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2012年7月21日土曜日

太子町磯長古墳群・弘川寺 w/ Caplio RX

大阪府下の天皇陵は、やはり近いので先に巡ってしまっていたが、太子町にある陵墓はまだ参拝できていなかった。
太子町内に鉄道駅が存在しなくて、最寄り駅は羽曳野市にある上ノ太子駅。まあウォーキングのつもりなら歩けなくもないけど、ちょっと距離がある。

しかし、ちょうどアクシストリートを買ったばかりで、人車ともに慣らし運転をしたい所。
転がしていくのにちょうどいいので、これで出かけることにした。

カメラはリコーCaplio RX。
この前の型。Caplio G3/G4あたりは、地味ながら堅実な感じのスペックで、起動やAFなどの速さに配慮していたりと、他人に購入相談されたりしたときは候補のひとつに入れていた。
しかし、どうにも現物見ると安っぽくてカッコ悪いという、如何ともし難い難点があった。

それがRXになって、基本的なデザインはそのままだけど、左右幅と厚みが短くなって印象が引き締まり、外装も金属になって、格段に格好がよくなった。
薦めて実際にチョイスされたのもRXであった。
それで、当時薦めていたものを自分で使ってみよう、というとこである。(使わずに薦めていた実態が此処に明らかに)


道の駅近つ飛鳥の里太子に単車を乗り付けた。
そんなに大きなところではないが、太子町の名産たるぶどうを使ったワインが目を引く。
面白そうなのだが、惜しむらくは私はワイン苦手。ちょっと飲んだら翌日まで頭痛が残る。



飲料補給して、道の駅の裏手の橋を歩いて渡る。
マンホールは踏まれながらも聖徳太子の名言を空に向ける。


ちょっと歩くと、竹内街道歴史資料館がある。

道の駅の目の前を横切る国道166号線は、竹内街道と呼ばれているが、これは明治頃に言われだした呼び名で、元を遡れば推古天皇の時代に、難波津から二上山を通って飛鳥宮を結ぶ「大道」として置かれた、日本初の官道である。
飛鳥宮が平城京に移転すると衰退したりしたのだが、しかし西国巡礼の通り道になったり、聖徳太子廟への参詣道になったり、堺が経済発展すると堺-大和間の輸送ルートになり、で、大道の面子はずっと立てていた。
今でも街道沿いの地域には「大道」というような地名が多く残る。


博物館を出て、ちょい西に。


大道旧山本家住宅、という、古い日本家屋がある。
4~5月と10~11月には公開されている。今7月。

えらく風変わりな屋根だが、これは大和棟というそう。なんのためにこうなのかはいまいちわからんのだが。


その向かい側に、孝徳天皇大阪磯長陵がある。
駐車できそうなスペースはあるが、目の前の古い街道が狭いので、道の駅に止めて歩いてくるのが吉。


そこそこ登る。斉明天皇や孝安天皇ほどではないが。
ついでにいうと、参道の苔むした石畳が滑る。これもまあ、本当に盛大に滑って転んだ斉明天皇陵ほどではないのだが……


登り切ると遥拝所。

孝徳天皇はというと、乳娘という妃を持つことで知られる。ちのいらつめ、と読む。
他には、史上初のことをいくつか行なっていて、皇極天皇(のちの斉明天皇)から初めて譲位を受けた天皇であったり、初めて元号を導入した天皇であったり。
大化の改新を推し進めた天皇でもあり、歴史的重要人物である。


ここから南へ、歩けば歩けるけどちょっと単車を転がし、科長(しなが)神社というところへ行く。


延喜式内社で、古くからここらの氏神様。昔は八社宮といわれていた。

だんじり祭といえば和泉国のが過剰に有名だが、ここでも南河内唯一のだんじり祭をやる。
近在の5村がそれぞれだんじりを持ち、うち2台が、舟形地車という珍しい。
大阪あたりまで含めても、舟形なんてのは住ノ江の安立町のものと、大阪天満宮の上荷茶船仲間のものくらいしかなく、どちらも過去のもの
まして、こんな海から遠く離れた山沿いにあり、しかも今でもそのまま続いているのは非常に珍しい。
……というようなことを、竹内街道歴史資料館で特集展示していた。


ここにはもう一つ目玉があり、小野妹子の墓がある。これもまた結構登る。


日出処の天子、と隋の煬帝の前でやらかして怒られたことが知られるが、華道の祖だともいわれる。
華道の池坊の始祖が小野妹子だという話になっていて、この墓の整備も池坊でやっているよう。


