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2012年5月12日土曜日

奈良公園・奈良きたまち w/ Cybershot P92

どうも妙に寒い日だったが、天気はよさそうなので散策へ。
持ちだしたカメラは、Cybershot DSC-P92。




いきなりカメラの話から入るが、P92は、単三電池仕様の廉価モデルのくせに、1/1.8型500万画素CCDなんて高級機並のセンサーを使っている。
そのP92と、300万画素機のP72は、外見はほとんど全く同じ。
型番も近く、ただP72のCCDを高画素数のものにすげ替えた後継モデル、かと思わせる。
だからてっきり、P72も1/1.8型CCDだと思っていたのだが、こっちは1/2.7型だった。
CCDが違うということはレンズも違うので、かなり内容が違うカメラということになる。

あらためて調べると、Pシリーズは思ったより品番の内訳がややこしい。
CCDサイズに1/1.8型と1/2.7型が、電源にリチウムと単三が、レンズにズームレンズと単焦点があり、それらが品番の桁数や数字の大小にかかわらず混在していた。

まとめてみると以下のようになった。



P1を始祖とする大型CCD・インフォリチウム仕様のハイエンドラインと、P71などの単三電池仕様ライン。
P2を始祖とする小型CCD・インフォリチウム仕様の中級ラインと、P72などの単三電池ライン。
P3(あるいはP20)を始祖とする単焦点レンズ系がローエンド。

これらがどれも似通った見た目なのだから、中古棚やジャンク籠で正しく見分けるのはなかなか難しい。


それはさておき、近鉄電車で一路、近鉄奈良駅へ。

駅ビルに「なら奈良館」という奈良を紹介する施設が以前あったのだが、事業仕分けで廃止されてしまったようだ。


駅からちょっと南西、三条通のJR奈良駅と近鉄奈良駅の間くらいに、開化天皇春日率川坂上陵がある。
数ある天皇陵でも屈指のアクセスの良さを誇る。
私以外に参拝者がいるのも実に珍しい。

開化天皇はいわゆる欠史八代、実在しないといわれる天皇で、日本書紀にも古事記にも特に事跡が書かれていない。
欠史八代の最後が開化天皇なので、次の崇神天皇からは色々書かれているのだけど……



三条通を東に歩いて行く途中、お社が見えたのでちょっと寄ってみる。
隼神社というところで、角振隼総別命という珍しい祭神。神武天皇の大和平定の時に力を貸した神とのこと。
655年に茅努王が勅命で建立したのが始まりで、かなりの隆盛を誇った時期もあったそうだが、平重衡に焼かれてしまった。それから柿を神木として神事を続けていたが、興福寺の大火災に巻き込まれてまた焼け、今やこんな小さな祠になってしまった。


もう少し歩くと、采女神社と猿沢池。
天皇の寵愛を受けていたが、それが薄れたのを苦しんで猿沢池に身を投げた、という采女を祀る。池の方を向けて建てたが、入水した池をずっと見ているのは忍びないからと、勝手に社が回転して背を向けたそう。


興福寺境内に入って、国宝の三重塔。
興福寺は相変わらず改築中で、平成35年まで続く。長い。




興福寺を東に抜ける。
奈良の珍しい風景ともいわれる鹿注意標識と、横断歩道を渡る鹿。
奈良公園の鹿は結構賢いので、ちゃんと横断歩道を渡る。といいたいところだが、赤信号で歩き出して車を止めさせていた。



見とるで。


つぶらな瞳の子鹿。成獣は人に慣れてるを通り越して舐めてるくらいだが、子鹿は結構人を怖がって逃げる。


なにやら格好のいい建物があると思えば、奈良国立博物館の仏教美術資料研究センター。
もともと奈良県物産陳列所として1902年に建てられた。
水・金に資料研究者に公開されているようだけども、建物見たいという見物客(私)は入れてくれそうにない。


今歩いてる、この建物の前の道は、春日大社への参道であり、道の脇には常夜灯がいくつも建っている。

それから、謡曲史跡保存会の看板があった。「春日竜神」の舞台だとのこと。
この謡曲史跡保存会の看板、意外といろんな所にある。どういう組織なんだろう、とネットで検索すると、なんか内紛起こして分裂してるっぽい形跡が。



いよいよ鳥居前に到達すると、859年に建てられた車舎(くるまやどり)。
天皇と勅使、藤原氏の高官しか使えないという牛車用ガレージ。ビールケース積んでいても重要文化財。


