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2012年2月18日土曜日

Kobe de 清盛 2012 (2) 大輪田泊 w/ Digital Revio KD-400Z

長田で昼食の後、地下鉄に乗って和田岬方面へ。

和田岬駅で下車。

JRのほうの和田岬駅がすぐそばにある。
和田岬線は朝と夜の通勤時間帯しか電車が走らないので、鉄道乗りつぶしの障害として有名。朝と夕それぞれ、一方向へは通勤客の混雑、一方向へは乗りつぶし客の混雑があるとか。



駅からちょっといくと、三石神社というのがある。
神功皇后を祀るところで、パッと見女性に見えないほど凛々しい神功皇后像が拝殿前に立つ。


その隣には、幼き応神天皇を抱く武内宿禰像。
神功皇后像は平成5年に建立。武内宿禰像は平成18年の移転鎮座100年・鎮座1805年の記念に三菱神戸造船所から寄進があった。


境内に石がみっつ。
西暦200年に神功皇后が安産を祈った石だとか、602年に推古天皇が夷族退治のために立ち寄って戦勝を祈ったとか、そういう伝説があるそう。



すぐ北隣に、和田神社。
かつて蛭子大神が船で淡路島からやってきた場所に作られた神社(今の場所ではなく、もう少し南西の方とのこと)で、平清盛が安芸の宮島から市杵島姫を勧進した。

清盛茶屋、というのぼりが見えるが、この寒い中でテント掛けて、平安時代のまだ醤油や砂糖がないころの食べ物を再現したのを出していた。土産物に梱包したものもあったりしたが、雪が振ったりやんだりのなかでは、なかなか客が止まらない。


はにわ?
説明を見ても、埴輪とは何かという説明をしているだけで、ここに埴輪がある理由がいまいちわからない。


摂末社のお稲荷さんも覗いてみると、巳塚があった。
ここに奉納する白蛇がひとつ500円。どこかかわいいし、須磨寺で蛇なエピソードもあったことだし、ちょっと買って帰って家に置きたかったのだが、そういうことしてよいかわからなかった。


和田神社からちょい北西くらいの方へ。


兵庫工業高校の北西、醫王山薬仙寺という寺。
萱の御所、つまりは平清盛が(写真に書いてる通り)。


萱の御所跡碑は、中にちゃんとしたのがある。
もっともまあ、河川の拡張工事で元の場所が水没するからと、碑を移してきたもの。さらには、昔のものは壊れて、造り直したのがこれ。元は北東に100メートルほどのところ。


花山法皇の歌碑。
花山天皇は若くして妻をなくし、さらに藤原氏の謀略で早々と19歳で出家した。大輪田の泊の海を愛して、しばしばこの寺に逗留したという。
この碑がいつのものかわからないが、判読が難しい程度には古い。
「有馬富士 ふもとの霧は海に似て 波かと聞けば小野の松風」


後醍醐天皇が兵庫で病に伏したところ、この井戸の水を献上したところたちまち快癒したという薬水井戸。
この寺に祀られる薬師像が、この井戸から現れたともされる。


すぐ向かいに御崎八幡神社。雪ふったりやんだり。
石清水八幡宮に宇佐神宮から八幡大神を勧進してきたのと同じ頃に創建した古い神社で、関係も深く、石清水八幡宮の公文所の鍵を預かっていたりした。
神功皇后が西征からの帰りに一時皇居にしたこともあるとか。

どうもこのあたり、都市化してコンクリートばっかりの景色なのだけど、寺社はそこここに散在していて、どれも古いのはさすがは古都というとこか。

すぐ北の橋が清盛橋という名前だった。
清盛橋を渡ると、すぐそこに清盛塚があるのだが、先に道を挟んで向かい側の真光寺にいってみる。


時宗の一遍上人が全国遊行中、ここで亡くなった。


一遍上人の廟もある。
1289年、上人は「遺体は野に捨てて獣に施してやれ」と言い残してなくなったというが、さすがにそうもいかず、信者たちが荼毘に付して五輪の塔を建てた。
この五輪の塔は、南北朝時代(1300年代後半くらい)のものと見られていて、県指定重要文化財。すぐに建てられたわけではなかったか、時代の鑑定がずれているか。


真野弁財天というお堂もあり、これは平清盛が勧進してきた。
しかし戦争中の空襲で真光寺ともども焼き払われてしまい、現在はインドから再びサラスヴァティーを招来して再建したもの。


そして道向かいの清盛塚へ。


この十三重石塔が、古くから清盛塚といわれている。
かつては南西に11メートルずれたところにあって、そこに清盛が埋葬されていると思われていたが、発掘してみるとそうではないらしいということで、塔を移動した。
塔に掘られた銘文から、1286年の作とわかる。


隣は清盛像と琵琶塚。
像は神戸の彫刻家・柳原義達氏の作。
琵琶塚は、清盛塚近くにあった平経正の墓だといわれていた塚。これも道路拡幅のため移転。


兵庫住吉神社という神社がある。
清盛塚も境内ということになるのか……と思ったが由緒書きに「隣接地」とある。
明治11年に大阪の住吉大社から分社してきた、かなり新しい神社。それでもかつては参道に商店街も賑わう活気あるところだったとか。



