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2013年4月14日日曜日

伊賀上野 (K-01 / DA21mmF3.2Ltd.)

この週末は月曜まで休みとなったので、たまにはちょっと遠くまで行こうかと思ったら土曜日早々に地震。
で、土曜から日曜に予定をずらして、伊賀上野に出かけることにした。

カメラはちゃんとK-01を持って。

関西本線をずっと快速で、辿りつけたのは加茂まで。
ここから亀山方面に乗り換えねばならんのだが……ここで50分待ちと足止めを食らった。

一旦途中下車して近くを一周りしてみようと思ったが、しかしあまり駅近くで見るところがある街では無さそうだった。
一日加茂で過ごすつもりなら、歩きまわるところはどこなりありそうなんだけど……


結局50分だらっと待って、やってきた各駅停車に乗り込む。
キハ120という型だそう。乗ったことなくはないはずだけど、そうしょっちゅうは乗らないな。
関西本線のこの区間と、越美北線で乗ったことあるはず。

とことこ揺られて、伊賀上野駅へ。
ここから、伊賀鉄道に乗り換え。

全長16.6kmとそう長くもないのだが、伊賀上野駅⇔上野市駅間と、上野市駅⇔伊賀神戸駅間で分かれて運行しているようで、直通しない。
今回はもちろん上野市駅が目的地なので、何ら不都合なし。


(柱に惑わされて水平外しまくり)
上は松本零士デザインのニンジャ列車。

かつて東急で走っていたのを譲り受けてここに来た車両だそうだけど、車幅がちょっと広いから、駅のホームを削って合わせたとか。
最近全部これに入れ替わったばかりらしく、中は結構きれい。クロスシートがあるくらい。


下りて観光マップを貰ってみれば、あれこれ見るところがある。


とりあえず駅に近い、だんじり会館というところに。


忍んでないなこいつ。

中はもちろんだんじりの展示。
けんか祭りするようなところではないので、わりと繊細な装飾がされてある感じだった。
それから300インチの大型スクリーンが自慢で、そこで上野の祭りの紹介映像が流れる。
(しかし大型というても遠いから、すごい迫力というようなもんではなかったような……)

街にやたらとニンジャ装束の子供(たまに子供でない人も)がいると思ったら、街をあげてそういうイベントを開催中だった。
その衣装を借りだして着替えていく拠点にもなっていたよう。

土産物屋が併設されていたので、伊賀名物の堅焼を購入してみた。
元はといえばニンジャの携行食だったそうで、叩き割って細かくし、口に含んで唾液でふやかして食べるようなシロモノだったとか。
もっとも、今は土産物化して、そこまでガチガチに固くはしないよう。


それから、ダジャレ一本。
生姜味はほどほど。



だんじり会館の斜向かい、上野歴史民俗資料館へ。
1階に昭和30年台の民家を再現したエリア。
2階では古民具と、近隣の遺跡から発掘されたものの展示。

しかしまあその、なんだ、昭和の暮らしの再現とか古民具の展示というのは、特にネタのない民俗博物館でよくやる手で、特にここで見なければというものかというと難しい感。
上野市自体にこれといったものがないというより、これといったものは他の数々の展示施設にみんな持っていかれてる感じかな。


私にとってはお楽しみ、伊賀信楽古陶館。



1階は今作られている窯元の作品が展示販売されている。
やっぱり伊賀焼というとこのビードロ釉かな、と思って、小皿一枚とスプーンを買ってみた。
ヒビ、気泡、光沢、色の濃淡、面白い。

信楽焼と伊賀焼は、場所が近くて土質も似ているということで、かつてはよく似た作風だったそう。
しかし桃山時代から茶の湯ブームにあやかって、筒井順慶の養子・定次時代から茶器を始めた。
この頃は、ビードロ釉をかけるんじゃなくて、自然に灰や煙からガラス質が流れて色みを生んでいたそう。
川端康成がいうには、この頃の古伊賀が日本一位が高い花生けだ、との話。水に濡らすとなお艶っぽいと。

