初詣は、ちょっと滋賀に行ってみる縁があったので、近江神宮へ行くことにしてみた。
比叡山から坂本に抜けて行ったことはあるのだけど、近江神宮は前を通り過ぎてしまった。なので今回初めての参拝。
浜大津駅で、とりあえず昼食。
駅前のアーカスというショッピングモールで、焼肉屋に入ってランチメニューの近江牛丼など頂いていたら、窓の向こうでは消防の出初式が。
琵琶湖一望のなかなか景色のいい店であった。
浜大津駅から、京阪で近江神宮駅まで。
駅から神宮はちょっと離れているが、そこまで向かう道々に、近江大津宮錦織遺跡がある。
667年に天智天皇がいきなり遷都した大津京だったけれど、しかし建都5年で天智天皇が崩御。
一応大友皇子が後を継いでいたものの、すぐ壬申の乱が起き、大海人皇子(後の天武天皇)によって大津京は攻め滅ぼされてしまった。
大津宮は、ここの他にもう少し北の南志賀や滋賀里にあるという説もあった。
しかし昭和49年からの発掘調査で、ここ錦織に大規模な遺構が見つかったため、ここが大津京の内裏だったと確定された。
写真に写っている杭が、内裏を囲む柵。右手側のちょっと盛ってあるところが内裏南門だったそう。
柿本人麻呂がやってきて読んでいった歌の碑も。
もう少し北に行ったら、天智天皇がまさに政を執り行っていた内裏正殿とされている場所にくる。黒っぽい舗装の部分がそう。
ここに立って南を向けば天智天皇の気分が……なんて言ってたら不敬と怒られるかもしれないが、内裏跡をもろに県道47号線が貫いていて、いつも大勢の人が車で通ってしまっているから、もっと不敬といえばそうなる。
更にもう少し北にいけば近江神宮。
さすがに鳥居も立派。
各パーツどれも、一本の丸木から切り出した無垢材……と思ったら、上の部分の笠木・島木は真ん中でふたつにわかれている。加工の都合かなにかあるのかな。
上がってみると、歌碑がたくさんある。
これは保田與重郎のもの。「さざなみの しがの山路の 春にまよひ ひとり眺めし 花ざかりかな」
楼門が派手だ。割と最近塗り直したりした感じ。
近江神宮は敷地は広いのだけれど、摂末社が方々に点在したりしていないせいか、神社らしく感じる範囲はコンパクトに思える。
そのかわり、天智天皇が日本で初めての時計とされる漏刻を置いたというエピソードから、境内に時計博物館があったり(最近時計館宝物館というちょっと微妙な語感の名前に変わった)、スイス・オメガによる復元漏刻が置かれていたりする。
おみくじ引いたら吉だった。
要約すると「上手くいってるようでも油断するな」みたいな感じ。
拝殿右手に摂社があったが、何をお祀りしてるんだろう。
漏刻。
天智天皇が漏刻を置いたのは、671年4月25日だったそうで、暦を改めて6月10日が時の記念日に定められている。その日には、ここで「漏刻祭」をやるそうだ。
時計館宝物館に入ってみると、漏刻や火時計・日時計などの古代時計から、現代のGPS電波時計まで手広く展示してあった。
そんなに物量で来るわけでもないけれど、戦艦の艦橋にあった掛け時計やら、世界初のデジタル腕時計、数々の和時計などいろいろ珍しいものもある。
現代的な時計、音叉時計からクォーツ、電波時計へ……といった時代にはさほど触れていなかったけれど、このへんはまあ、ネットで調べてもわかるし。
旧大津地裁の車寄せが移設されている。
かの大津事件を裁いた裁判所が、昭和46年に取り壊し・建て替えとなるにあたって、名残を惜しまれてここに移設された。
天智天皇は近江令を制定したことから、法律の神様ともいわれるので、その縁もあってのこと。
近江神宮の裏手の山に、宇佐八幡宮というのもあるので上がっていってみる。
そういえば福岡行った時にも同じ名前の神社があったような……と思ったが、あれは宇美八幡宮だった。