再びアクシストリートに乗って、今度はちょっと西へ。
これまた、歩くなら歩いてもいい程度の距離をさーっと行って、気持よく田園地帯を走ると、その中に、


推古天皇磯長山田陵。
農地の真ん中に鎮座しているので、見ると方墳なのがはっきりわかる。陵前の景色も長閑。飛鳥時代から変わらない……とはいくまいが。
駐車場と明記はしていないが、駐車できるスペースあり。

もともと奈良の橿原あたりに葬られていて、植山古墳というところがそうだというのだけど、蘇我氏が権力がためのために自己の地盤である南河内に移したのがここ、だそう。
蘇我氏がやりたい放題やってた時代、蘇我馬子が暗殺した崇峻天皇の次の用明天皇がわずか2年で崩御し、急遽馬子が擁立した、という経緯で即位した、歴代に数えられる中では初の女性天皇。
蘇我氏を適度にコントロールし、厩戸皇子を取り立てて重用し、うまく政治を安定させていった名君といわれる。


遥拝所から左手に、二子塚古墳が見えている。


こちらは宮内庁の指定がないので、中に立ち入りできる。
珍しい双方墳という、同じサイズの方墳がふたつ連なった形態。双円墳は一度だけ見たことがあるのだけど(東大阪市立郷土博物館の目の前にあった)、これは初めて見る。
といっても、ちょうど双方の中間が破壊されてしまっている。盛り上がりがふたつある感じはわかるのだけど。

伝承では、推古天皇と竹田皇子が合葬されているのはこちらではないかとも言われる。


ここから西の方へ。
途中で見覚えのあるようなところを通りかかり、ふと案内を見ると、近つ飛鳥博物館の近くだったので、そっちに行ってみる。


ちょうど食事時だったので、カフェで軽食。

ここ来るのは二度目。
今の特別展は、「古代の装身具 出土品からみる男性と女性」。

どちらかというと常設展が充実している博物館。当然ながら古墳時代の展示が中心。
特別展は一室ぐらいのもので、古墳から出土した棺に眠る被葬者の性別は、必ずしも骨格などから男女判別ができない。
そのため、装身具も判断の参考にされるのだが、そもそもどういう装身具を男女どちらが使うかがわからないといかんで、埴輪なども参考にしつつ判断している、といった話の展示。




博物館へ向かう道の途中、葉室公園というのがある。
胡散臭いモニュメントのあるちょっとした公園、と思わせて、石塚古墳・釜戸塚古墳・葉室塚古墳の3つが集まったちょっとした古墳群。


釜戸塚(右写真)・石塚は円墳、葉室塚(左写真)は長方墳。
石塚古墳は公園の中に取り込まれてしまっていて、見た感じ単なる人工の丘みたい。
葉室塚は、規模でいえば同時代の天皇陵に近いくらいで、蘇我氏の大物でも眠ってるんじゃないかともいわれる。


さらに西の方へ行くと、敏達天皇河内磯長中尾陵がある。
駐車場らしき空き地が、陵道の向かいにあった。ただ、本当に陵の駐車場かはよくわからない。


こういう陵道がまっすぐなところは参道の見栄えがいい。
(ただし今日のCaplio RXは広角レンズなので、実際以上に参道が長く写っている。参道自体は途中で浅い角度で折れているので、入り口からすぐに遥拝所は見えない)

敏達天皇は、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で、その揉め事の間に立たされていた。
推古天皇の夫、としてのほうが有名かも。
陵墓は前方後円墳で、このあたりでは唯一。これより後には、古墳は作ってももっと小規模な方墳などになって、大化の改新で薄葬令が出て……となっていく。


ちょい北の府道32号に戻って、東に戻って、ちょっと道を間違えたようでもうちょっと北上、また府道32号をちょっと戻ると、用明天皇陵。
紛らわしいが、このあたりは府道32号が2本並んで並走している。

今よく見ると、南側の府道32号からは、用明天皇陵前への道を高架でオーバークロスしていたか。北からしか行けないようだ。


で、用明天皇河内磯長原陵。
駐車場は、あるようなないような。置いてよさそうな形になってはいたけれど、参道じゃないかとしか思えないところに置く感じ。ちょっと離れるが、近くの太子和みの広場に停めてもいいか。
たった2年で崩御した天皇で、業績の記録が少ないのだが、聖徳太子の父親。法隆寺は用明天皇の病平癒を願って聖徳太子が建立したともいう。



