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2012年7月29日日曜日

宇治 w/ C-3040Z(途中まで)

暑いにも程があるが、運動不足も良くないので宇治にお出かけ。

カメラはF1.8のSUPER BRIGHT ZOOMレンズを誇る、CAMEDIA C-3040Z。
前モデルのC-3030Zでは、32-96mmF2.8通しのレンズをつけていたところ、今度はレンズを35-105mmF1.8(!)-2.6に変えてきた。
昔売り場で「F1.8」と目立つように書いていたのが今でも記憶されているが、10年経ってまたXZ-1で「F1.8」とやったので、オリンパスはほとほと明るいレンズが好きだ。


京阪電車で宇治へ。
私はなぜか大阪から京都へいくとき、阪急に乗るべき時に京阪に、京阪に乗るべき時に阪急に乗ってしまう間違いをいつもやってしまう。今回も一度梅田に行ってしまった。
京都の裏鬼門を守る石清水八幡宮の王城守護の力が、私のスムーズな京都入りを妨げてるのだろうか。私は国難をもたらす存在か。


近くに東屋観音という石仏がいらっしゃる。
もともと宇治橋の近くにあったそうだけど、宇治橋架替と道路拡幅のため、江戸時代の灯籠や宝篋印塔とともに移転整備されたとのこと。


宇治の観光地エリアは東側だが、ちょっと北西に向かう。


菟道稚郎子の宇治墓が、住宅地の奥の宇治川沿いにある。
応神天皇の皇太子で、仁徳天皇の兄。
しかし応神天皇が崩御してもすぐ即位せず、弟の仁徳天皇に譲ろうとし、仁徳天皇もまたそれを遠慮して、天皇のいない世になってしまう。
異母兄の大山守皇子が、兄である自分が即位すべきだと挙兵するも、仁徳天皇も菟道稚郎子もすぐ察知し、宇治川を渡る大山守皇子の船を転覆させて水死させた。
そんなこともありつつ3年も空位が続き、それは良くないと、菟道稚郎子が自害することで弟に皇位を譲った。

陵は宇治山上にある、と延喜式に書かれているそうだが、どう考えても山上ではなく海沿いのここが比定されていて、しかも元々円墳っぽい形の丘だったのが前方後円墳に築造されたのが今の姿だそう。
なんでそうなっちゃったかは不明。宇治山上に適当な古墳がなかったのかもしれない。


向かいは、宇治川太閤堰と碑がある。
2007年に、大規模な護岸跡が発見されたそう。太閤の時代に大規模な河川工事があれこれ行われていたが、その成果がこれほどよく見つかるのは非常に珍しいそう。
マンション建設中に発見されたそうで、2012年になってもマンションが建ってないということは、遺跡の保存が勝ったようだ。
そのかわり、近くの道がなんとも不自然な感じになってはいる。マンション作るつもりで引いたらしい道を、取ってつけたように車両通行止めにしてあった。



宇治駅前の幹線道路・府道7号線に戻り、ちょっと北に上がると彼方神社というお社がある。カナタ神社ではなくてオチカタ神社というようだ。
ちょっとしたお社で、由緒も縁起もわからないが、はっきり式内社と名乗っている。また、源氏物語宇治十帖の「椎本」の古跡だそう。



7号線を東に渡って、さらに路地を東に入ると、源氏物語ミュージアムがある。
名前の通りの源氏物語の博物館。
中は、遺跡の発掘品などよりも、当時の貴族風俗や衣服・道具などを再現して見せたり、源氏物語の一節を20分の映画にして上映したり、といった内容。
本当に源氏物語ファン向け、という感じ。詳しいらしい奥さんが、旦那さん相手に宇治十帖の名シーンを楽しそうに語っているご夫婦を見かけたりして。


庭園はなかなか趣味よく作られている。
なんかソフトレンズで撮ったような写りになっているが、どうやらカメラのレンズトラブルがあったようだ。この後に気づく。


さわらびの道という路地を歩く。
沿道には歌碑や源氏物語の古跡を示す碑がいくつも。


道を行くと、世界遺産の宇治上神社に行き当たる。


この拝殿にはなぜだか賽銭箱がない。
拝殿があるのだけど、直接本殿に参拝しろ、という形。
本殿が1060年ごろに作られたらしい現存最古の神社建築らしく、ありがたいことなのでそっちを見て行けということだろうか。
京都への偏見をもって言えば、そういう時は本殿拝観を有料にするのが京都の観光地というイメージなのだが、宇治はこの後のことを考えても、そうがめつくない感じ。

拝殿も1215年ごろに建てられたらしい、やはり非常に古い建築。


ここでようやくカメラトラブルに気がついた。
カメラのスイッチを切ろうとしたら、なにやら引っかかってレンズが引っ込まない。なんだろうとよく見てみると、レンズの前から2番目の大きな玉が外れて斜めを向いている。
やばい、と思って、ともかくレンズが引っ込まないかとズームを動かしたりするもびくともしない。
これはどうせ重故障だと思って軽く鏡筒を叩くと、外れた玉が跳ねて元の位置に収まり、スイッチが切れた。

