新blogできています

このblogは、現在更新を停止しています。 新しい記事は新blogに追加されます。

2012年3月25日日曜日

高槻・三島野古墳群 w/ CAMEDIA C-300ZOOM

今年の散策テーマは天皇陵。
今週は土曜でなく日曜に動くことになり、翌日から仕事もあるので障らない程度に、ということで、近場の高槻にある継体天皇陵に行ってみることにした。

カメラはOLYMPUS CAMEDIA C-300Z。
名機といわれたC-900Zの末裔、単三電池4本仕様の横開きスライドバリアなスタンダードモデル。
2002年前半に出た、ほぼ最終世代のスマートメディア機で、その年の秋にはオリンパスのカメラはxDに切り替わる。そして、単三4本横開きはxDカードの後継機は作られることがなかった。




JRで高槻駅に。
高槻に来るのは初めてでもなく、映画「カラヴァッジオ」と高槻城址を見にきたことがある。
「カラヴァッジオ」は劇場に5人しか居ないという寂しい状態だったが、終わって出たら「涼宮ハルヒの消失」を見に来る客でロビーが埋め尽くされているという、なんとも言いがたい事態に。

さておき、高槻駅前はにぎやかな雰囲気。
ともかくも簡単に食事しつつ、Lifetouchを取り出してGPS地図を確認しよう……と思ったが、どういうわけか全然GPSを拾わない。カウンターUAVでも飛んでるのか、などと思うFPS脳。
この後、上宮天満宮を出て西国街道を歩き始める頃まで拾わなかった。なんだったんだろう。



駅から真北に歩いて行くと、すぐに上宮天満宮という神社がある。
西国街道に沿って大鳥居があり、くぐって参道を行くとすぐ見えてくる。我が国第二の天満古社。


階段を登って上り坂を上がり、スポーツ少年に追い越され、鳥居というには風変わりなゲートをくぐると境内らしくなる。

天満宮といいつつ、どうも祭神の一番初めに書いてあるのが武日照命(タケヒナテルノミコト)。アマテラスとスサノオの誓約でアマテラスの勾玉から生まれた天穂日命の、その子にあたる。
その武日照命が天下ったのが、この日神山というところだそう。
天満宮といいつつ、どうも祭神の二番目に書いてあるのが野身宿禰なのだが、ここらは古くから彼を祀っていた野身里というところという。
菅公は、野見宿禰の子孫。
菅公死後100年ほどの頃(正暦四年・994年)、菅公に左大臣の位を遺贈するべく菅原為理が大宰府に赴いて、諸事を済ませて帰路、ここで宿をとった。しかし出発しようとすると輿が動かなくなって、ご先祖様の菅公がここにいたいと思っているに違いない、と思い、天満宮を建てて祀った。
……しかしその逸話より50年は早く建立されていたようで、北野天満宮より早い、二番目の天満宮だという。

その後、山崎の合戦に臨む秀吉が、この神社の参道に本陣を構えた。
そして大勝利の後、美々しい社殿を奉納した……のだけども、平成8年に賽銭泥棒の少年5人組が放火しよったせいで失われてしまった。



入ってすぐ、右手のちょっと高いところに、全国でたった4ヶ所しかない野見宿禰を祀る野身神社がある。
この神社があるところは、宿禰塚古墳という古墳だそう。


拝殿と本殿。
この神社には2ヘクタールもの竹林があり、放火で焼け落ちた際に竹を使って再建した。茅葺き、銅板葺、瓦葺などは無数にあるが、竹葺の屋根を持つ神社は珍しい。
なお、貴重な文化財を燃やされた経験から、現在は様々なシステムによる徹底「防犯」体制が確立されているとのこと。神社をそんな風に守らにゃならんのも寂しい話だが。


摂末社がいくつもあるが、これらもいずれも新しい感じ。放火で一緒に焼けてしまったのだろうか。

建物の新しい神社はそれほど雰囲気のよくないところもあるのだけど、ここはちょっと下界と離れた山の上にあったりするせいか、あるいは歴史の賜物か、なかなか感じのいい神社だった。


西国街道まで下りてきて、西に歩く。
旧街道だけあって一車線の、平成の時代には狭い道なのだが、なんか信号で数珠つなぎになるほど車が多い。近くの国道・県道の抜け道としてポピュラーなのだろうか。