2階には古伊賀の展示。
壺とか花入れとかの大物が多い。


次は城の方へ。
途中で古道具や陶器の市が開かれていた。
蚤の市みたいな露店もあれば、なんか値打ちありげな古陶器を並べる露店もあり、なんだか不思議な雰囲気。


おくのほそ道の特別展で、数々の古い絵図や本が展示されてあった。
あいにく俳句はほとんど知識がないから気の利いた見方はできないが、黙読してみれば面白いような気はする。でも味がわかるようになるまでは、たくさん触れてみないとどうにもならんか。
建物自体も、そろそろ風情が出始めの古さ。築50年ちょっと。趣味がいいんだろう。



そろそろ腹も減ったので、蕎麦屋があったので入ってざるそば大盛り。
別にそばが伊賀名物ってわけでもなく、別に良いそばって感じでもなく、しかしニンジャや芭蕉を見ながらハンバーガーやパスタ食うってもんでもなし、こういうのでいいのだ。


古民家を改造して、ニンジャ屋敷によくある仕掛けを作ってある。壁が回る隠し扉とか、床跳ねあげて隠してる武器を出してくるやつとか。
子供向けのもんかなー、と思いきや、再現した仕掛けを実際に使ってみせるコンパニオンのお姉さん、えらく鋭い身のこなしでやるもんで、回転扉を使えば文字通り一瞬にして姿を消す。ちょっと驚くレベル。

そのまま地下に下りると、ニンジャ道具の展示施設になっている。
入って最初の展示道具が五寸釘。石垣登ったりするときに使ったりとか便利なもんだそうだけど、手裏剣でもまきびしでも苦無でもなく五寸釘から入るのが渋いね。
子供の頃、「刃の数が多い八方手裏剣はどこでも刺さるから使いやすいが、浅くしか入らず威力がない。棒手裏剣は投げるのが難しいが、深々と突き刺さって強力」とか聞いたことがあり、そりゃそうだろうからずっと疑ってなかったが、ここでは「普通毒を塗って使う」という身も蓋もない説明が。
まあ別に威力云々の話も間違いではないみたいで、八方手裏剣なんか服の上からは刃が通りにくい気もする。
あと水蜘蛛は水上じゃなくて湿地の上を歩くためのものだそう。水の上は絶対無理だと思ってたから、あの道具自体がフィクションだと思ってたら、そうではなかった。

さらに裏手に、蔵を改造したような建物に、ニンジャの生活や歴史を解説する施設。




俳聖殿。
なんともすごい形だが、芭蕉生誕200年記念に、1942年に建てられたもの。
上層の丸く波打った屋根が笠、その下が顔、下層の屋根が蓑と服、堂が足、回廊の柱は杖を表しているそう。
こんな特異な日本建築はなかなかないせいか、そう古くもないけど国指定重要文化財になっている。




そしてようやく上野城の天守。

現存天守ではない。
1608年にやってきた藤堂高虎が、元々筒井氏の城としてあった上野城を拡張したのが1611年。
ところが1612年に台風がきて五層の天守閣が倒壊。
すぐ大阪の陣があって徳川の治世が始まると、再建されずにそのまま。

今の天守は、地元の名士・川崎克氏が1935年に建てたもの。
当初は「伊賀文化産業城」と称して、地元の産業製品を展示する施設だったそう。
今は、甲冑・武具の類や伊賀焼の作品、藤堂家の調度品などが並ぶ。



小堀遠州の遠州七窯に列せられていた頃の品。
彼の趣味だけあって端整。


藤堂高虎が秀吉にもらった唐冠形兜。すんげえ広さ。


現存する最も高い、30メートルもある高石垣が本丸を囲む。確かにちょっと見たことがない高さ。
藤堂高虎が来た時に作ったもの。


城から下りて、国道25号に。
ここから西へ歩いて行く。


程なく、旧崇廣堂。津藩の藩校で、1821年に藩主・藤堂高兌が開いた。
藤堂高兌はまれに見る名君だったそうで、藩政改革・財政再建・綱紀粛正・産業育成・領民保護・教育の実施と様々な政策を成功させて、領民からもたいそう愛されていたそう。


庭が絵になるなあ。

もともとは今の2倍ほどの規模だったらしいが、地震でつぶれたりとかもあって、現在は半分ほど残っているだけ。西側、今中学校の敷地のあたりまであったようだ。
今の建物は、あらかた創建当時のもの。台所が復元、あとは寮になっていた離れが明治時代の新築。