どうやら、玉がひとつ外れているのは確実なよう。
しかし、広角端ではレンズ全体の移動に挟まれて固定され、すぐにはわからない。望遠側にズームすると、空間ができて動けるようになってしまう。
トホホやなー。せっかく良いレンズのカメラなのに……


まあ、10年以上前のデジカメなんか使おうとするからには、トラブルはつきものということで、鞄に常備していたKodak Easyshare Miniを取り出して散策続行。


離宮いろはの紅葉、という木が鳥居のそばにある。
かつて宇治神社の離宮として扱われていた頃からある紅葉の木だそう。


境内は何やらヤモリが多い。


本殿。
1060年ごろの創建ということは、平等院とほぼ同時に建てられている。
祭神は菟道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇。




さわらびの道を川の方へ下がっていくと、今度は宇治神社がある。
このあたりは応神天皇の離宮・桐原日桁宮だったところだそうで、祭殿らしいのも桐原殿とある。


本殿は重要文化財。祭神は菟道稚郎子命。
平等院の鎮守社でもあるそうだ。


宇治神社の参道前から橋がかかっていて、そこを渡ると平等院に行けるのだが、一旦置いといて宇治川東岸を上流へ向かう。



朝日焼作陶館というのが気になるので立ち寄ってみた。
朝日焼は遠州七窯のひとつとして知られる。古くからいい粘土が取れて、また宇治茶が流行るとともに茶の湯の道具としてもてはやされていったそう。

粘土に鉄分を含むことから、桜色の斑点が出るのが特徴。結構派手そうで、しかしそれがなめらかな表面の艶の下にあると、下品に見えなくなる。
まあ、丹波焼のように身近なモノよりは、茶の湯をやる貴族や上級武士相手の作陶であったからか、今でも値段が高くて、なかなか私ごときプロレタリアには手が出ない。出世したらひとつ買おう。



さらに東へ行って、曹洞宗の道元禅師が初めて開いた道場である、興聖寺。


琴坂という真っ直ぐな坂道の参道を上がる。
岩を切り開いた道なのか、道の脇が荒々しい岩盤。なんとなく禅寺らしいストイックさがある気がする。




登り切ると、この端正な造りの寺院がある。
兵庫三田の心月院もこういう感じの造りだったが、曹洞宗の寺院はこういう様式があるのかな。


ちょうどお経を読んでいたので、邪魔にならないように静かに拝観して回った。
お寺にいるとかなりストイックというか、ちと近寄りがたさも感じるのだけども、仏教としては西洋人にもかなり人気があり、ウェブサイトもちょっと欧風が入っていたりして、なんだか不思議な調子。


山を下り、宇治川を渡る橋を探すもののなかったので、宇治神社前まで戻って渡河。
中の島が公園になっていて、その橋に石塔が建っている。


浮島十三石塔。
大化2年(646)から宇治川大橋という古い橋が掛けられていたが、大水のたびに流されて、やがて再建されなくなった。
弘安9年(1286)に西大寺の叡尊律師という高僧が橋を再建するが、その工事の成功を祈って建立したのがこの石塔。
1756年に未曾有の洪水が来て崩壊し、実に150年経って明治になってついに復建されたのがこれ。


鵜飼の船や、鵜の鳥かごなどもこのあたりに見られた。


そして宇治の代表的スポットたる、平等院へ。



実に絵になる鳳凰堂。撮りまくっちゃった。




裏手に源頼政の墓も。



南側に出て、縣神社という古い神社に。
祭神は木花咲耶姫で、藤原頼通が平等院を建立した時に鎮守にしたとか。


縣神社前の府道3号線は、あがた通りともいわれるよう。
あがた通りを北上すると、橋姫神社というのがある。


橋姫というと源氏物語でそういう巻があるが、一般に大きな橋に外敵の侵入を避けるために祀られる女神とされている。
近くに宇治橋があるのでその守り神であろうが、宇治の橋姫は特に、妬ましい女を呪い殺すために鬼になることを願って、宇治川に21日浸かって生きながら鬼になったヤンデレお嬢様(公卿の娘)である。

彼女連れでこの前を通ると別れる縁切りの神でもあるそうなので、ここを通るときは平等院のほうに迂回するのがよろしかろう。
しかしこの先の縣神社の木花咲耶姫は縁結びの神様であるそうだが、実に邪魔なところに建ってるものである。


15000歩くらいは歩けたので、暑いのでこれくらいにして帰路へ。


C-3040Zは、何しろレンズトラブルがあったのでなんとも言い難い。
全般的に意外と眠たい絵が出るな、と思ったりはしたのだけど、レンズの玉ひとつズレてればそりゃ甘くもなろう。
正常な個体が手に入るか、ばらしてみて何とかなりそうなら(可能性極小)また。
操作性なんかは実にしっかりしているのだけど……