JTの施設にぶつかった。
生命誌研究館、というのがあるようだが、土曜なら開いていたが日曜は休みだった。惜しい。


芥川郵便局がある辻、東にSUNROAD芥川商店街というアーケード(駅まで続いている)があるところに、芥川仇討の辻という看板があった。
江戸初期の話で、衆道の稚児の取り合いという、なんかこうなんというか、そんな理由で石見の侍が果し合いをやった。それで殺された方が加藤嘉明の孫だったそうで、その子・助三郎が仇討ちを誓って剣を学んだ。
そして11か12歳くらいで敵を探し始め、二年半も全国を回った末にこの芥川で仇を発見、助三郎少年は堂々と名乗りを上げて仇を討ち取った時には十四歳だったそう。
一方、虚無僧に身をやつしていた仇の武士は、懐に「自分は人殺しだから討たれて当然、討つ方に咎はない」と、自分が仇討ちに遭うことを覚悟する手紙を携えていた。
そんなことから、討つ方も討たれた方も武士の鑑だとして、この話が全国に広まって有名になった。


もうちょい街道を行くと一里塚の跡がある。
ここが西国街道芥川宿の東端。ここからしばらく、旧宿場町を歩くことになる。
といっても、今となっては住宅地で、カメラを向けるような場所でもなかったのだけど。淀川の対岸の枚方宿のほうが、宿場町らしい面影が強く残ってるかな。


街道を歩いて行くと、教宗寺という浄土真宗本願寺派の寺がある。
お堂の写真は……ろくなカットで撮れていなかったので略。


入ると、なぜか石の風呂桶があった。
山の寺社にはちょくちょくこういうのがあるそうだけど、平地の街道沿いのこの寺にあるのは珍しいとか。


街道が芥川に突き当たった所で、橋を渡らず川を遡っていけと散策コース案内がある。
夢鯉ロード。ドリームカープへようこそ。


河川敷は、まだ咲かない桜並木の公園になっていた。
石の上を子供がバンバン渡っていく。公園の遊具が危険だとか無粋なこといわれてどんどん撤去されるご時世だが、そんなもん知るかと言わんばかり。


咲いてればなかなかの風景になりそう。

県道6号線まで来ると、芥川はいつの間にか西の方へカーブしている。
6号線で南に渡り、また川を遡っていくと、阿久刀神社というのがある。


そんな大きな神社ではない、が、延喜式内社。祭神は住吉大神だそう。
いつからあるかはわからないが、戦国時代に戦火で焼けた。維新の後の神社合祀ラッシュのとき、周りの神社があれこれここに合祀されてきて今に至る。
阿刀連が創建したともいわれ、阿久刀神社やら芥川という名前もそこからくるともいう。


摂社は一列にずらり。
なんかすごいコンクリ造りの小島神社は、弁天様を祀る。

阿久刀神社から南にいって6号線に戻り、西に歩いて行くと、畑の中になんか見える。
近づいてみると、やはり神社であった。


素盞嗚尊神社という。かつては寺だったところだそう。
創建年代も不詳、かつては神郡社(かみごおりのやしろ)と呼ばれていたとのこと。
なぜかわからないけど、なにもないほうに鳥居がある。なんだろう?


もうしばらく西に歩いて行くと、ついに今城塚古代歴史館に到達。
ここ三島野の古墳群にまつわる歴史や発掘物の展示をやっている。
できたのはつい最近で、ちょうど今一周年くらい。この日限定で高槻駅から送迎バスが出ており、かなり人が集まっていた。
はにたん、という人型埴輪型ゆるきゃらも居た。はにわ型ユルキャラといえば、私の世代ではおーい!はに丸なのだが。


館内の常設展は撮影OK。
この古墳建造の様子は等身大で、なかなかの迫力。

この今城塚古墳というのは、おそらく本当は継体天皇陵だろうといわれている。
宮内庁比定の継体天皇陵は、もっと西に行った茨木市の太田茶臼山古墳となっているのだけども、ちょっと事情があってそうなった。


だから、中にあった石棺もそれはそれは立派な凝灰岩のもの。
それを復元した棺の中には、被葬者の姿まで復元されている。いやこれ誰だって、まあ宮内庁が違うというのだけども。

