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2013年11月16日土曜日

大和郡山 (CASIO EX-P600)

近畿圏で行ったことのない街も減ってきたけれど、そう遠くないところで、大和郡山がまだだった。

カメラもちょうど、カシオExilim Proシリーズ初号機のEX-P600が手に入った。
超薄型小型モデルでヒットを飛ばしていたカシオExilimシリーズに、大型レンズを合体させた、なんとも異様な見た目の代物。
ぶっちゃけあんまり売れたとは思えず、私は新品が店頭に並んでいたのを最後に、使っている人も中古で売られているのも見たことがなかった。縁がなかっただけかもしれないけど。





JRで郡山駅へ。
近鉄のほうが街の中心に近いところにくるのだけど、そのかわり近鉄は乗り換えが多くなる。
今回は散歩目的なのでJRで。

駅で観光マップをもらって、まず駅からなんとなく北へ行っちゃおうかな。


駅前の公団住宅前に門がある。
大和郡山城の外堀を公園として改修したもので、ここが東北端。あとで南西端側にいく。


もうちょっと北で、良玄禅寺。
大和郡山藩の初代で、本多忠勝の孫にあたる本多政勝の菩提寺で、今も菩提所があるそう。


この芭蕉の「初時雨」の句碑は、1810年(文化7年)に建立されたもの。

良玄禅寺は門は開いているものの、果たしてどこが本堂でどこに手を合わせればいいかよくわからない。
この後、観光マップに載っているいくつものお寺を巡ったものの、多くのお寺が門を閉ざしたまま。(だから今回の写真はほとんど門前の写真)
開いていたところも、どういうわけかお堂の建ち方がよくわからなくてどれが何かわからず、あるいは本堂が締め切られていて浄財箱などもない、というところばかり。
まだまだ地元との結びつきが強くて(それは良いことではあろうと思う)、観光客に構うなんて余計なことをする必要はないのかもしれないな。


すぐ向かいに天満宮があった。
しかし入り口は鳥居ではなく瓦屋根のついた門で、写真の拝殿らしい建物も、およそ神社建築には見えない。なんでなんだろう。

ここから西の、古い町家が残るエリアに。
なかなか趣ある町家も多く見られたが、どうもまだ個人がお住まいのよう。


明治時代の洋風建築が、今でも小児科医をやっている。
もちろん和風の町家も多い。(今でも個人宅っぽくて写真は遠慮)


このあたりは、「内町十三町」といわれ、大和郡山城の外堀内側にあった。
それらの町が、「箱本」という制度で自治を行っていた。
治安(城門の木戸の管理)・消火(火消しや火の見櫓の管理)・伝馬(藩行事への馬の供出)を重要な任務として、それを各町が一ヶ月ごとに持ち回りで担当していたそう。
それに必要な特権が書かれた書状を朱印箱に納め、その箱を担当町が持ちまわっていたから箱本というと。
藩から権力が一部委任されるのはよくあると思うけれど、それを持ち回りにして特定の商家・農家が権力者にならないようにした仕組みか。


火の見櫓も建っていた。


ちょっと西に、春岳院というお寺。
戦国時代に豊臣秀長がここを治めていたが、その菩提寺。今でも位牌や肖像画が残る。
箱本制度は秀長が始めたそうで、その資料も残っている。


少し南東に行って、光慶寺。
天台宗寺院だったのが、平安末期の住職・光慶が親鸞上人に帰依して真宗に改まった。


ちょっと南に、紺屋川といわれる水路がある。
その脇に、かつて紺屋をやっていた町家が博物館になっている。
たまたま行った日が無料公開の日だった。

町家の展示……というのは、ちょっと旧宿場町とかに行くとよくやってるので、まあ「昭和の暮らし」あるいは「弥生時代の遺跡の発掘物」と同レベルの月並みなもの。
と思わせて、ここは特に紺屋だったことにスポットをあてて展示している。
まだ紺色の色素が残る大瓶やらがあったり、実際に紺染めを体験できる工房があったり。

