打とうとする。
その時初めて相手がまだ16歳の平敦盛だと気づき、同じ16歳にして戦死したばかりの息子・直家を思い出し、思わず首を打つのをためらってしまう。
しかし、源氏方とはいえもともと平盛方の孫である直実であり、「平家の将を討てない直実には二心があるのではないか、いっそ二人もろとも矢で仕留めろ」と騒ぎになりはじめ、やむなく敦盛の首を落とす。
謀反を疑われ、若者を殺した心も晴れず、すぐに続く屋島の戦いへの招集を蹴って出家する。

出家した直実が世を儚んで思うのが、かの有名な「人間五十年化天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を受け滅せぬ者のあるべきか」のくだり。


続いて源平時代の甲冑や兜、当時寄進された文物、敦盛愛用の笛などの宝物などが展示される建物が隣接していて、ちょっとした源平テーマパーク状態。

この小石人形は、木島武雄氏の作によるものだが、なんかもうたくさんある。これは雛壇だけど、風景まで作ってジオラマ化したものもあり、さらには電動でジオラマを自動的にいれかえながら展示していたりもする。

一ノ谷の合戦がここであって、敦盛がこういう話だと踏まえると、別におかしなことをしてるわけではないのだが、寺院の荘厳さとかを求めると、だいぶズレるかもしれない。


マニコロ、というものは知らなかったが、どうも仏像とかこういうものの造形がちょっとかわいいのも、B級呼ばわりされる一因かもしれない。なんかかわいいのがいろいろある。


階段を上がると本堂。


敦盛の首を洗ったとされる池。


出世稲荷神社。
福原遷都のときに清盛が勧進してきたものを、明治の湊川大改修を避けて遷座してきた。


奥の院の方にも行ってみようと思い、参道を行く。


すると、三猿ならぬ五猿。みざるいわざるきかざるおこらざるみてござる。
頭を撫でると動く。


続いて敦盛首塚。
「敦盛」では、一の谷の合戦後に出家した熊谷直実が、再び古戦場を訪ねて敦盛の回向を重ね、夢に現れた敦盛と再開して昔話に花を咲かせ、最後はともに極楽往生できると喜びあって成仏する、という話が続く。

この近くで、なぜか「異国の丘」が流れていて、なんだったんだろうかと思ったのだけど、シベリア満蒙戦没者慰霊碑があって、そこにあるクマの像を撫でると、一絃琴の「異国の丘」が流れる仕掛けになっていたそう。


そして奥の院参道へと坂を上がっていく。
途中、墓地と駐車場を通り抜ける形になるので少々わかりづらいが。


みちみちにこういうお社がいくつも建っていて、七福神と十三仏を巡拝できるようになっている。

このあたりで雪が降り出し、見る間に結構な勢いになっていく。まあ森の中なので雪を浴びたりはしないが、寒い。
カメラも冷えまくってバッテリーが頼りなくなり、外装が冷たくて持つのが辛い。
そんなところで、ふと小柄なおばあさんが狭い山道に立っている。
おばあさんは、以前来た時に、今私とでくわしたこの場所に、すごい大蛇がいて、と両手をいっぱいに広げ、怖くて通れなかったという。
しかし蛇は神仏の使いとよくいわれるもので、その蛇にでくわしてから、おばあさんの身に次々といいことが起こるようになり、息子もいろいろ親孝行してくれるようになった、と。
そのお礼参りに今日来て、でもこんな雪で奥の院にまで来る人が誰もいなくて寂しいと思っていたら、ちょうど蛇がいたところで私にでくわした。
これはきっとあの蛇と同じように、あなたも人に幸運をもたらす力をもった人に違いない、とおばあさんはいう。

仏の使いだと思われるという珍しい体験をして、さらに山道を登る。
整備されているので別に歩きづらさはない。距離的にもさほど長くはなかった。

途中、明らかに道と外れたところに祠が見える。
どうもかつては八十八カ所巡りができるようになってたような痕跡があり、別の所でも道の脇に放棄されたような祠が見えた。震災か、あるいは別の土砂崩れか何かで、参道が変更されているのかもしれない。


奥の院近くに、波切不動明王が祀られている。


奥の院の隣の神社。
手前は龍神社、奥は世嗣大明神とある。


さらに奥の院脇から裏手に回ると、大吉稲荷大明神という社があった。
後ろに生えているのがご神木だそうで、それを祀っている。


奥の院は、あいにく改修工事中が始まったばかりだった。
古くて趣があるが、改修されるとピカピカになるんだろうか。


別方向行きの参道をおりていくと、触れ合いの布袋さんが両脇に座っている。
どこでもいいから触れると福を授かるとのこと。


参道を降りると相変わらず雪が強い。そろそろ静かな水に氷が張るくらいの寒さだった。
雪のために傘をさす、というのは大阪のような南国に住む私にはなかなかない。


須磨寺駅に戻り、電車に乗り込んで長田へ。
長田駅近くの洋食屋に入って、チキングリルなど食した。神戸はやはり洋食で。


ここから更に、和田岬に移動して大輪田の泊がらみを見て歩くのだが、すでに長くなっているので一旦分割。


KD-400Zはピーカンの日にこそ輝くカメラだ、とわかってはいるけど、また持ち出したら微妙な天気だった。まあ、たまに使わないとバッテリーが臨終するから、ちょくちょく使ってやるつもりなのだけど。


しかし美しい金属外装が、冬場に外に持ち出すと冷たいことこの上ない。
最近自宅に調達したVAIO Zも、またこれがアルミのパームレストで、寒い部屋においてると恐ろしく冷たくなる。
かといって、布とか革を貼るようなデザインのものでもない。悩ましい。