鳥居をくぐっていく。
これはまさに世界遺産級……


入ったらまずは祓戸大神を参って体を清める。基本。


本殿へ向かう。
楼門から続く回廊が、地面の傾斜にあわせて曲がっている。
献灯がよほど多いか、本殿に近づくほど燈籠だらけになっていく。


拝所。
本殿は第一殿から第四殿。順に武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神を祀る。
奈良に都が作られて、三笠山の頂上に武甕槌命を祀ったのに始まり、768年にはあとの三柱も合祀して社殿を造営した。


南側へ細い道があり、道沿いのこういう小さなお社が並ぶ。これらを巡る、十五社巡りというのをやっている。


時に大きいのもあり、十五社の第一番納札社たる若宮は立派。
天押雲根命を祀る。天児屋根命の子にあたる神。



第十五番納札社の夫婦大国社。縁結びの神様。
神社なのに屋内に祀ってあり、座敷に上がる感じで参拝する。寺みたい。



また参道を行くと、三十八所神社。
複数の神社を合祀して八社神社とか十社明神となってる神社は珍しくないが、38はさすがに珍しい。合祀してついた名前かどうかもわからないけれど。
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊と神日本磐余彦(神武天皇)。あと35柱ありそうな気もするけれど。
春日大社の摂末社だけあって春日造りのお社が多いが、これは流造のよう。本社との関係性によるのかな。


それから金龍神社。禁裏殿ともいう。
元弘の変の折、後醍醐天皇が春日大社に潜幸し、鏡を奉納して天下泰平の祈祷を行ったことから始まった。


こういう遥拝所もあり、十五社のうちに数えられている。
春日明神、伊勢神宮、枚岡神社の三所。


一番南にあるのが紀伊神社。

このまま南に抜けて志賀直哉旧居など見るのもいいのだけど、私の目的地は異なるので、北に折り返し。


本社の前を通り過ぎて北側にも、やはり摂社がいくつか。
まず総宮神社。名前だけあって天照大神やら八幡大神やら春日大神やら白山大神やらと錚々たる祭神が並ぶのだが、御神徳は住居を与えてくれる、となっている。


一言主神社。


少し離れて水谷神社。みずたににあらず、みずやじんじゃ。
素盞嗚命、大己貴命、奇稲田姫命を祀る、病気避けの神社。


ここまでくると視界がひらけ、若草山が現れる。
確か小学校の頃に遠足かなんかで来たことがあるなあ。

山の向かいは土産物屋が並び、修学旅行らしい中高生がうじゃうじゃいる。そういう季節。



横手からのアプローチになってしまうが、若草山のとなりの手向山八幡宮へ。


なかなか趣ある感じの摂末社。


神楽所なる古い建物がある。
建物は県指定の文化財とのこと。壁画は頼光の鬼退治を描いたものだそうだが、残念ながらこの保存状態。


ひどい写真だが、手向山八幡宮。
短い奥行きに楼門・拝殿・本殿と詰まっているので、撮影位置を取りづらい。もっと離れて楼門だけ割り切るのがベターだったかな。

聖武天皇が奈良の大仏を造営するときに宇佐八幡宮から分祀してきた。
東大寺の鎮守として大仏殿近くの池の端にあったが、1250年に北条時頼がここに移した。



東大寺の三月堂と四月堂。


二月堂。これは荘厳。まさにWorld herritage。
新宮とか高野山もそうだけど、世界遺産になると外国人が増える。大勢いた。さぞエキゾチック・ジャパンを楽しんでることだろう。


二月堂の南側をちょっと上がると、飯道神社というお社がある。
甲賀の飯道山に本社があるそうで、この分社も1283年に井垣を改修したという記録があるそう。


二月堂の廊下から。


北側にもまたお社があり、こちらは遠敷神社。
平安時代から東大寺の記録などに残っているが、今のお社は19世紀に再建されたものか、とのこと。

東大寺大仏殿は、混んでそうなのでパスして、奈良公園を北に抜けた。
鼓坂小学校の北側の道から国道369号へ。

途中で小さな八幡神社と、八鐵神社というところを見かけたが、門を閉めていたり特に由緒も何もなかったり。
この先も、街中にぽっと小さな古い神社を発見するのだが、どうも門を閉めてあるところが多い。寺が閉まってるのはよくあるが、神社が閉まってることはあんまり多くないと思うのだけど。