東に行って、ちょいと北に行くと、神戸市中央卸売市場があって、その向かいの空き地に建てられた、大河ドラマの歴史館。

見るからにプレハブで、そう広いものでもない。
いくらか大輪田の泊からの発掘遺物などの展示もありつつ、パネルや模型での歴史解説が多い。

また、Kobe de 清盛 2012公式キャラクターのイケメン平清盛が活躍するアニメも上映していた。
しかしまー、なんというかー、10年くらい前にやってた大きな欠点も特徴も面白みもない記憶から速やかに消え去っていくような地味なアニメ、みたいな出来やなー……
神戸だし「いまいち萌えない清盛」とかネタに走ったりとか飛躍はできなかったものか。

物販コーナーで、沢の鶴酒造の特別純米酒「Kobe de 清盛 2012」(という名前だと思われるがいまいちはっきりしない)と、アニメイケメン清盛デザインの缶に入った風月堂のミニゴーフルを土産に購入。
日本酒は、飲みながらこれを書いてるのだが、なんか無闇矢鱈に飲みやすい感じ。やや辛口というものの、アルコールが当たるような感じもなくすいすい入る。私は純米じゃない日本酒の醸造アルコールの刺々しい感じが苦手だから、こういうのは好きな味。

外に出ると、ご当地アイドルというたらいいのか、神戸清盛隊がライブイベントをやっていた。


案内地図を見ると、まだちらほら見るところがあるようなので、ハーバーランドの方へと歩いて行く。
神戸商工会議所が設立されたところの記念碑が道端にあった。


道が国道2号線に合流するところで、七宮神社というのがある。
神功皇后が三韓征伐の帰り、七番目に立ち寄ったから七宮だという説、あるいは祭神の大己貴命・大国主神・大物主神・葦原醜男・八千矛神・大国玉神・顧国玉神をひっくるめて七宮だともいう。
また、清盛が経が島埋め立てを始めたとき、波が荒くてさっぱり工事が進まない。どうやら塩槌山を崩して埋め立ての土砂を取っていたが、そこに大己貴命が祀られていたのに気づかず、それで罰を当てられているらしい。そこで清盛が大己貴命を祀る神社を建てた、ともいう。

あいにく戦争と震災で再建を繰り返していて、あまり古風な社殿ではない。
清盛と縁が深い神社ではあるが、ちょうどハーバーランド駅と中央市場前駅の、神戸駅と兵庫駅の中間くらいで、暇で健脚な私みたいな人でないとちょっと立ち寄りづらそう。


そこからちょっと海側、東の方へいくと、竹尾稲荷神社。
境内にある灯籠の銘などから、1813年くらいの創建という。
かつて高田屋嘉兵衛という豪商にして、幕府御用船頭として蝦夷地政策に携わり、北海道の産業を起こすのに一役買い、またロシアとの外交にも活躍した偉人がいて、それがこの竹尾稲荷神社のすぐ近くに屋敷を構えていたそう。
なので、境内に顕彰碑がある。


近くには、高田屋嘉兵衛の店があったところも。



広めの道を外れて、案内板に従って住宅地に入り込んでみると、松尾稲荷神社というのがある。
清盛絡みではなく楠公由来の神社で、湊川の戦いを前にした楠木一族が護符を預けたといわれる。

建物に入ると社務所の方でベルが鳴るのが聞こえるのだが、これがなんとも変な音で、なんでこんな音にしてるんだろう。


で、奥に行くと、ビリケンさんがいてはる。
元町の洋食屋が自作して祭ったら、異常なほど客が来すぎて困り果ててこの神社に預けたものだとか。

昭和の頃にはかなり賑わったところらしいのだけど、その当時に作ったらしいささやかな休憩スペースに、「ここで寝転ぶな」とかささやかな注意書きを、大仰で古風な言葉で記した看板があったり、どうも不思議な雰囲気がある。


海沿いの川崎重工の方へいってみると、道端に混沌としたオブジェがある。
横溝正史の生誕の地であった。読んだことないけど。


ここらでようやくハーバーランドエリアへ到達。
大河ドラマのドラマ館へ入場。

ドラマのためにCGで再現した街並みやら、撮影用の衣装やら、あらすじ解説やら歴史背景、キャストのコメントなど映像で流してたり、まあ、ドラマ館といわれて想像される内容。
今年の大河は嫌いじゃないので、結構楽しくまわれた。お金かけてるのがわかる。


1/1マツケン。
ここだけ撮影してよいとわざわざ係員がいうてくるので、撮らずに流すのも悪いので。
しかしKD-400Zで室内の望遠端は無理があったな。



最後に三宮に移動して生田神社にお参りして、とりあえず清盛巡りは終わり。
生田さんは神戸きたら結構寄るので割愛。


今回使った1dayパスは、須磨寺・和田神社・生田神社の祈念品引換券と、大河歴史館・ドラマ館の入場券がついてくるので、今回のルート取りは大体素直な順路ということになろう。
海手の方ばかり回ったことになるが、平氏がらみの史跡は山手の方にもあるので、もう一度そっち見に行ってもいいかもしれない。