撮影禁止なので写真はないが、特別展「阿武山古墳と牽牛子塚 ―飛鳥を生きた貴人たち―」も別室で行われていた。
阿武山古墳は、1934年、京都大学が地震観測所を作るべく地面を掘ったら偶然発見されたもので、盗掘されることなく被葬者が発見された稀有な遺跡。
その被葬者がまた、玉枕やら錦糸やらを纏い、夾紵棺という漆と布で創り上げる棺に眠る、非常に高貴な人物だった。
他に夾紵棺が発見された遺跡というと、牽牛子塚古墳(斉明天皇が眠ると考えられている)、聖徳太子廟、天武・持統天皇陵など。
また、遺体の腰椎に骨折があり、それが元で寝たきりのまま亡くなったんじゃないかと考えられ、それが落馬が元で亡くなった藤原鎌足と一致する。

そんなこともあるものなんだなあ、と、古代史が好きな人の気持ちが少しわかる興味深い展示。
まあ、古代史好きな人はこの話は常識として知ってそうだけれども。


そして、今や「いましろ大王の杜」と、公園になった今城塚古墳へアプローチ。


北から行くと、いきなりはにわが立ち並ぶステージに。写真には完全に収まりきってないので、もう少し広い。
歴史館でも説明があるが、妻子が行われる様子をすべてはにわで再現したディオラマが、実際にこの場所にあったそう。


近づいて見ることももちろんOK。


そしていよいよ墳丘へ。

多分継体天皇陵なんだろう、と考えられるけど宮内庁が違うというこの古墳、そういう扱いを受けているというのも、色々な不幸の重なりによる。
今城塚、なんて呼ばれるだけあって、戦国時代には信長が三好攻めのために城を築いてしまった。
しかも戦国時代末期に起こった慶長大地震のとき、どうも古墳の真下に断層が通っていたとかで、まっぷたつというか、酷い崩落を起こした。
今でも実際に墳丘を歩いてみると、変なアップダウンがあるのがわかる。
明治になって、各地の天皇陵を比定する作業が始まった時にも、あまりにもぼろぼろになってしまったこの古墳を天皇陵とするのは忍びない、というような情が働いたそうで、継体天皇陵とはされずに今に至る。
現継体天皇陵の太田茶臼山古墳は、おそらく継体天皇の時代より古い古墳。


古墳の姿がわかるような写真はイマイチ撮れていないが、南側からの一枚。
この水濠は、昔は魚釣りをよくやってたとか。

古墳から南に歩いて、また西国街道まで来て西へ歩く。
程なく、府道115号で左を見ると、神社らしいのが見えたので近づいてみた。


住宅地にたまにある感じの、小さな春日神社。
建立以来300年の古い社殿があったそうだけど、さすがに老朽化がひどくなって、昭和55年に氏子一同の寄進で建て替えられたという。
特に何、という神社でもないけれど、小綺麗でちゃんと信仰されている雰囲気があってよい。


ここから西に、しばらくずっと西国街道を歩いて行く。ただの住宅地で、特にこれというほどのものはない。
何やら藍野という名前の大学やら短大やらいっぱい集まっているエリアまでたどり着いた。藍野大学、私が受験した頃には聞いたことがないが、2004年開校とのこと。

藍野学院短大の裏に、立派な前方後円墳があるのが見える。
遥拝所へのアプローチは、標準的に前方部のある南側から。


が、なんとゲートが閉まっていて入れない。
継体天皇三島藍野陵、目前にして参拝かなわず。
なんでそんなことになってたのかな……

最後の最後でがっかりしつつ、摂津富田駅まで歩いて戻った。



今日のCAMEDIA C-300ZOOMは、ローエンドではないだろうけど、ミドルクラスというほど高くもない気がするカメラながら、使ってみると思ったよりしっかりしている。
妙に使用感の少ないきれいな個体(そのくせ液晶に瑕疵があるけど)だというのもあるけれど、プラボディなのに変なガタつきとかしなりが感じられない。スライドバリアの動きも、プラの摩擦感はあるけどスムーズ。
なんと光学ファインダーに視度補正まで入ってる。画像処理エンジンは、デジタル一眼(レンズ固定)のE-20と共通だったりも。
明確にローエンドクラスであるC-2なんかと比べると、明らかに作りが違っている。