北に行くと、国道は川のところで東へ分岐していく。私は徒歩なのでまっすぐ。
古い住宅地らしいところを歩いて行くと、北山十八間戸というのがあった。


ちょっと写真失敗。ここも門が閉まっていて入れず。
鎌倉時代中頃、不治の病に掛かった人を受け入れる施設として、ここの少し北にある般若寺の東北に作られた。その後一度焼けたので、江戸時代の初め頃の寛文年間に、東大寺や興福寺を眺められるこの場所に移った。
二畳間をずらっと18間並べた建物。

北へとまた歩いて行く。古い街道なので、道沿いには商家があったような雰囲気が残る。


真言律宗・般若寺の楼門が見えてくる。
国宝だが、かなり老朽化が進んでいるようで、ここから出入りはしないようにしている。
鎌倉時代のもので、楼門としては日本最古の部類とのこと。

高句麗からの渡来僧・慧灌によって開かれた。聖武天皇が平城京の鬼門を守るために、大般若経を納めた塔を建てたことに由来する名前。
学問寺として栄えた時代もあったが、平家の南都攻めに遭って炎上。
鎌倉時代に、西大寺の叡尊上人が文殊菩薩をここに祀って復興した。
叡尊は真言律宗中興の祖といわれる僧。彼自身は真言宗の復興のつもりで活動していたが、活動内容から律宗の運動だと見られていたりしたそうで、真言律宗、と名乗るようになったのは江戸時代のことだそう。
弟子の忍性とともに貧民救済にも力をいれていたそうで、北山十八間戸もその一環。

もうちょっと北に入り口がある。


境内は、やはり十三重の石宝塔が目立つ。
寺自体同様に平安末期に戦災に遭っているが、叡尊が寺を復興するより少し前、良恵がこの塔を復建した。その後もやっぱり何度も戦災天災に遭っているが、今の姿は1964年に大修理を受けたもの。


お堂。古くて立派なのだが、どうも、やや老朽化しているのが心配。
中には本尊の、文殊菩薩騎獅像や叡尊上人の木像などが安置されている。
また、南朝の大塔宮護良親王が身を隠して難を逃れた唐棺などもある。


境内は花が多い。
この寺としては5月は時期はずれで、秋になると、コスモス寺といわれるほど咲くそう。
50年前に当時の住職がコスモスの種を撒いてみると、これが見事に群生して花浄土の如くになって、それが名物になり、秋には目当てに参詣する人も多くなったとのこと。
戦後の再興の時代からだから、日本ではコスモス名所の草分けという。

早咲きのものは6月くらいから、11月までコスモスは咲く。
梅雨時にはアジサイもあるそう。また、もう少し早ければヤマブキも咲いていた。


しかしやはり、鎮守社がこの有様というのは惜しい。桃山時代から残るものだそうで、壊すわけにもいかないようだ。

明治の廃仏毀釈のときに酷くやられて、第二次大戦後に復興されるまで住職も居ない荒れ寺になってしまっていたそう。
復興されたものの、墓地が見当たらないあたり、もしかすると檀家が失われてしまっていて定収がない寺になっているのかもしれない。
近頃、奈良きたまちと称してこのあたりの観光アピールが行われているそうなので、もっと参詣する人が増えればいいんだけど。



向かいに、植村牧場というところがレストランや休憩所兼物販店を開いていた。
ここでソフトクリームを買って一休み。濃厚な味で美味。



さらに北に歩いて、奈良豆比古神社。式内社。
光仁天皇の父である田原太子が病気療養のために隠棲した神社がここであるという。


祭神は春日王で、芸能の神様。
祭りで奉納される「翁舞」は、無形文化財に指定されている。1413年製の面が残っているから、少なくともその頃にはあった形で今まで伝わっている。

もう少し北に行くと県道745号に合流。しかしすぐに左に曲がって西へ行く。
元明天皇陵の北を通る道だが、天皇陵のすぐ隣にラブホテルあるのはどうにかならんもんかなあ。綏靖天皇陵の近くもそうなんだけど。

県道44号をわたって、先に元正天皇奈保山西陵へ参る。


すっきりした眺めが得られる御陵。なぜか碑文の字体がかわいい。

元正天皇は女帝で、文武天皇の姉で聖武天皇の伯母。
在位中は、大宝律令が早くもちょっと怪しくなってきて、三世一身の法とか制定したりしている難しい時代。日本書紀が完成した時代でもある。