また、大和郡山の名物といえば金魚。
金魚がらみの展示も、飼育法の歴史解説やら、「古い絵皿に描かれている金魚は現代とは明らかに異なるが、当時の飼育法から推察すれば本当にその姿だったかもしれない」といった面白い考察、金魚柄の器やら絵画などのコレクションと、小さいながらなかなか濃い。

今はこんな水路だけど、かつては多くの紺屋が軒を連ねて染め物をやっている場所だったそう。



地図で見ると広めの道だけど、実際は車一台通るのがやっとの細い道に戸惑いつつ、円融寺。

奈良には赤膚焼という焼き物があって、その中興の祖・奥田木白の墓所があるそう。
凝った造りのお堂らしいのだけど、この通り入れない。


そのちょっと東に、実相寺。こっちは開いてた。
のだけど、ここが本堂でよかったんかな……

知恩院の末寺で、慶長年間に建立。本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代初期の作。
かなりお墓が多かったから、檀家の多いお寺のようだ。門も真新しかった。


その東に、薬園八幡神社。
なかなかに年季の入った門だ。
社殿は桃山時代のものだそうだけど、門や拝殿はどうだろう。さすがにもっと新しいような。
ちなみに、なぜか拝殿の向かい合わせに社殿がある、またなんだか不思議な造り。

続日本記に、聖武天皇が奈良の大仏を建立するにあたって、豊前から宇佐八幡大神がやってきて、天平勝宝元年十二月十八日にこの地に鎮座したのが始まりとのこと。
それ以前に、このあたりが文武天皇によって薬園にされていたことから、この名前になった。



ちょうどこのへんに、外濠公園が横切っていた。
せっかくだから南西の方へ通り抜けてみた。

県道108号に出るので、ちょっと北に、県道144号(薬園八幡前の細い道)との交点に戻る。
そしてちょっと西に行って再び南下。


したれば、源九郎稲荷神社と洞泉寺の前に出る。
洞泉寺はこの通りなので源九郎稲荷神社へ。


源九郎って、源九郎義経のことね。
義経の家臣・佐藤忠信は実はこの神社の白キツネの化身だった。
義経が奥羽に逃れるにあたって、忠信=キツネに源九郎の名を与えて別れた。
秀長時代は、大和郡山城の守護神としていたそう。

日本三大稲荷のひとつ、と由緒書きにあったが、日本三大稲荷というのは自称しているところが3つではとても済まないそう。
行ったことがある中では、東大阪市の瓢箪山稲荷神社も自称していた。あそこは境内を隅々まで埋め尽くすような無数の鳥居がある異様な神社で、なんだかちょっと説得力もあった。
こちらは、ちょっと三大のひとつと言い張るのは、少なくとも「大」って感じじゃないかな。

この日に行った神社の中では、唯一、社殿の造りがオーソドックスな神社だった。


西方寺というお寺の隣に、なんだかよくわからない造りの神社。なんでこのへんの神社って変わってるのかな……。
宮内社、と額があったのだけど、なんだろう。西方寺の一部だろうか。

西方寺は例によって閉門していて、門構えも豪勢な寺ではなかった。
柳沢吉里が大和郡山城に入るとき、城の引き渡し役人が投宿していた寺だそうで、だったら昔はかなり大きかったんだろうけど。


ここまでくると、かなり近鉄駅に近い。
商店街が、意外にといったら悪いけど、活気がある。
ちょうど商店会がイベントをやってて、南都銀行の行員さんらしき人たちが、駐車場に屋台広げて五平餅などを売っていたのでひとつ頂いた。うまかった。

そろそろ食事するか、と、駅前の西友に入ってみた。
しかしこの西友がまた、「商店街から人を吸い上げる悪の巨大資本」という感じではなく、「最初はちょっとそのつもりもあったんだけど、ずるずる共存して30年過ぎちゃった」みたいな、昭和感たっぷりの佇まい。
5階がレストランフロアということで行ってみたんだけど…………なんだろう、出てくるものも80年代のままな気がする不思議なオーラに満ちていた。

オーラに負けて地下のフードコートに行ってみたら、これがまた、イオンモールの洒落たフードコートでは決してない、80年代のニチイやイズミヤのそれだった。
こういうフードコートにあるマクドナルド、ひそかに結構撤退しがち。私んとこの近所のはもう全滅した。
コカコーラ・ゼロを頼んだら置いてないといわれた。こういうところもまた。



