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2012年4月21日土曜日

片岡三陵(王子~香芝) w/ L-410

天皇陵巡りシリーズはまだ始まったばかり。
今日は、奈良の王子から香芝にかけて歩いて、孝霊・武烈・顕宗天皇陵と回ってきた。

カメラは、EPSONのL-410。
まだ20世紀の頃からデジカメをやっていたEPSONであるが、私がデジカメに関心を持ち始めた2003年頃には、すでに存在感は薄くなっていた。
ネットで検索した限り、ジャパネットたかた専売の廉価モデルだったそう。普通のコンパクト機としてはEPSON最後の製品かもしれない(普通とは言えないものならR-D1があるが)。
傷もない綺麗な個体が私の手元に転がり込んだが、高田社長は果たしてこれを世にどれだけの数、送り出したのだろうか。




王子駅から南へ歩いて行く。
近くを通る国道168号線がこのあたりの幹線道路で、今回の目的地の香芝までずっとまっすぐ南へ伸びている。



国道沿いに少し歩くと、臨済宗南禅寺派の達磨寺という寺がある。
入るなり、いかにも古木という藤が絡みつく藤棚に迎えられる。シーズンが合えば。

達磨寺は、推古天皇の時代(592~628)に発願されて建立したものとあるが、その後は荒廃しがちで、室町時代に興福寺の僧兵に放火されたり、戦国時代には戦火に巻き込まれたり。
今の堂宇も、見たところ新しい。

このお堂は、古墳の上に建っている。その古墳が古くは達磨大師の塚だといわれていた。
また、日本書紀などに、聖徳太子と達磨大師にまつわる説話があり、太子自ら彫った達磨大師像が祀られたのがこの寺の始まりという。


本堂から左手に、墓塔が3つならんでいる。
うちふたつは、王子の豪族・片岡氏の当主のもの。片岡氏については、こちら(風雲戦国史内)に情報がある。

ひとつは十七代・八郎利一のもの。
南北朝時代に大塔宮護良親王が京都から熊野に逃れようとする時、十津川村に幕府方についた軍勢の待ち伏せがあった。
片岡八郎はそれを知り、寝返りの工作に向かう。しかしうまく行かず、戻って宮に知らせようとするも追手に迫られる。
そこで仲間にことづけてから、ひとりで50人の追手を食い止めにかかり、華々しく討ち死に。情報は無事大塔宮に伝わり、危機を避けることができた。

もうひとつは戦国時代の二十五代・新助春利のもの。
筒井順慶の妹を妻にしていた人で、近くに片岡城という城があった。
ここの案内板には「松永久秀が攻めてきたとき、よく戦って片岡城を守った」とある。
まあ、実の所は何度か久秀に城を奪われたり、また取り返したりしていたようだ。松永久秀のようなややこしい奴の居城・信貴山城が近くにあったのが不幸か。

最後のが、松永久秀のものだという。
当時の火薬を平蜘蛛の釜に詰めて抱えて爆破して、遺体の損壊状態がどうなるかはわからないのだが、体はここに埋葬されたといわれる。
日本初の爆死自殺者ともっぱら言われている彼だが、普通に城に火を放って切腹して首が安土に運ばれた、と「多聞院日記」にあるそう
ただ、墓石自体に銘があったりするわけではなく、達磨寺の案内看板では「松永久秀のものといわれる。」としか書いていない。あんまりはっきりしないのだろう。


聖徳太子の飼っていた、人の言葉を理解する犬・雪丸の像もある。
今際の際に、「達磨大師の廟を守るため、廟の北東に自分を葬ってほしい」と言い残して死んだという。言葉を理解するどころか、喋っていたようだ。
今は達磨大師廟の東北ではなく南西にあるが、もとはちゃんと東北にあったそう。


本堂裏手には、でかい石碑がふたつ、なぜか屋根付き囲い付きで置いてある。
八角形のほうは1448年製で、荒廃した達磨寺が室町幕府の力添えで再興する記録が刻まれていて、重要文化財に指定されている。
隣の碑は、2000年の本堂建て替え工事のときにこの八角柱を移動させると、その下から青磁の香炉と大瓶といっしょに出てきた。こっちは1442年の銘がある。

本堂裏手の東側は、古墳がふたつ並ぶ。
本堂下にあるのとあわせて3つ、達磨寺古墳群というそう。いずれも小さな円墳。


2号墳はこんな感じで、言われなかったら盛土くらいのものに見える。


1号墳は、石室が出ている。上には石仏が祀られている。
場所からすると雪丸がいたのもここだろうか。


達磨寺を出て国道を渡り、小学校の北側の路地を通って西へ。
融通念仏宗の岩松寺というのがある。気にしないと気付かなかったが、意外と融通念仏宗の寺もあるものだなあ。
大阪の平野に総本山の大念仏寺があるそうだから、一度参拝してみよう。


