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2013年8月31日土曜日

堺市街 (Xacti DSC-J4)

やっと地獄のような熱さが多少は和らいだ。
今週頭くらいの涼しさがそのまま週末まで続いてくれればよかったのだけど、しかしまあ8月中頃ほどひどい暑さではなかったので、久しぶりに徘徊に。
いや、今までも徘徊はしていたのだけど、暑すぎるから梅田・難波の地下街がほとんどだったり、美術館・博物館めぐりになったりで、写真撮るようなこともなく。




先日、地下鉄に乗っていたら、大阪くらしの今昔館でミュシャ展をやってる、とポスターを発見。
その時は急遽予定を変えて天神橋筋六丁目まで行って観てきた。

私はまあ、体重85キロの大男なもんで、似合わないとは思うのだけど、これでミュシャ好き。
ミュシャは結構理系にも面白く感じられる作風じゃないかなあ。背景の幾何学的なパターンに、ちょっと漫画風に輪郭線をはっきりさせた、でもポーズの面白い女性の姿が重なる、まったくわかりやすく面白い。
印象派とか現代美術が全然わからない私でも、ミュシャの広告ポスター画だったら楽しめる。なにせ元々我々一般の人々向けのもんだ。

大阪にいると、ミュシャは見たいときにすぐ見れる。
カメラのドイの創業者・土井君雄氏がミュシャのコレクターで、死後それが堺市に寄贈されていて、JR阪和線堺市駅すぐに「堺市立文化館 アルフォンス・ミュシャ館」が作られている。
今昔館のミュシャ展も、この堺市立文化館からの出張展示だった。



そういうわけで、堺市立文化館へ。別に初めてでもないけれど。
今は「ミュシャの横顔」という展示で、有名なポスター・出版挿絵ばかりではなくて、商業とは離れたところの油絵・水彩画などに着目した展示。

与謝野晶子文芸館もあるのだけど、こっちは今は晶子の歌に現れる物などから当時の暮らしを振り返る……というような展示。
あいにく私あんまり短歌などの方には素養がないので、ちょっとおもしろさがわからないのだけど。


ミュシャを満喫してぶらぶら外へ。
JR堺市駅まわりは、まあ生活するならともかく観光するほどのところはあんまりないかな。

駅西側は大阪刑務所がどーんとある。
で、府道12号線沿いに、刑務作業で作られた物品を販売する店がある。
なかなか面白いところなんだけど、今日は開いてなかった。土曜休みかな。
前に来たときは、網走刑務所で作られた監獄グッズなんてものから、文具や玩具などの小物から家具のような大物まで色々ある。



通りすがりの自転車屋で、ホイールを加工して作った風車を回していた。
ちょっと手持ちのカメラではシャッタースピード触ったりできなくて、動きのない写真になったからわかりにくいけど、これが見事に軽快に回っていた。



どんどん西に歩いて、南海高野線の線路近くまでくると、方違神社という古い神社がある。

崇神天皇の頃に創建されたといわれていて、摂河泉三国の境目にあたることから、方角のない特別な地点だとされて崇敬されてきたところ。
行基が旅人のための休憩所を作ったとか、空海が唐に渡るにあたって安全を祈願したとか、平清盛が福原遷都の成功を祈願したとか、家康が大阪夏の陣の勝利を祈願したとか、大物の参拝歴も多い。

ここのすぐ南側が反正天皇陵になる。


近くの児童公園の遊具が、なんともいえない謎の形状。何をモチーフにしてこうなったんだろう。
ちょっと離れた別のところでも、仰向けになったパンダの形(子供がまたがるとパンダをテイクダウンしてマウントポジションを取ったみたいになる)とか、微妙に微妙なのがあった。堺センスだろうか。