大分にある宇佐八幡宮(宇佐神宮)が、全国の八幡宮の総本社だそうだけど、大津のこれは何か由来があるのかな。(この神社には由緒書きなど全く見当たらず)
御足型、というのがある。
源頼義が八幡宮を創建するべく下見に来たら、神の使いの鳩が現れ、しかるべき場所へと誘導してくれたという話がある。
この岩のくぼみが、その時のご神示の跡だそう。神鳩の足あとにしては大きい気もするが、頼義の足にしては小さい。
かなり急坂を登る。
ほんの700mというものの、20度以上ありそうな坂道をがしがし登らなけりゃいけない。
一応車道もあったが、大型の乗用車だったら脱輪しそうな狭い舗装しかない道が、申し訳程度につづら折りになって傾斜を抑えているだけ。クラウンがギャップでバウンドしながら爆走してきたけれど、慣れてる人だったんだろうか……
しかし初詣客の多い近江神宮と違って、こちらまで登ってくる人は少なくて、静謐な雰囲気。
ちょうど950年ということは、1163年創建か。
下山してぶらぶら南に歩く。
京阪乗ってもいいんだけど、1キロくらいの距離でなー、というところで。
大津市役所が見えてきたところで、西側にちょっと入る。
市役所裏手に、弘文天皇長等山前陵がある。
弘文天皇は、天智天皇の皇太子として大津宮を継いだけれど、すぐ壬申の乱で大海人皇子、のちの天武天皇によって自害に追い込まれた。
大津宮を継いだ時点で、天皇に即位していたのか、していなかったのかは意見が分かれる。どっちにしても治世は5ヶ月と短く、明治になって諡号されるまでは歴代天皇にも数えられていなかった。
即位していたという説の立場からは、日本書紀が書かれた時には天武天皇の系統の天皇が続いていて、その祖たる大海人皇子が天皇を弑逆して即位した、とは史書に残せなかったんじゃないか……という歴史のミステリーがある。
また、弘文天皇は壬申の乱で自害せず、東国に逃れたという伝説もあり、神奈川や千葉に遺跡があるとか。
もう少し奥に、新羅善神堂という……神社?がある。
園城寺の円珍という僧が、唐から帰ってくるときに新羅明神という神が現れ、それが仏法を護る神だというので祀るようになったとか。
園城寺は一度秀吉に破却されているので、それ以前の建物は少ないらしいけど、この新羅善神堂は1339年に足利尊氏が再建したものが国宝に指定されて今もある。
源義光がここで元服したから新羅三郎と呼ばれるようになったりも。
新羅善神堂から、山へ脇道があって「三井寺」と案内板があったから、そっちに入っていってみたらこれが大変なことに。
今までにも登山したり、ケーブルカーで上がった山から歩いて下りたりして山道に入ることは多かったけど、この道は酷い。崩落してほとんど歩く所ないような場所がいくつも。
これはやばいやばいと言いながら、ほんの400メートル弱を必死で歩いて、「若鷲の碑」というところに出た。
大津陸軍少年飛行兵学校があった場所だそう。現在は大津商業高校がある。
すぐ近くが、大津市歴史博物館。
閉館間際だったので若干慌ただしく見学。
膳所焼の紹介もあったり、堅田あたりで蓮如や一休が絡む仏教絡みの話があったり、もちろん坂本と比叡山の話も。大津各地の歴史を広く浅く、あとは行って見てみなさい、くらいの調子で紹介する。
ただ、「比叡山ゆかりの高僧」といって法然、親鸞、日蓮、道元といった名前を挙げちゃって、それはさすがにどうだろうと思ったりも。そりゃ延暦寺で出家したのはそうだけど、それは当時そうしなくちゃいかんかっただけで、むしろその後は比叡山に弾圧されてた僧なのに……。
ここから園城寺に向かったのだけど、あいにくもう5時で、入り口の窓口に人がいない。
日も落ちてしまったので、今日はここまで。
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