ちょっと西へ行くと、太子和みの広場という、広場がある。
もうちょっと何かあるのかと思ったら、ほぼ広場であった。車はたっぷり停められるので、近く回るならありがたい。

とはいえ、園内北の方に少し何かある。


聖徳太子陵の石室を1/6スケールで複製したレプリカ。


尼ヶ谷古墳という、最近発見された古墳の石室。
町道を作るときに見つかり、年代を見ると近くの天皇陵や聖徳太子陵より少し早く、このあたりが古墳だらけになる先鞭をつけたんじゃないかとも。


松井塚古墳の石棺。
昭和33年、推古天皇陵の北300mのところの民家で井戸を掘ろうとすると見つかった、という松井塚古墳だが、推古天皇陵の陪塚ではないかとか。


隣接して、叡福寺。広場の写真にも写っている。
正門は南側のようだが、公園に沿って北からも入っていける。



北からいくと、先に日蓮聖人の参籠したところという碑がある。奥には南妙法蓮華経の塔があった。



境内はかなり広く、お堂もいくつも立ち並ぶ。北から行くと大師堂にまず行き当たる。


次に見真堂。見真大師というと親鸞上人のこと。


次に、左手奥に磯長岡神社、右手に融通念仏宗の良忍上人の磯長御廟。
叡福寺自体は単立寺院で、特に太子宗を名乗るが、大乗仏教の聖地みたいな扱いだそう。
だから高野山真言宗も真宗も融通念仏宗も日蓮宗も別け隔てがない。


右手は浄土堂。
おばあさんが一心に般若心経を唱えていた。ここは南無阿弥陀仏ではないかとも思わなくもないが……


そしてその向こう、聖徳太子の御廟。
太子の母(用明天皇の皇后)と妻も共に葬られていて、宮内庁の管理下にある。

今Wikipedia見て知ったのだが、七不思議があるとか。

もともと叡福寺は聖徳太子廟を守護するためにお堂が置かれたのが始まりで、聖武天皇の勅願で伽藍が造営されたという。
大伽藍も信長の戦火で焼かれ、秀頼が再建して今に至る。


本堂。


ちょっと順番が逆だが、南大門。
額が、当時総理大臣の岸信介の書。


ふたたび単車に戻って、今度は北西の方を目指して移動。
と思ったら道を間違えてあらぬ方向に行ってしまったが、引き返して正しい方向に向かったらまた思ったのと違う方向に来て、上ノ太子駅にきた。


さらに一周りして、壺井八幡宮へ。


社殿がふたつ横並びで、どっちが主かわからないが、とりあえず目立っていた左手へ。
八幡太郎義家の五男・源義時が1109年に、河内源氏の祖神として創祀した坪井権現社だった。


こっちの塀で囲まれたほうが、壺井八幡宮。
この高台は河内源氏の発祥の地とされ、1020年ごろに河内守に任官した源頼信が屋敷を造ったところ。
その後1064年に、その子・源頼義が石清水八幡宮から勧進して神社を邸内に作った。

八幡宮も権現社も、現在の社殿は犬公方徳川綱吉の命で、柳沢吉保が再建したもの。
どっちも神社にしてはちょっと変わった作りに思えるが。


境内のご神木は見事な大樹。


神社から南へ。
近くに源頼義・義家・頼信の墓所があるそうだが、あまり目立つところでもないようで、どこから行くかわからずに見落としてしまった。

これで太子町は一回りしたとして、まだ時間もあるので、ちょっと南に行ってみる。
大阪府道200号に入って、河南町の山手、広川という集落に。


弘川寺。こうせんじ、ではなく、ひろかわでら。

天武天皇時代に役行者によって建立された古い寺だが、西行の最後の地として知られる。
行基がきたこともあれば、弘法大師によって中興されたりも。



戦国時代初期には、河内守護の畠山政長がここに陣取り、畠山義就との合戦で堂塔ことごとく焼かれたこともある。
ここから山を登ったところに弘川城という山城があり、そこの城主である隅屋正高がここで奮戦、ついに桜の木の下で討ち死にした。
その桜が、「すや桜」と「規桜(ぶんまわし桜)」という名で古い文書に残っている。ぶんまわしの方は枯れてしまったそうだけど、すや桜の方は残っていて、まさにこれのこと。

ここから、山道を登っていく。

階段に整備されてこそいるものの、かなりの山奥。木々の枝を払ってなくって、屈まないと通れないところが多い。
そんな道を上がっていくと、西行堂というお堂がある。西行はさらにこの奥で眠る。