南海高野線の線路をトンネルから抜けて、堺東駅前商店街のほうへ。
私が高校生の頃は、このへんにアニメイトがあってたまに来たことがある。



大衆演劇場を発見。こんなとこにもあったのか。
一度大衆演劇も見てみたいんだけどな。


このまま高野線で難波まで出て買い物でもしようか、と思ったけど、特に買いたいものも思い当たらなかったので、さらに西へ。


商店街のアーケードを抜けて、阪神高速の下をくぐって西へ出れば、かつての堺の町のエリアに入る。
堺はもともと環濠都市なので堀があったのだが、ちょうど堀だったところを阪神高速と国道26号が通っている。
写真は阪神高速東側の、かつて尋常小学校があったところが公園化されているところ。ここから歩道橋がつながっていて西に渡れる。

渡るとすぐ、「てくてくロード」という、堺の見所を押さえて散策できるルートの案内が見つかる。
てくてくロードも半分くらいは歩いたことがあるけれど、このあたりはまだなので、案内にそって北に向かう。


妙満寺。1512年開創の日蓮宗のお寺。
創建当時は別の名前で、日蓮宗京都総本山・妙満寺の末寺だったんだけど、1536年に比叡山の僧兵が法華寺を焼き討ちしたことがあったそうで、こちらに避難してきてこちらが妙満寺になった。


興覚寺。1307年開創の日蓮宗のお寺。
筒井順慶にゆかりがある、中百舌鳥の筒井家の菩提所だそう。
茶人の里見東白が檀家にいたこともあって、鶏鳴庵という茶室を造営したとも。


櫛笥寺。1492年開創の日蓮宗のお寺。


この後、阪神高速西側に細長く続く土居川公園を北の方へ歩いていく。


名前の通り、かつて堀だった阪神高速下に向けて、堤防のように盛り土がある。
当時のもんなのか、公園として整備したのかはちょっとわからんけれども。



公園に極楽橋という橋が残されている。場所を移動したかどうかは定かで無い。
嘉永六年とあったので、1853年にできたようだ。

道標に沿って、また西に方向転換。


宝珠院、というお寺の案内板があるが、どうも宝珠院が幼稚園をやってるようで、門は閉まってるし、見た感じお寺には見えないし、カメラを向けるにもはばかられる。
ここまで日蓮宗の寺だらけだったが、ここは真言宗の寺。
堺事件で切腹した土佐十一烈士の墓はここにある。


その向かいに、この辺りでは特に大きい、日蓮宗の本山・妙国寺がある。
ここは拝観料400円で、ボランティアの方に案内していただいた。

1562年に三好義賢(実休)と日蓮宗の僧・日珖によって建てられた。
三好義賢の屋敷だったところ、義賢が戦死して、師事していた日珖に寄付された。それが寺に改装された形。

日蓮宗の本山は57あって、他の寺はその末寺という形になってる。
やはり元々関東生まれの日蓮宗は関西には少なくて、さすがに京都にはある程度あるけど、大阪にはここだけ。中国以西にはもっと少なくて、九州は佐賀だけとか。


中には、樹齢1300年といわれるソテツの大木がある。
信長が安土城建てた時に、そのソテツを奪い取って移植した。
しかしソテツが「堺に帰りたぁーい」と夜な夜な泣き喚き、さすが信長公、「そんな気色悪い木は叩き斬れ」という。
そう言われて斬りつけてみたら恐ろしくも鮮血が迸り、さすがの信長公もびびって堺にソテツを送り返した。

最近まで庭園がひたすらソテツだらけだったところ、かつて小堀遠州が造成したときの庭園の姿を示す資料が見つかったとかで、ソテツ減らしてその形に整備しなおしたそう。
海から駿河国を眺める姿になるように、富士山やら富士川やらを作ってあった。小堀遠州も媚び媚びやな……。

そしてそれを眺める廊下も、先代住職が観光客の立ち入りを受け付けずに放置していたところ、今の住職が観光客の受け入れを始めて綺麗にしたもの。
整備しなおしてすぐ、さらに豪華に再整備が行われ、何かと思えば、日蓮宗の本山のトップが集まる会合がここで行われることになったから……とか。


それから、堺事件の遺物もある。
遺髪、使われたという担当、烈士の肖像画などがあった。

堺事件についても、Wikipediaに書いてる通説とはまた違った見解の話を聞けたりして興味深かった。
土佐藩は上士・下士の差別が強烈だったのが有名だけれど、堺事件の土佐藩六番・八番隊も隊長以外は下士ばかり。
で、事件の責任で二十名が「切腹」するとなったら、切腹が許されるということは上士並みの扱いを受けて子孫も取り立てられる、という話になり、切腹希望者が多すぎてくじ引きになった、とのこと。