近鉄駅前を行き過ぎ、ついに大和郡山城へ。
まずは追手門から。

奈良ってのはどうにも戦国時代には目立たない土地だけれども、兎にも角にも生き残った筒井順慶が、天正年間に縄張りを行って建てた。
その後秀長が来て拡張、その後増田長盛が来て、近くの秋篠川を付け替えて外堀として完成。
大阪の陣の後は、水野勝成、松平氏、本多氏ときて、幕末まで柳沢吉里からの柳沢氏の居城となった。
吉里は、なぜか水戸黄門では悪役にされる柳沢吉保の子。


境内の紅葉、もうちょっとか。


柳沢文庫という資料館。
普段は文庫というだけあって、文献資料が多数置かれている。
こちらも、普段は有料だけどこの日は無料。

また、今は筒井順慶の特集展示を行っていた。
文書等が中心の渋い展示だけど、彼の苦労人っぷりが伝わる内容。
ちなみに高野山では、信長公の墓のすぐとなりに順慶のがある。


そして天守の跡地の方へ登って行くと、柳沢神社。
柳沢吉保を祀る。かつての旧臣の末裔が、遺徳を偲んで開いた神社だそうで、創建は明治13年。
柳沢の殿様は、ここらでは人気があったんだろな。


実は天守閣近くは改修中で、現在は立入禁止。残念ながら今回はここまで。


城を南西に降りると、永慶寺という大きなお寺がある。
この素朴な門が、実は秀長時代の大和郡山城の南御門だったのが幕末に移築されたもの。現存する大和郡山城の唯一の遺構。


でもやっぱお堂は閉まっている……

もともと、柳沢吉保が甲府に開いた菩提寺だった。
吉里がこっちに来るとともに移ってきた。
吉保が帰依してたこともあって、黄檗宗の寺。


まっすぐ坂を降りてくると、ちょっと左手に教会がある。
そこに、こんなキリシタン配流碑がある。

見ていたら、何か催しの準備をしていたマダムが解説をしてくださった。
浦上四番崩れ、江戸時代末期に鎖国が解かれた時、長崎の隠れキリシタンがもう大丈夫だと思って大浦天主堂に礼拝に来てしまい、まだ禁教令が生きているからと政府に捕縛された。
それで全国各地に流刑にされ、特に津和野に流された人たちは酷い弾圧を受けたとかで、遠藤周作が「女の一生」という小説に書いている。
遠藤周作は私もある程度読んではいるのだけど、キリスト教小説は「海と毒薬」「悲しみの歌」はいい作品だと思うものの、「沈黙」がどうにも楽しめなかったりして、他にあんまり手がのびてなかった。今なら読めるかもしれん。いずれ読んでおこう。

そんなキリシタンの一部は、ここ大和郡山にも流されてきていたそう。
亡くなった人もあり、そして禁教中だからと寺に埋葬されていた。
禁教が解かれて教会も開かれ、寺からこちらへと墓所を移した。
碑を見ると、どうも墓石を埋め込んでいるような造りに見える(土台の前面)。墓石に洗礼名を刻むようなことは許されない時代だった気もするから、全然関係ないかもしれないけど。



で、地図によると西の方に、荒木又右衛門の屋敷跡があるという。
ま、あったことはあったのだが、小高い丘の上の民家の門前。大まかな地図だけじゃわかりにくい。辿りつけたのはまったく偶然。
何か解説を貼ってあったけど、読もうと思ったら駐車場に勝手に入らねばならず、まあ貼ってるからにはそれくらい構わないってことかもしれないが、基本的にやっぱ30代の男一人でカメラ持って住宅地徘徊してるのが怪しいので、できるだけそういうのは遠慮したい。