明治から昭和58年までは図書館にしていたそう。
1983年だったらほんの30年足らず前でしかないけど、こんな和風の建物が図書館になってたってのはどういうもんだったんだろう。


さらに西に歩いて行くと、大和街道の鍵屋の辻にくる。


そこには伊賀越資料館というのがある。
鍵屋辻の決闘資料館という調子の施設。

備前岡山藩士河合又五郎が、(衆道の揉め事で)同僚の渡辺源太夫をSATSUGAIした。
源太夫の兄・数馬は、姉婿の荒木又右衛門に助太刀を頼んで、4年後に仇の河合又五郎を発見、ここ鍵屋の辻の茶屋で待ちぶせて敵討ちを成し遂げた。
江戸時代の初期だから400年近くも前のことなのに、荒木又右衛門の自筆の起請文やら、使っていた武具やら、随分色々出てくる。

そういえば、ちょっと前に荒山徹というすごい作家の噂を聞いて、「竹島御免状」という作品を読んでみたら、荒木又右衛門が思いもよらぬ形で登場していた。すごい作品だったな……


大和街道に沿って東に戻る。
そのまま行けば、伊賀上野駅南側の市街地に出る。


うっ……なんだこれ……
中を覗くと、なんか昭和レトロを売りにした店をやっているよう。
停まっているのは、ちょっと角度的にわかりにくいが、「中二病でも恋がしたい!」の痛車。

今ネットで調べたら、どうやら昭和ハウスという昭和ショップのよう。
こういうのもあるのかー。


大和街道沿いに街を行くと、なかなか趣ある町並み。


よもぎ餅と伊賀牛串焼きを売る屋台を地元のお父さん方が開いていた。
こんな美味いもんは他所には絶対ない、とまで威勢よく売り込む声にキャッチされて、つい購入。
どちらもやわらかくて美味し。

途中の商店街で、古いカメラを多数展示している店があったんだけど、あいにくショーウィンドウが半分見えるくらいにだけしかシャッター開けておらず、「店は休みだけどカメラは見せてる」って感じだった。


大和街道は、途中で菅原神社にぶつかる。
上野天神宮ともいわれ、この地の鎮守であり、また松尾芭蕉が俳人として立身すると決意して、処女作「貝おほい」を奉納した神社でもある。



菅原神社のちょい東で、大和街道は北に向きを変える。
そのまま東に行くのは、ここが起点の伊賀街道。


途中で酒屋を見つけ、地元の酒蔵・森喜酒造場の「忍の里の隠し酒 伊賀 五右衛門」を一本。
石川五右衛門は、百地三太夫について伊賀流忍術を身につけたというような伝説もある。

しかし伊賀街道からはすぐ外れ、農人町というあたりで北へ折れる。
するとそこには、愛染院というお寺がある。
松尾芭蕉の生家・松尾氏の菩提寺とのこと。


中には、芭蕉翁故郷塚というのがある。
芭蕉は大坂で亡くなって、遺言によって琵琶湖沿いの膳所というところにある義仲寺に葬られているのだが、伊賀の門人が遺髪を持ち帰って祀ったのがこれ。



国道25号まで北上し、西に戻って大和街道が交差するところに、芭蕉の生家がある。

入ってみると結構こぢんまりしたもので、まあそりゃ町家なんだから仕方ないが、芭蕉ファンなら「ここが芭蕉翁の生まれたところかー」という感動はあるのだろうけれど。


細長い作りの通り土間を裏まで抜けると、裏庭に釣月軒という草庵がある。
芭蕉はここで「貝おほい」を執筆したそう。
しかしちょっときれいすぎる気がせんでもないが、再建なんだろうか?


これで上野市駅に戻れば、一回り。
伊賀上野の町は、駅の近くに見どころがいっぱいあるので観光しやすい。
歴史や文化財もいろいろあるし、焼き物もありニンジャもあり芭蕉もあり、街道沿いの町並みもあり、それでいて時間は一日でまあ足りる。

帰りは伊賀神戸方面に乗って、そのまま近鉄で帰阪。
基本的には近鉄で来る方が便利そう。JR関西本線の本数の少なさが辛い。