烈士の墓が向かいの宝珠院にあるのは、勅願寺だったこともあるほどの格式が高いこの妙国寺に、罪人として切腹した者は葬れないとなったせい。
報われない話だけれど、民衆には烈士は人気があって大勢が訪れたそうで。


他に、安土宗論にまつわる話も。
日珖も日蓮宗代表のひとりとして参加していたけど、あえなく敗退。まあ、私もそこまでは知っている。
しかし負けた日珖は深く反省して、これまであまり整備されていなかった日蓮宗の教義をきっちりと作りなおす作業を行い、それによって日蓮宗の衰退を抑えた、という話。
日珖の寺である妙国寺の解釈ではあろうけれど、安土宗論のその後の話はあんまり聞いたことないから、興味深い。


40分くらい時間を見ておかないといけないし、他の客が案内されているとタイミングによっては待ちになるけれど、面白い話がたっぷり聞ける。
もちろん、日蓮宗徒でなくても大丈夫。


ここの日蓮聖人像は、あの有名な肖像画にそっくりな造形。


妙国寺の西側斜向かいの本受寺。これまた日蓮宗、1461年創建。
西ルイス宗真というキリシタン武士の菩提所で、キリシタン灯籠があるそう。
やたらと日蓮宗寺院が多いのは、妙国寺のせいだろうか。
ただ、一度日蓮宗信徒の町奉行が堺の町割りをやり直したことがあるって話で、それで意図的に日蓮宗の寺を固めたりしたのかもしれない。


この後、成就寺(日蓮宗・1406年開創)。
ここは門構えがあんまり見栄えしなくて写真はパス。
ここも京都の本圀寺の末寺だったけど、乱を避けた化主が避難してきたことがあるそう。



善長寺。浄土宗、1549年創建。
三好政勝が父の菩提所として開いた。

それにしても寺だらけだ。
しかも小さな寺が多くて、管理の都合か門を開けていないところが多く、どうしても門前の写真をとっておしまいになっちゃう。
歩いてる分には楽しいんだけども。


その隣に真宗寺。写真パス。
延元年中(1536~39)の創建。一向一揆の頃には、ここの顕珍が泉州地方の代表格だったそう。



でもって、ひときわ立派な門構え、本願寺堺別院。
蓮如が1476年に開いた。

元々違う場所にあったらしく、ここにきたのは1728年。
現在の本堂は1825年に再建されたもの。堺で最大の木造建築。
明治4年から14年までは、堺県庁としても使われていた。



不思議なつくりの覚応寺。
覚応という、伊予の河野氏の一族だった僧が、日向で開いた寺がここに移ってきたそう。
看板がかすれていてよく読めないが、与謝野晶子にゆかりがあるよう。


隣の十輪院は、道が狭くて写真撮れず。
真言宗のお寺で、珍しい板状塔婆があるそう。


月蔵寺。日蓮宗で1495年開創。

先にちらっと出た、町割りをやり直した町奉行が風間六右衛門といい、ここの信徒だった。
大野治胤の墓もここにある。


浄得寺。
聖武天皇の勅願で行基が740年に開いた、というので、ここまで回った寺よりひときわ古い。

このあたりは七道という地名で、南海本線にも七道駅がある。
その地名の由来として、この浄得寺が七堂の大伽藍を持っていたことからだ、といわれている。
今となってはそれほど大きくもないけれど。


それから、浄因寺という寺の案内板があった。
しかし寺だか家だかわからないような構えで、ちょっと写真は遠慮。
1578年に開創。紀州雑賀の郷士・名和修理亮が開いた。
藤堂高虎の庶子がこの寺の住職になったり、曾我廼家五郎の生母の実家がここで、五郎も住んでいたことがあるとか。


ここから、七道駅に歩いて終了。
ちょっと今日は次々寺の前を通った形で、写真だらけになってしまった。