こないだ伊賀上野にいったときに、荒木又右衛門と渡辺数馬の仇討ち現場を見てきたもんで、彼の人はここに住んでいた。



そのちょっと東に、大納言塚。
秀長の墓所になる。大阪の陣のあとのあれこれで荒廃していたが、春岳院の住職が再興させた。
中には五輪の塔が立っている。


ここから駅へリターン。

さらに南の方へいけば、金魚関係の博物館なんかもあるんだけど、徒歩だとちょっと遠すぎる。
郡山駅前などにレンタサイクルがあって、それを利用するとそっちまで行ける。

徒歩で行けば、観光マップに載ってる寺社仏閣と郡山城をひと通り見ても、まあ近畿からなら日帰りできるくらいのコンパクトな町。
もうちょっとお寺が観光客歓迎な体勢になってれば、濃密に楽しめる町になりそうなところ。




今日のExilim Pro EX-P600は。

まあ、私は500万画素がハイエンドだった2003年ごろ、コニカKD-400Zを買い込んで(5万円くらいした)、その後ずっと愛用していたから、600~700万画素世代はあまり印象がない。
その後、新品のデジカメを買うのは、1000万画素のPENTAX Optio A20に飛ぶ。2006年モデルを2007年頃買った。
その間は、あまりデジカメに関心が向いていなかった時期になる。KD-400Zと、*istDS2があったから、コンデジ買おうって思わなかった。

で、1/1.8型600万画素CCD、というのが、どーもこう、あんまりパッとしない。(フジのスーパーCCDハニカムHRは別として)
1/1.8型300~500万画素CCDを使ったカメラには、傑作から隠れた名機まで色々な良いカメラがあった。
それが、1/1.8型600万画素になると、コニカミノルタのDiMAGE G600とか、オリンパスのX-3とか、このEX-P600とか、そもそもあんまり数がない。ニコンもソニーも出していない。
ソニーは600万画素を作らず700万画素に飛んだから、600万画素センサーを出していたのはシャープらしい。

でまあ、この1/1.8型600万画素CCDが、あんまり良いようには言われていない。あんまり画質がよくない、と言われる。
私も、DiMAGE G600を使った時、少々がっかりした。
これはコニカKD-510Zと同じレンズのはずなのに、「あれ、この程度の写りか?」って。



じゃあEX-P600はどうなんや、と思ったら、これが思ったよりよく写っている。
まあ、正直ちょっと、ダイナミックレンジ狭い感じで白飛び出やすいとか、シャドー部はだいぶノイズっぽいとか、センサー自体の頼りなさは感じるっちゃ感じる。

しかし全体的に見れば、かなりうまくまとめていると思う。
正直いえば、あまりカシオのデジカメに画質がいいイメージはない、というかかなり頼りないイメージがあるのだけど、これが意外にといったら悪いけど、上質な写り。
すっきりした色に写って、ソフト的なノイズリダクションも実に適切な感じ。


ただ、Exilimといえば当時も今も、動作が俊敏なイメージがある。
それが、EX-P600では、どうも鈍い。
別に、キー入力への反応が遅いとか、レリーズタイムラグがすごいとか、そんなことはない。
走る電車を撮影した感じでも、レリーズタイムラグはむしろ非常に小さい。

しかし、撮影してすぐ電源を落とそうとすると「処理中です。しばらくお待ちください」という表示が出る。
1秒にも満たない時間ではあるけど、まさかそんな表示を見るとは思わなかった。
多分、撮影画像に加えてる現像処理の量が多い。


強力かつ使いやすいブラケット機能が自慢のひとつ。
ブラケット段数は5段・3段切り替え可能、露出は間隔も選べる。
ボタンひとつでブラケット選択に入れて、AEブラケットの他に、AFやらホワイトバランスやら様々なブラケットができる。
その操作性も優秀で、さすが自慢するだけはある強力さ。

……なのだが、撮影後の現像処理の重さがある。
5段AEブラケットなんてやったら、撮影後の待ちがどうにも気になる。


また、レンズの出入りで少々起動が遅いが、まあこれは3秒そこらだから文句はない。
問題はレンズの戻りで、起動よりかなり遅い。先の処理待ちも合わせて、素早く引っ込められないカメラでもある。