しばらく上がると、急に開けたところに出る。
ここに、西行の墓地がある。
願わくは花のもとにて春死なむその望月の如月のころ、と詠んで、旧暦2月16日に亡くなった。


さらに広場の反対側に、似雲という歌僧の墓墳もある。
江戸時代に「今西行」と呼ばれたほどの僧だが、西行を慕ってここを訪れ、西行墳を発見した。
さらに、西行の辞世を叶えるように1000本の桜を植え、自らも「花の庵」を結んでこの山中に住んで、西行追慕しながら亡くなるまで過ごしたそう。



ますます山奥らしい道を上がっていくと、似雲の花の庵跡。距離は200メートルと看板があるが、山道の200メートルは結構距離を感じるだろう。
山奥にしては道が多く、千本桜を周遊する道などいくつもあるので、迷わないように注意が要る。

この花の庵で、「須磨明石窓より見えて住む庵のうしろにつづく葛城の峯」と詠んだそうだが、夏ということもあって草木が茂りすぎ、須磨明石を遠望するのはちょっと難しい感じ。


そこからもう少し上がると、西行が庵を結んでいたところに出る。
「麓まで唐紅に見ゆるかなさかりしぐるる葛城の峰」「尋ね来つる宿は木の葉に埋もれて煙を立つる弘川の里」と詠んだが、ちと夏草が茂りすぎて弘川の里はよく見えない。
春か秋に来るのがよさそうなところである。


降りていって、弘川寺の本坊を拝観。
春秋には西行記念館が開かれていて来客も多いようだけど、やってない今に拝観する人は少ないみたい。


海棠の木が、大阪府の天然記念物にされている。
約350年の樹齢で、日本一の老海棠であるそうだ。これもやはり咲くのは春。


しかし趣味の良いお寺というか、カメラを向けると自然に絵になるような造り。さすが、あの西行が過ごすようなところだけはある。


寺から南へ。
山奥の集落の隙間を抜ける200号線をずっと行く。途中で急な上り坂もあり、そうなるとアクシストリートの125ccエンジンでは全然加速しなくなる、という一幕もありつつ、国道309号に合流。そして大阪側に。


途中で、建水分神社に乗り付けてみる。


先に摂社の南木神社。
名前の通りというか、楠木正成公を祀る。
後村上天皇が「南木明神」と号を賜ったのが始まりで、ずっと下がって1697年に領主の石川聡茂が社殿を再興。昭和になって室戸台風で倒れた老木に社殿が押しつぶされ、1940年に再建したのが今のものだそう。


階段を上がって建水分神社。
階段すぐにまで拝殿が突き出している形で、上がってしまうと写真に収まらない造り。
本殿もまた独特な造りで、水分造ともいわれる。

本殿は、三殿横並びになっているのを渡り廊下でつないだような造りだそうで、真ん中に天御中主神、左に天水分神、右に国水分神を祀る。
崇神天皇の時代、紀元前92年創建とされ、延喜式にももちろん載っている。もう少し前の「日本三代実録」にも記述がある。
金剛山の総鎮守、近隣18村の産土神、楠木氏の氏神。


藁人形土鈴、というものが飾られていた。
太平記に、楠公が藁人形に鎧兜をつけて兵士だと偽装し、大軍に少数で立ち向かったとか、藁人形をちらつかせて敵に矢を射かけさせ、消耗した矢を補給したとか、そういう逸話がある。
それにちなんで、縁起物として授与されている。
昭和10年に授与されたのを最後に途絶えていたが、平成20年の御創祀2100年記念で復刻された。


次で最後だが、もうちょっと西にある道の駅ちはやあかさかへ。


時間を見ると入場締切時間直前だったので、先に千早赤阪村郷土資料館へ。

中は、千早赤阪村の古墳などの発掘物、楠公関連の展示など、まあ予想通りといったら悪いけれどスタンダードな展示。
そして二階に上がると、郷土資料館といったら本当にどこでも同じようにやってる古民具の展示……かと思ったら、何処にでもあるような農具ではなく、ちょっと変わったものが置いてある。
見れば凍り豆腐の製造器具で、かつての千早村では盛んだったという。
豆腐は非常に足の早い食べ物だから地産地消せざるを得ないのだけど、凍り豆腐にしてしまえば輸送が効く。大阪では凍り豆腐を「千早豆腐」と呼ぶくらい、高いシェアを持っていた時代もあった。
しかし産業が発達するにつれて、冬場にだけ手作りする千早豆腐も、大量生産品に勝てずに衰退していった。今はもうまったくやっていないそう。