すぐに、片岡神社の鳥居が見える。
「新抄格勅符抄」という古文書に、806年にここらの人が片岡神に税を納めていた(この頃は神社経由で政府に租税を収めるシステムだった)という記録がある。


拝殿は新しい感じ。


神社南側に細い路地があって、そこを上がっていくと片岡山放光寺という寺がある。
今は小学校の裏に隠れているが、元は小学校のところが寺だったそう。
聖徳太子の建立とも、大原博士の建立ともいわれる古刹だが、やはり達磨寺同様に荒廃したり焼かれたりして、今は侘びてる。
軽く坂道を上がってきて、この門が現れると、なかなかいい雰囲気。


侘びた境内で良かったのだが、どうにも狭いのと、地元のおじいちゃんおばあちゃんが集まって、散り際の桜を見ながら酒宴を開いていて、それはそれでまた風流な様子だが写真に入れるわけにも行かず、あまり境内風景は撮れず。

今は黄檗宗の寺だそうだが、できた頃からそうだったわけではなさそう。
聖徳太子や大原博士の時代には黄檗宗はない。江戸時代のはじめに中国から招聘した隠元隆琦が開いた宗派だ。

放光寺から裏手に抜ける……と思ったら門が閉まっていて出られなかったので、片岡神社まで下りてから北側の路地を上がる。
ニュータウンっぽく開かれた宅地を少し歩くと、山の上になにかあるのが見える。
孝霊天皇陵のはずだが、遙拝所が見つからない。
google mapsでは北側に建物があるから遥拝所かな、と思って登ってみたが、民家だった。
結局、南西側にあった。


おなじみの宮内庁の看板。森の中を上がっていく参道。


孝霊天皇片丘馬坂陵。
七代孝霊天皇は、そもそも実在しないといわれる欠史八代の天皇だが、特徴といえば、桃太郎の父親であることだろうか。
桃太郎の元になった伝説は、吉備津彦命が家臣を連れて鬼ノ城を攻める温羅伝説というのだが、吉備津彦命は孝霊天皇の子とされている。


天皇陵近くで自然遊歩道の道標を見かけ、私の歩くつもりだったコースと同じようなところを指しているので、沿って歩いて行く。


親殿神社。
式外村社、祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神。
このあたりの氏神様という風情。

ここからしばらくは、特にこれというものはないので、南に淡々と下りていく。


JR畠田駅に寄って、線路沿いを歩くとちょうど電車が来た。道との間に柵もなく、待ち構えてパチリ。
和歌山線というと(失礼ながら)105系とか走ってるイメージだったが、221系であった。

畠田駅南側の踏切を渡り、そのまま東へまっすぐ。
国道に沿って南北に走っている(国道が川沿いに走っているのだが)葛下川を渡る。


さらに、そのまま「車は通れません」と看板がある道を登っていく。


マムシ注意、チカン注意の看板がいくつもある、夜にはかなり寂しそうな道を登って行くと、峠に片岡城跡の看板。
まるで知らずに来たのだが、達磨寺に眠る片岡春利の居城だ。


そこから、稜線沿いに南に行くと、森の中に神社がある。
式内社の伊邪那岐神社。
創建年代不詳、もとは違う場所にあって五社神社というてたそうだが、疫病が流行ったことから山上に避難してここに来たそうだが、移転したのもいつかわからないそう。
春日・八幡も祀られているが、片岡氏が片岡城を建てたときに守護神として勧進してきたよう。

このあたりの神社は、どれも地元の氏子さんがこまめに改築したりするようで、拝殿の造りが似ている。どれも新しく、瓦葺で古典的な神社建築という感じの造りでもない。
この神社は立地が浮世離れしていていい。

国道に戻ってまた南下。
王子ニュータウン入り口交差点から、また西側に。


行くとすぐ、左手に空き地があるのだが、これが尼寺廃寺跡だった。
飛鳥時代後半の寺で、見えている左側の盛り上がりが金堂、右奥の盛り上がりは塔の跡。
金の耳環とか水晶やガラスの玉なども発掘された。


そして寺の裏手には白山姫神社。創建は862年。
境内の燈籠に、白山権現御神前、などと彫られていて、加賀の白山信仰ともつながりがあったのだろうとも。


ここは絵馬蔵があって、たくさん飾られている。
ここまでに立ち寄った神社でも、どこも拝殿に絵馬が沢山掛かっていた。
もの自体は新しく、今でもずっと続けて奉納されているようだ。しかしモノは、何処の神社でもある五角形のやつではなく、文字通りの絵馬。
何かこの形の絵馬にこだわる理由があるのか、そのあたりは行っただけではわからなかったが……