センサーのノイズの多さと戦ってるがゆえの遅さっぽいな。
500万画素以前のデジカメって、ノイズリダクションは常時かけるもんじゃなくて、暗所高感度の時だけ特にかけるようなもんだった。
この600万画素センサーでは、常時かける必要が出てきてるんだろう。
基礎感度もISO50まで下がっていて、やっぱりノイジーなセンサーっぽい。

遅さといえば、ズーミングがいやに遅いのも気になる。
遅いくせに、ズーミングのステップはあまり細かくないみたいで、一瞬入力しただけなのに、にゅるっとゆっくり大きめに動く。微調整できない。



操作性は、さすがのカシオで良好。
ただ、本体後面右端にあるセルフタイマーボタンが、うっかり手に触れていることがあり、戸惑うことがあった。
逆に、ブラケットボタンや、ISO感度やホワイトバランスなどを素早く変更できるEXボタンが、後面左端にある。私はあんまり左手で押すボタンは好きじゃない。
右と左が入れ替わってれば私好み。
まあ、ボタンの数に比してボディが小さいことを考えれば、かなり頑張ってる配置ではある。

シンクロターミナルがあるのが贅沢。このへんは高級機の意地か。

P/A/S/Mフルモードでベストショットセレクターもあるいつものカシオで、モードダイヤルでの切り替え。
もちろんかっちりして、勝手に回ったりはほとんどしない。
ボタン類もしっかりした造り。高級機。
ここまでくると、ストラップが両釣りではないことだけが意外か。

液晶ファインダーに「Ex Finder」なるモードがあって、撮影情報がサイバーにかっちょよく表示される。
まあ……私には見づらい、フレーミングに邪魔とおもったのだが、慣れたらいいのかもしれん。
AFが合焦してる距離とかも表示されて、ピントミスに気付くこともできるかも。



レンズは33-132mm相当・F2.8-4.0。
微妙に広め(私がよく使うPENTAX DA21mmF3.2 Limitedの画角に近い)で、望遠端が明るいのも良い。
歪曲収差なんかもかなり押さえられてるし、画面端が甘かったりもしない。
柄の大きさの割には抑え目のスペックのレンズではあるけど、その分さすがによく写る。

絞り羽根もちゃんと入っているから、絞り優先オートでも細かく絞りを選べる。

光学ファインダーもなかなかいいものを奢っていて、大きめで収差が少なく見やすい。

ただ、最短撮影距離が弱点か。
マクロモードでも10cm、通常モードで40cm。
ボタンで切り替えねばならんけど、またそのボタンが、左手で行くと光学ファインダーが壁になり、右から行くと非常に遠い。
マクロモードだとマクロの範囲しか合焦しないので、マクロのままで遠景は撮れない。


バッテリー持ちは非常に良くて、フル充電してからカメラに一週間入れっぱなし、持ちだして116枚・5時間撮影してもゲージがフルのまま。
これだけもつとなれば、2GBのSDカードでの撮影枚数が300枚と出るのが頼りなく見える。
まあ、撮影結果は1枚3MB前後だったから、2GBあれば600枚はいけるはずだけど。あれ、もしかして1GBしか見えてない……?



カシオのデジカメは、売れるのは薄型小型モデルだろうと思うけれど、昔からずっと、大型ボディに高級レンズというモデルを出してはいる。
で、だいたい売れない。
QV-3000EXなんて、PowerShot G1と同等レベルのレンズとCCDを搭載したハイエンド高画質モデルなのに、2万円くらいで買えたとか。
しかし、QV-3000EXは、まだしも投げ売りになってから数が出て、中古やジャンクもよく見かける。
その後の、QV-5700なんて、私は未だに見たことがない。

で、EX-P600もそういうカメラのひとつだったわけだけど、使ってみると非常によくできたカメラだった。

売れなかった理由があるとすれば、廉価なデジタル一眼レフが出始めて(EX-P600が2004年春、EOS Kiss Digitalが2003年秋)ハイエンドコンパクトの市場が急速に食われたこと、ハイエンドコンパクトを買うような人はニコンやキヤノンのようなカメラ大手に流れやすいこと。
……と、デザインだろうなあ。

いや、男らしくてカッコイイと思うけども。EX-P600は。
QV-3000EXは言い訳のしようもないブサイクカメラだったけどな。

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