隣接して、楠公生誕地。
秀吉の命で増田長盛が整備し、明治には大久保利通が楠公史跡めぐりをやって、ここに石碑を建立していったそう。


道の駅は、日本一かわいい、と称していたが、本当にこぢんまりしている。
ここならでは、という売り物もちょっと見つけられず。しかし千早赤阪観光の拠点には便利な場所だろう。


これで時間もいい時間なので、今日の散策ツーリングはここまで。

アクシストリートでのツーリングは、ちょっと山道で力弱いのはまあ仕方ないが、箱付き・メットインあり・ポケットあり・コンビニフックありの輸送力はありがたかった。
フロントポケットには500ccのペットボトルと、地図確認用の7型タブレットPCが入る(高価なタブレットをこんな使い方したくないが、安物であるので)。
メットインは底が平たくないが、プロテクター入のメッシュジャケットなどの形のないものなら入れられる。
ハコとあわせて、容量に余裕があるから、どれをどことはっきり決めなくても適当に搭載できるもラク。

走行距離は、ざっと140キロくらいあったかな。



今日のCaplio RXはー……どうやらAF不調っぽいかな。
普通の外光パッシブなコントラストAFと、赤外線アクティブAFを併用することで高速なAFを実現した、というウリがあるのだが、そういう複雑なシステム故に故障したり、劣化が早かったりしたかもしれない。
完全にピンぼけした写真が1割くらいあったし、なんか眠い写りになっている多くのカットも、AF外しの可能性が高い。
ちゃんと映ってるらしいカットを見ても、あんまりシャープな写りじゃないなー、とは思うけれど。

絞りはF3.1とF5.2の2段っぽい。
ISOオートで使うと、1/30秒を下回ると増刊して、1/30秒に近づけてるみたい。望遠だともうちょっと増感が早く、望遠端では1/125秒でISO130にあげていた。
ただ、ストロボを使わない限りはISO154で打ち止めっぽい。意味が薄いなあ……

手動設定だと、ISO64から使える。オートは2倍増感が標準、という感じか。こういうのは初めて見るかも。
解放より絞ったほうが写りが締まる感じのレンズに見えるので、ちょっと増感気味のオートのほうがいい、という判断でもおかしくはないか。それに、ISO50や64がベース感度だとかなり使いづらい。ちょっと暗いとパカパカストロボが光る。
ただ、ちょっとコントラスト高いというか、白飛びか黒つぶれのどっちかを諦めて露出決めなきゃいけない感じはある。ISO64だともうちょっとつぶれにくいのかなあ……

露出をシビアに決めたほうがよさそうで、露出補正もすぐ呼び出せる好ましい操作系だから、今回はまめに露出補正して使った。
AEが出してくる数字にはそれほど違和感はない。で、大体アンダーに振って撮って、大体私好みなアンダーな写真になってるから、AEは普通。

ちょっと気になるのは、緑の出方がなんかサイケデリックなところか。カットによって出方が違う割に、常に植物らしくない色になっちゃってるような……。


と、正直いって良い写りとは言えないかなあ、とは思うが、やはり広角28mmは写りが違う。
今でこそ当たり前、24mmからのカメラすら多数出ているが、この頃に広角28mmのコンパクトデジカメなんてほとんどなかった。
以前は28mmが苦手だったのだけど、いつのまにか、ぐっと寄ってパースを利かす撮り方の面白さが少しだけわかった気がする。

ちょっと撮影後の書き込み待ちがある程度で、概ね操作へのレスポンスも機敏で、使い心地は良いカメラ。
ADJ.というボタンがあって、露出補正・WB・ISO感度の変更に素早くアクセスできるのは素晴らしい。
ボタンも高級な感じじゃないものの、安っぽいガタがない造り。Caplio G4以前の安さとは一新されている。

G4は、確かモードダイヤルの真ん中にスイッチがあったと思うが、これはシャッターボタンと押し違えるといって不評だったそう。
それで、RXは背面にスイッチが写った。私はスイッチは人差し指で操作したい方だから、これは好みと違うかな。というか、そんなん間違えるやろか……。
うっかりバイクのキーが入ったポケットに一緒に入れてしまい、ポケットの中でスイッチ押されてレンズが出てきて驚いた。こういうのは背面スイッチのほうが起きやすい。


28mmがありがたいことだった時代には、代わるもののない品だっただろうという一品。
およそ、良いカメラといっていいだろうと思う。