もう少し南にいくと、尼寺厨神社というのがあった。
なんかえらく豪勢な形式の鳥居。そして拝殿はここらでよくみる瓦葺き。


摂社の天満宮も何やら立派。そしてここにも絵馬が。



南にまた歩いて行くと、古墳群の案内板にでくわした。
そのすぐ横には石室の開口。

7世紀中盤~後期の古墳が6つほど分布していて、3つ現存する。
古墳時代としては末期で、どんどん古墳が小さくなっていく時代ではあるが、石室がかなり立派につくられているそう。



さらに南西の方にいくと、杵築神社。
由緒書きもなにもない。出雲大社がもともと杵築大社という名前だったのだが、ここも出雲系の神社であろうか。


西名阪自動車道を南に越える。
越えてちょっと行けば、武烈天皇陵のはずの山が見えてくる。
しかしなかなか遥拝所が見つからない。北西側からアプローチして反時計回りに回って、結局北東側にあった。


その前に、志都美神社に着く。
式内社で、江戸時代くらいには近くの5つの村の氏神様であった。もともと片岡氏の鎮守神として創建されたそう。
明治12年にコレラが流行し、西日本で万単位の死者を出すようなひどいことになっていたのだが、このあたりでは志都美神社に疫病避けを祈願したら、なんとひとりの死者も出ずに流行をやりすごせた。


枝垂れ桜がきれい。
また、社叢が県指定の天然記念物でもあり、ちょっと変わった竹を植えたりもしていた。
ホウライチクといって、地下茎を発達させるでもなく、また水に沈むという。


神社東側の道を北上し、やっと武烈天皇傍丘磐坏丘北陵の遥拝所へ。

武烈天皇は、日本書紀では何やら悪政を敷いた天皇と書かれているが、古事記ではそんなこともない。
武烈天皇には子がなく、次の継体天皇はかなり血縁が離れている。
武烈天皇の父が仁賢天皇、その祖父が履中天皇、その父が仁徳天皇でその父が応神天皇、までさかのぼり、応神天皇から仁徳天皇の兄弟を経て4代下ると継体天皇に至る。
そういう経緯があり、継体天皇が正当な天皇だとするため、政治的に武烈天皇が悪く書かれたのではないかというような説とか、もう継体天皇は万世一系ではない別の一族だ、というような説もある。

国道に戻ってまっすぐ南下。
しかしこの国道168号は、歩行者には危ない。
道路脇には歩道がなく、路側帯には電柱があり、歩行者と車が譲りあう有様。原付がすり抜けてきたりもするし、自転車もくる。
そもそも交通量に対して、片側一車線ずつしかなくてずっと渋滞し続けている。
道幅の余裕もまったくなく、交差点で右折レーンも確保できなくて、右折車があるたびに後続が詰まる。
まあ、拡幅しようにも色々事情もあるのだろうけれど。


そして顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵。
顕宗天皇は履中天皇の孫でありながら、父の市辺押磐皇子が従兄弟の雄略天皇との継承権争いのうちに殺されてしまう。
後の仁賢天皇・顕宗天皇兄弟は安全のために逃亡し、身分を隠して牛馬を飼って暮らしていた。
そして雄略天皇の世から子の清寧天皇の時代になったが、清寧天皇には世継ぎがなかった。そこに、身を隠していた皇族兄弟が発見され、返り咲くように立太子されることになった。

この陵は、国道沿いにつつましく在る。
平民と同じように牛と暮らしていた経験から、民衆思いの善政を敷いたともいうので、ささやかなのも似合いかもしれない。もともと大きかったのが開発で削られてこうなったのかもしれないが。
まあ、仁徳天皇の陵は巨大だけど、あれは大きな古墳を造るという大公共事業をもって民に仕事を与えたんだともいうので、ものは言い様ではある。

さらに南に行って、近鉄大阪線の線路を超えたところに、ふたかみ文化センターがある。
ここには二上山博物館がある。

博物館の前に、館内にカフェがあったので立ち寄って休憩。
今回、ひたすら神社や陵墓ばかり巡っていて、休憩を取るようなとこに立ち寄らなかったので、アップダウンも結構あるところを13キロほど一気に歩いてしまった。あまり好ましくはない。

博物館では、太古の昔に火山だった二上山周辺で産出する石材について扱っている。
打製石器の原料たるサヌカイトが有名で、石器の製法や実際に作ってみる例、二上山の石器が広範に広まっていくことなどが解説される。
ほかに古墳の石棺・石室によく使われる凝灰岩、研磨剤やサンドペーパーに使われる金剛砂についての展示がある。