続いて、元明天皇奈保山東陵へ。こちらは碑文は普通の明朝体。
遥拝所は陵墓の南東端にあるので、県道44号からは少し離れた側。

こちらも女帝で、元正天皇の母。夫の草壁皇子は天武天皇の子なので、元明→元正の相続は男系相続。
在位中に平城遷都があった。また、秩父から国産の和銅が献上され、喜んで元号を和銅に改めたり、和同開珎を鋳造したりもしている。


県道44号を南下していく。


すると、奈良ドリームランドの跡地が。
入口近くには、80年代のままの姿で残るレストランなんかも、まだ生き残っていたりする。近くに奈良テレビとか鴻ノ池陸上競技場などがあって、まだある程度の客は来るようだ。


鴻ノ池運動公園を南東へ通過し、住宅地を南下。


聖武天皇佐保山南陵。
遥拝所へは南のほう、県道104号が川を渡る直前のところから入る。
今こうして奈良が世界遺産とまでされているのも聖武帝のおかげといえる。


また右手に、仁正皇太后陵もある。こちらは佐保山東陵。

佐保川を東に渡り、佐保川天満宮というのが見えたが、あいにく町の集会所の一部に取り込まれていて、門がしまっていた。
奈良女子大の東側の道を南下していく。


初宮神社、という古そうなお社があったが、やはり門が閉まっている。

もう少し歩いて、近鉄奈良駅へ戻った。



今日のサイバーショット DSC-P92は、さすがにこの形のサイバーショットとしては後期のものだけあって、煮詰まった製品。

今回は東芝製2500mAhのニッケル水素電池で、6時間・220カットほど撮影したが、バッテリーインジケーターは半分とフルを行き来する程度。まだ撮れそう。
動作もそこそこ速く、起動は2秒半くらいだから今となっては快速とはいえないものの、撮影レスポンスは良好。バッファを多めに撮ってあるようで、撮影後の待ち時間はゼロに等しい。
以前のモデルでは、メニューの操作も若干もたつくようなところがあったが、それも解消している。

P10の兄弟モデルのP92ではあるが、よく見るとレンズのスペックは若干違う。
P92は39-117mm F2.8-5.6で、P10は38-114mm F2.8-5.2。
P92のレンズは、スペックから見ると先代のP9/P7と同じもののようだ。
もしかすると、500万画素になるにあたってより高解像度なレンズにしたP10と、400万画素世代の使い回しで済ませたP92、というランク付けがあったのかもしれない。

思い込みかも知れないが、開放では少しだけレンズ解像度が足らず、ふわっとした感じがあるかもしれない。
そしてそのせいかどうかわからないが、やたらと絞り込みたがる。開放端でF5.6 1/60秒なんてカットがある。
で、望遠端でも同じように絞り込みたがるようで、晴れてるのにF10に絞って1/60秒とか提示してきて手ぶれ警告を出す。
多分、1/60秒までは絞って、それ以上暗ければ開放にするという、絞り込み優先のプログラムラインだろう。
写りを見ると確かに絞ったほうがいい感じなので、絞り込み優先が悪いとは思わないけれども、せめて望遠なら1/200秒から開放とかにならんものか。
少なくとも、鹿を撮りづらいカメラなのは確かだ。シーンモードなんかでプログラムラインが変わるなら、そうしたほうがいいかもしれない。

また、この頃のサイバーショットは大体みんなそうなんだけど、どうにも逆光に弱い。コントラストは落ちるわゴースト出るわ。

露出は、わりと平均に近い素直な感じ。評価測光ではあるはずだけれど。
私の好みより若干オーバーかな。ただ、私の好みがアンダー寄りなだけかもしれない。
露出補正はメニューの中だが、メニューボタンを押せば前回使った項目にカーソルがいるので、露出補正を何度も使うことに問題はなし。

もうひとつ引っかかるのは液晶がショボいことで、小さいし、見えにくい。
どうも上位モデルのP10でも同じモニターのようで、これではちょっと今一つ。低温ポリシリコンTFTにできないほど低いクラスの製品じゃないと思うのだけど……
最悪、光学ファインダーで使えるから、まあいいのだけど。


プログラムラインの癖以外はごく普通。2003年当時としては完成度高いように思う。
CCDリコールが掛かってるモデルだが、私の手にした個体は無事だった。
今まだ大丈夫なだけか、一度修理に出しているかはわからないけれど。