なにしろ起動が遅いのが難だけども、起動してしまえばのろくさいカメラではない。
私の好みのせいだろうか、筐体がしっかりしてると、起動が遅くても緻密に動いてる感じが持てるので、それほど不満に感じない。CAMEDIA X-2なんかでもそう思う。

今となってはうすらでかい筐体だけど、単三電池4本も飲み込んでるだけあって、バッテリー持ちも万全。まったく不安なし。
まあ、電池に不安がなくても、スマートメディアの300万画素機となると、メモリ切れのほうがシビアになるのだけど。
64MBのスマートメディアで、HQ画質(300万画素・JPEG圧縮率ちょっと高め)で86枚と出る。。SHQ画質にしちゃうと30枚。今回はHQで運用したが、別にモスキートノイズが気になったりはしない。

1/2.5型300万画素CCD、というと、当時としては高級なものではない。
レンズは換算36-100mm F2.9-4.4の2.8倍ズーム。広角端が明るくないけど、望遠端は割と頑張ってる感じ。
液晶は低温ポリシリコンではなく、解像度も低い6万画素。

基本的にプログラムオートのカメラだけど、シーンモードがある。使わなかったけど。

操作性の面では、機械的な部分では不満はまったくない。
メニューボタンを押した直後にすぐアクセスできる項目を、この頃のオリンパスの高級機では好きに設定できたりするのだが、C-300Zでは固定。
測光モード・画質モード・露出補正にすぐ行けて、あとはメニュー内。順当な設定で問題はない。

メニュー内に、電源OFF時に設定をクリアするかどうか、という項目があり、これをオフにすると、電源を切ってもズーム位置まで何から何まで全部記憶する。
オフにすると、ストロボはオートに戻り、液晶はオフで起動し、画質モードはHQに戻るなどなど、本当に何でもかんでも忘れる。ビープ音とレックビューは覚えるようだけれど。
びっくりするほど両極端。

ISO感度は100/200/400が手動選択できる。
オートだと、広角端では1/30秒までISO60。しかしそれ以上に遅いシャッタースピードだとちゃんと増感する。望遠を使うともっと積極的に増感し、望遠端では1/100秒で増感する。
古いカメラのISOオートって、1/8秒まで増感しないようなのが多いのだけど、これはちゃんと使い物になるISOオート。
当たり前のことに思えるけど、これが当たり前になったのは意外なほど最近。特に廉価モデルは「いいからストロボ使え」と言わんばかりの増感拒否モデルが多かった。
おかげで、割といい加減に撮った割に、86カットのうち手ブレでダメになったカットはなかった。ISO60ベースで暗いレンズで、これは大いに賞賛できる。

画質は、よく晴れて絞りが絞られれば、かなりキリっとした写りをする。開放端でも、カリカリというほどじゃないにせよ、等倍鑑賞に耐えるくらい。
暗いとノイズリダクションがかかり始めて、多少解像度が落ちる。最近の高画素機ほど下品なノイズリダクションではないのだけど。

発色と露出が、ちょっと風変わり。かなりコントラストが低くて、彩度も抑えめ。
露出は常にオーバー気味だけど、コントラストが低いから、白飛びに近いところも意外と階調が残ってる感じ。飛ぶところは飛んでるけれど、ガンマ補正すると多少色が戻ったりする。
AE自体は安定していて、どんな時でも大体同じくらいにオーバー。
これならいっそ、常に-1.0補正くらいで撮って、後からレタッチするようにすればいいかも。

露出補正は、メニューボタンからすぐ下を押せば入れるから、やりにくい方じゃない。



CAMEDIAの4桁機というと、高画質や明るいレンズで華やかなイメージがあるし、3桁というと高倍率ズームの700系のイメージが強烈で、1桁は隠れ名機があったりする。
そんな中で、まったく埋もれて地味極まりないC-300Zだけど、使ってみると、まじめによくできたカメラに思える。
しかし、派手にカタログで宣伝するような部分が優れているわけじゃないから、やっぱり地味な印象は変わらない。
この地味さはちょっと愛せるものがあるね。