サヌカイトの破片を販売していて、一袋300円というのでつい買いそうになったが、ちょっと期待より破片が細かすぎるのでパスした。
田畑に捨てると遺跡の捏造になりかねないから捨てないように、と注意書きがあった。




今日はよく歩いたが、最後に近鉄下田駅近くの鹿島神社に寄って最後。
1172年、源頼朝の家臣・鎌田小次郎政光が鹿島本宮から分霊してきたのが始まり。
古文書がよく残っていて、重要な資料になっているそう。


近鉄下田駅から帰路へ。



今日のEPSON L-410は、見た感じはどうにも安っぽい。特に外装がなんとも、ウレタンクリアーを分厚く吹きつけたような処理。
まあ、ジャパネットでパソコンやプリンタに抱き合わせられてたんであろう機種だから、高級品であろうはずはないけれども。

しかし、レンズ周りは金属製で結構しっかりしているし、モードダイヤルもかちっとしている。ボタンまでは並みだけども。
京セラのOEMと聞くけれど、Finecam L4あたりの兄弟機かもしれない……と思ったが、CCDのサイズがFinecamが1/2.7型、L-410が1/2.5型。レンズのスペックもやや違うし、ボディの大きさもOEM機のL-410のほうが小さくなりすぎてる気がする。
まあ、必ずしもOEM元にほぼ同じ仕様のものがある、と限ったことじゃないけれど。
京セラのデジカメを使ったことがあれば、共通点を感じるところもあるかもしれないのだが、あいにく私は京セラには縁遠い。


画質は、解像度、というだけで見ると、あんまりよくない。
特に望遠側ではどうにも甘い絵になるし、広角側でも絞ればマシだけど、ちょっと暗いところで開放になると眠たい。
また、望遠側ではちょっとAFが怪しい感じ。一旦ピントを端から端までざーっと動かして、合ってるところまで戻す、というような動作をして、しかも時々外す。広角側では普通に寄せていく感じなのだけど。
まあ単に私の個体が劣化してるだけかもしれないが。

しかしながら、このちょっと淡くて透明感のある色の出方はいい。
EPSONのLシリーズは、プリンタ直結ダイレクトプリントを売りにしていて、プリンタとセットで売られることが多かったとの話。
EPSONはイメージスキャナにも強いわけだし、色の出し方には一家言あるのかもしれない。
L版プリントを最終目的にするなら、画面で等倍で見た時の画質より、全体的な発色のほうがよほど大事だ。


プログラムオートのみで、シーンモードは風景とポートレートがある。
ポートレートができるだけ開放、風景ができるだけ絞り込むプログラムライン、かと期待したけど、出来れば開放で撮りたいと思ってポートレートにしてみても、期待した変化はしてくれなかった。
まあ、たまたまかもしれないし、シャッタースピード上限を超える明るさだったかもしれない。

そういう確認ができたということは、フルオートなカメラなのに、半押しすると絞りとシャッター速度が出るということ。もちろん私には嬉しい仕様。


AFは1点、測光モードは中央重点平均測光で固定。
ホワイトバランスは変えられる。
ISO感度も意外にも100~400まで手動設定できる。オートもあるが、広角端とはいえ1/20秒でも増感しなかったから、あんまり積極的にブレを止めにいく方ではないか。

マクロ弱いのがちょっと前時代的で、普段は50cmまでしか寄れず、普通に寄ったつもりが合焦不能とかいわれる。
マクロは、今度はワイドマクロ固定で、しかも11cmまでしか寄れない。


操作性はー、別にシャッターとズーム以外操作しないから問題ないが、前述通り、モードダイヤルはしっかりしていて勝手に回ったりしない。すばらしい。
ボタンは並みのもの。良くはないが、不都合あるほどでもない。

ただ、起動がちょっと遅い。同じ頃には爆速起動競争みたいなこともあって、というか私が買ったKD-400Zもそうだったのだが、2秒以下というものが出ていた。
L-410は、4秒位かかる。スイッチ入れてちょっと沈黙、それなりの速さでレンズが伸びて、またちょっと沈黙。ちょっと沈黙、がなければ普通の速さなんだけど。

VGAで音声付きの動画が撮れるのはちょっと高得点。


電池は単3電池2本だが、RCR-V3を突っ込んだので、単三での寿命はわからない。
RCR-V3なら全く減る気配なく6時間、120カット撮影できた。まだまだいけそう。

メモリはSDカード、2GBで問題なし。
16MBだけながら、内蔵メモリもある。そこにフレーム画像なんかいれておくと、カメラ内で合成したりもできるようだ。


まあ、欠点はマクロ弱いことくらい、今使っても、厚み・画素数・手ぶれ補正くらいしか古いところもないような、2004年当時の普通。
長所は発色。天候と季節がマッチしてたかもしれないが、また使ってみる気にさせる。